
2025年2月号特集
Vol.323 | 本当の国語教育を知っていますか?
メタ言語で見えてくる私たちの勘違い
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2502/
船津洋『本当の国語教育を知っていますか?』(株式会社 児童英語研究所、2025年)
記憶に頼る「日本の教育」
『パルキッズ通信2021年7月号「風が吹けば桶屋が儲かる」』で、幼児期に絵本をたくさん読んでもらう子は、小学校で国語ができるようになり、国語ができると算数が得意になり、算数ができる子どもは中学で数学が得意になること、さらに、社会科は当然、理科もできるようになることを書きました。しかし、なかなかそのことは気付かれずにいます。その結果、「国語は苦手だけど算数は得意」とか「現代文はともかく古文ならなんとかなる」などという妙な勘違いが生じています。
実際に小学校低学年では、算数は四則の計算ばかりなので、反復学習をさせればどうにかなります。しかし、計算問題が得意でも、文が絡んでくる中・高学年になると算数が苦手な子どもが増えていきます。また中学・高校の古文が現代文より云々に関しては、単なる偶然でしょう。
『パルキッズ通信』でも繰り返し紹介している『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著 東洋経済新報社)では、簡単な命題が理解できない小中学生の多さが紹介されており、読めば読むほど現在の子どもたちの読解力・理解力・想像力、ひいては学力の低さを心配するばかりです。
つまり、国語ができないことには、数学も古文も漢文も、社会科も理科も、さらには学校英語もできるようにはならないのです。(学校英語と書きましたが、これは「パルキッズ」などの母語方式で英語を身につける子どもたち、あるいは留学生や帰国子女の英語力の話ではありません。あくまでも、文法訳読に気持ちだけ会話を付け足したような英語教育の話ですので、ご心配なく。)
国語ができないと、国語ばかりでなく他の教科の成績も上がらない理由は簡単です。国語ができないということは文章理解が苦手なのです。物語や小説はイメージされやすいように書き手の方が文章に工夫をしていますので、理解(心内表象化)は比較的容易です。つまり一度で理解できます。しかし、教科書は別物です。教科書で使用される説明文では、必要最小限の記述がなされることが多いので、豊富な語彙や知識、あるいは前後関係の理解力を持っていなければ、一読で理解することは困難です。小説は一度読めば用が済みますが、教科書(説明文)は繰り返し読むのが普通ですし、読む度に理解が変わってくるのを感じた経験がどなたもあることでしょう。
学校の授業では与えられた課題に対する出来・不出来の評価は可能ですが、それぞれの子どもの理解力の程度、つまり国語力の様子はなかなか掴めません。それもそのはずです。まず教員のやることが多すぎて、一人ひとりの様子をじっくり観察する時間が足りません。それ以前に、子どもの語彙力や理解力を精査することが、そもそも行われていないのです。従って、どの子どもも同じような理解力を持っていることが前提となり、勉強ができない子どもは記憶力が足りない、あるいは努力が足りないと判断されます。
理解力が低い子どもでも、音読の練習をすれば文章をスラスラ読めるようになります。しかし、彼らの頭の中では、音声化された文が未消化のまま右から左へと通り過ぎていきます。そんな子どもたちが少しでも良い成績を取るために最後に用いる手段が「記憶」です。『パルキッズ通信』でも何度も触れていますが、記憶は低次の心理作業です。「理解」できる子どもは、消化した内容をより高いレベルに抽象化しているので、物の名前などを除けば、すべてを記憶する必要がありません。
余談ですが、時折目にする「忘却曲線」、つまり「繰り返し復習しないと忘れてしまうよ」の文脈で散見する例の研究ですが、この古典的実験は「無意味語」の記憶保持を調査したものなので、それが「学習」の場に引き合いに出されることにセンスのなさを感じるのは、私だけではないでしょう。教育現場では、教務内容を「無意味」とは考えていないでしょうから。
しかしながら、すべてを記憶する必要のない、理解力の高い子どもでない場合には、原理の理解を前提とする方程式も、記憶する以外ありません。それが現在の学校教育、あるいは塾、あるいは通信教育などで行われている学習の主流です。
脆弱なメタ言語
中学になると国文法を学びます。日本の教育システムは、つくづく諸外国との関連や教科間で「足並みを揃える」ことが好きなのかもしれません。その結果が、西洋のキリスト教史観で作られた世界史の教科書であり、その世界史の教科書の時代区分に合わせた日本史の教科書です。国文法も、中学から始まる英文法に足並みを揃えているのでしょう。
国文法を学ぶことは別段悪いことではありません。普段は意識に上ってこない、それにもかかわらず正しく使用できている、日本語の文法体系を内省するのには絶好の機会です。しかし、内省できるのはほんの一握りの学生で、おそらく大半は動詞の様々な活用を「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」「か・き・く・く・け・け」「ま・み・む・む・め・め」などと記憶しているだけではないでしょうか。
国文法は、すでに我々の頭の中に存在するのです。5歳の幼児でも日常会話において活用を間違えることはありません。抽象度が高く比較的難しいとされる「こ・そ・あ・ど」や「私・あなた」など照応系、「主格・対格・与格」など格助詞、あるいは「あげる・もらう・くれる」などの授受動詞でも、小学生になる頃にはほとんどの子どもがマスターしています。それを中学生が「なるほど、普段使っているのはこういう体系か」と “理解” するのではなく、「か・き・く・く…」と “記憶” するのですから、なんのための学習なのでしょう。
このような、心では分かっているものを記憶せざるを得ない、トンチンカンな現場を説明するのに「メタ言語」という便利な概念があります。
メタ‐げんご【メタ言語】《metalanguage》対象言語の構造や真偽を一段高い次元から論じる言語。高次言語。→対象言語 [デジタル大辞泉]
定義のとおりなのですが、噛み砕くと「メタ言語」とは「言葉について考えるときに使う言葉」のことです。例えば、国語科の授業はまさしく日本語を使用して日本語について考える授業ですし、英語科も日本語を使用して英語について考える授業です。さらに、対象についての考察を深めたりするのにもメタ言語を使用するので、日本史で「幕府とはなんだろう」とか、算数で「足すと掛けるは似ているな」などと、国語や英語などの言語の教科以外にもメタ言語は使用されます。
優れたメタ言語を持っている生徒たちは、対象について “思考” し、結果として “理解” することになります。他方、メタ言語の能力が貧弱な子どもは “理解” することを諦め “記憶” に専念するようになります。繰り返しになりますが、優れたメタ言語を伸ばす教育は学校では行われません。そして、脆弱なメタ言語の持ち主たちに、「いかに記憶させるか」あるいは「なんとか理解してもらうか」に、教師も生徒も、あるいは親までも奔走・疲弊しているのが今の日本の教育のあり方でしょう。
このように、メタ言語の優劣が子どもの学習姿勢、つまり “理解” なのか “記憶” なのかを分けてしまっていることに気づくことがなければ、「なぜ、あの子は大して勉強もしていないのに勉強ができるんだろう」と優秀なメタ言語の持ち主に対して羨望の念を抱いたり、「なぜ、この子は四六時中机に向かっているのに成績が上がらないのだろう」と不思議に感じたりすることもなくなるでしょう。
メタ言語の視点で分析する
このメタ言語からの視点で見ると「学習すること」「理解と記憶」の本質が見えてきます。例えば、英語です。
留学もせずに英語が得意な子どもたちを見ると、ほとんどの人たちは、あるいは本人も含めて「英語が好きだから得意になった」と結論付けることが少なくありません。現に「好きこそものの…」の伝で、現在の英語教育は、その方向の修正が行われつつあります。好悪の情などという「主観」的な要素、あるいはアンケート結果を見て「好きだから上手になったのだ」と結論付けられてはたまったものではありません。英語を好きで好きでたまらないのに、一向に英語を身につけられない人たちの存在には目もくれていないわけです。本当に、取って付けたような論理がまかり通る、思考停止の世の中です。
では、優れたメタ言語、つまり国語力を持っている人たちは、なぜ英語が得意なのでしょう。単純な話です。彼らは国語と英語の「違い」に着目できるのです。例えば、英語科では主語は「~は・が」と教わります。’I am a student.’ は「私は(が)学生です」と訳されることになります。この場合の「私は学生です」と「私が学生です」の文の意味は同じでしょうか。 “違う” という直感が働きますね。
それでは、日本語の「~は・が」は、異なる意味を持つでしょうか。日本語母語話者であれば、これまた意味は “違う” と感じるでしょう。日本語では、主語には格助詞「が」が後続します。「は」は係助詞と呼ばれ主語でなく主題を表します。「私が学生です」は、すでに話題に上っていることに対して「私が」と主語で答えています。他方「私は学生です」は、”自分” という主題に関して述べています。
つまり、日本語の「私は学生です」と「私が学生です」は、学校英語的には両方とも ‘I am a student.’ となりますし、これでバツ(不正解)をもらったら、たまったものではありません。しかし、日本語と比較して英訳すれば、それぞれ ‘I am a student.’ ‘I am the student.’ と、日本語には存在しない「冠詞」によって区別できることに気づくでしょう。
留学もしていないのに英検準1級以上を取得できるようなツワモノどもは、このように優れたメタ言語、つまり優れた国語力を持っているのです。同時に国語力に優れている子どもは現代文の理解のみでなく、古文や漢文もメタ言語としての国語力をもって臨めるので、英語同様に理解を深めることができます。そして、当然のことながら、留学もせずに英語を身につけられるような国語力に優れた学生たちは、社会科はもちろん、数学や理科でも優れているのです。
幼児とメタ言語の関係
優れたメタ言語、つまり優れた国語力を持つことが、国語ばかりでなく、まったく無関係と感じられる理科の成績にも影響すること、さらにはこれまた無関係と思われる英語力(イマージョンに依らない英語教育)にも直接関係していることはご理解いただけたと思います。『パルキッズ通信2025年1月号』の最後に「パルキッズの成果を実感するためには優れた国語力を育てること」と少々舌足らずに書きましたが、ここまで読んでいただければ、モヤモヤはないと思います。「そんなことより、どうすれば良いのか?」という声が聞こえてきそうですが、焦らずもう少しお付き合いください。
優れた国語力を身につけることに成功した学生は、その能力を活かして古文・漢文、あるいは英語を、国語と対比しながら身につけていくことができます。国語力と英語力には一定の相関関係があるといくつかの研究で示されています。しかし、現代文と古文・漢文の間の相関関係については、まだ研究が殆どなされていません。しかし、現代文と古文・漢文を融合させて、現代文の視点でそれらを理解するような取り組みが始まっています。つまり、国語をメタ言語として古文・漢文を学習するような取り組みです。
ちなみに、古文も漢文も立派な日本語です。時代と形式が異なることを除けば、英語圏の人が中英語の「カンタベリー物語」を読むのと大差ないでしょう。余談ですが、体験談として紹介すると、古英語の「ベオウルフ」や既出の「カンタベリー物語」も、かじった程度ですが触れたことがあります。語順や発音、あるいは語のスコープが違うのに加えて、単語も現代の英語とは異なりますが、どう見ても英語でしたね。また、ラテン語やフランス語を学習した際には、メタ言語として日本語を使うのではなく、英語を使う、つまり英語に訳してしまったほうが、直感的に理解できたので、自分の中では気付けば英語がメタ言語となっている時もあったわけです。
さて、このようにあらゆる学力のベースとなるメタ言語です。勉強するには不可欠であり、とても便利なメタ言語ですが、幼児の場合にはどうなのでしょう。幼児にもメタ言語はあるのでしょうか?もちろん、幼児もメタ言語を使用しています。例えば、車が好きな子どもは「車」についてあれこれ思いを巡らせます。そのときには、日本語(母語)がメタ言語です。
しかし、国文法を理解するような、あるいは国文法に照らし合わせて留学することなしに英語を身につけられるような優れたメタ言語は、どう考えても幼児には期待できません。
そのような、メタ言語が未発達な幼児には、どのように英語を習得させられるのでしょうか。文法の先取りでしょうか。あるいは和訳させるのでしょうか。これらはどちらも古典的な学校英語のやり方です。要するに、このやり方で臨む場合、優れたメタ言語の持ち主でなければ、英語は克服することができない対象です。それを先取りすることは、一般的な中学生よりもさらにメタ言語力の乏しい幼児にふさわしいやり方でしょうか?答えは言うまでもありません。
それでは、英会話でしょうか?パターンを学習させる古典的条件付けや、モチベーションに頼るオペラント条件付けでは学習の深度や達成度は高が知れていることは、『パルキッズ通信2024年12月号』で触れたとおりです。その上、メタ言語も未熟となると、国語を活用した英語学習も叶いません。
このような低年齢の子どもに対する英語教育は、インプットによる継続的な環境づくりと、それに順応して子どもたちの脳が勝手に統計学習を始めるのを待つ以外にないのです。
なぜ日本人は英語も国語もできないのか?
日本人は英語が苦手です。戦後暫くは日本の教育制度を見習っていた近隣の国々も、「こりゃダメだわ」と気付き方向転換することで、近年英語力は上昇傾向にあります。しかし、他方、日本では「コミュニカティブだ」「改革だ」と毎度のごとく威勢は良いのですが、中身が伴っていないようです。
それでは、なぜ日本人は英語が苦手なのか。一言で言えば「英語が必要と感じていないから」でしょう。これは意識下と無意識下の両方において、そう感じているからと言えます。意識下とは「英語が必要」と自覚していないことを意味します。ここに至って、「それでは、英語が必要と意識させれば良い」と考えたのかそうでないのか真意のほどは知りませんが「大学入試で、読み・書きだけでなく、聞く・話すも入れれば良いのだ」となり、5年ほど前の大学入試英語改革の試みとその大失敗へと続きました。
いずれにしても、国語力が低く、その他の科目の学習もうまく行かないような学生は、英語から逃げては、また取り組む、そしてまた逃げるを繰り返すことになります。思考力が低いので、結局教科書を読んでも記憶する以外に方法がなく、複雑な文法を直感的に理解することなど不可能なのです。
もう一方の無意識下に関しては、上で既に述べましたし、過去の『パルキッズ通信』でもことあるごとに述べている次第です。つまり、環境に大量の言語のインプットがあれば、脳は本人の自覚とは関係のないところで「これは必要な言語であるから分析開始!」とスイッチを入れるわけです。このスイッチを入れるためのインプットをしないのですから、脳はいつまで経っても「これは要らない言語」と、英語を切って捨てているわけです。
では、なぜ国語もできないのでしょうか。これも、英語同様に「必要と感じていないから」と言えますが、英語とは少し事情が異なります。「国語が大切」というのは知識人の直感なのでしょう。しかし、論理的に「国語力が学力の根幹だ」と説明できたり、その上で自覚的に「国語力を高めよう」と考える人は意外と少ない気がします。もちろん「国語が大切だ」ということで、国語教育に熱を入れるご家庭もあるでしょう。しかし、問題は熱の入れようです。この点は後述します。おそらく、高い国語力を持っている人は、特殊な「国語環境」が与えられたわけでもなく、周囲の環境によって “自然と” そうなってしまったのではないでしょうか。
それでは、”自然と” 高い国語力を身に着けてしまう人に共通するものは何でしょうか。意識下では「国語は必要」と感じないのですから、無意識下に「国語が必要」と感じることが必要でしょう。あるいは無意識のうちに国語力を伸ばしてしまう環境が必要となります。
17世紀の哲学者 ルネ・デカルトの提唱した命題、ラテン語訳の “cogito ergo sum” は「我思う、ゆえに我あり」という意味です。もう少し突っ込むと、彼の真理探求において彼自身の存在を含めあらゆることに疑問を投げかけるのですが、「自分の存在を疑っている自分は存在する」という矛盾に突き当たります。また、同じく17世紀フランスの哲学者パスカルは「人間は考える葦」と似たようなことを言っています。
古くはソクラテスの「無知の知」(自分の無知を知っていること、つまり人間を「考える存在」として捉える)、あるいはその弟子のプラトンでは、思考が真実に到達する手段と考え、さらにその弟子のアリストテレスなどが思考を重要視しています。また近代では既出のデカルトのほか、ロックやカント、もっと近くではチョムスキーなども「思考」と「言語」について深く考察しています。
哲学者でなくても、人は放っておけば「言語」を使って「思考」してしまいます。その連続で高度に抽象的なことまで思考が及ぶことになり、結果、物事の「理解」に到達します。しかし、現代では、安易なエンターテインメントによって、その「思考」の機会が大幅に奪われているのです。こんなことは、人類史上初めてではないでしょうか。もっとも、これに関しては繰り返し過去の『パルキッズ通信』で述べているので、これ以上深入りするまでもないでしょう。
国語力を伸ばすために何をしていますか?
さて、以上を前提にここからはもう少し具体的に、どのようにしてメタ言語、あるいは国語力を伸ばしていくのかを考えていくことにします。
上で「国語教育に熱を入れるご家庭」と書きましたが、そんなご家庭では何を実践しているのでしょうか。まず挙げられるのが、古典的な美文あるいは名作の「読書」、あるいは「音読」でしょう。また「漢字の書き取り」や「語彙を豊かにする」取り組みも挙げられます。その他にもテーマに関する「発表」なども思考の整理の取り組みとしては挙げられるでしょう。
しかし、これらの取り組みで国語力は高まるのでしょうか。
よく考えてみましょう。国語力とは何でしょうか。
そうですね、「優れたメタ言語力」です。それでは、優れたメタ言語で何をするのでしょうか。
そうです、「思考」です。
まずは「優れたメタ言語力」を身につけさせること、それと同時に「思考」する習慣を身につけさせることです。デカルト風に言えば常に「疑問」を持たせることです。
日本の教育システムは設問に対する答えから逸脱すると、いくらそれが正答の内であってもバツをもらいます。間違えるからこそ、自分の弱点が明らかになるので、バツをもらうというのは実は素晴らしいことです。しかし、マルをもらうことが重要だと考えてしまうと、「いかにバツをもらわないか」という思考になります。そして、バツをもらわないための最善の方法として、結果「わからない」という発言が引き出されるようになるのです。あるいは、完全に分かっていることのみ、自信を持って答えるようになります。まったく以て「くだらん」の一言に尽きます。
分からないことを考えることが大切なのです。付け加えるならば、分かっていることにすら、疑問を投げかけるような姿勢が思考をより深めて行きます。ただし、語彙も知識も脆弱な思考によって到達した “屁理屈” を、自信満々に投げかけるのは以ての外。やはり、豊かな語彙や知識と正確な理解に裏付けられたメタ言語力で、論理的に思考を深めることが重要なのです。
そのように育て、習慣付けられてようやく、与えられたテキストから得られる背景知識の鋭敏化、思考の整理、的確な語彙目論の選択と運用が可能となるのです。
国語力を伸ばすためには、漢字の書き取りや、定型問題を大量に解かせること、あるいは反復学習などという低次の機械的作業、もしくはオペラント条件付けに基づいた学習ではなく、「なぜ?」を解決しようとする「思考」という高次の自発的な心理作業が必要なのです。
ワーキングメモリの増大
さて、メタ言語としての国語力、さらには思考の習慣付けが大切なことはお分かりいただけたと思いますが、これらの相互作用によって開発されるもうひとつの重要な能力があります。それが「ワーキングメモリ」です。
いくら豊かな語彙と優れた思考力があっても、思考を深めるためには頑強なワーキングメモリが必要となります。ワーキングメモリとは、コンピュータで言うところの「メモリ」(データの一時的な保管場所)に相当します。これは「ストレージ」(データの長期的な保管場所)に比べてはるかに小さい容量しかありません(作業机:メモリと、書庫:ストレージの関係などにも例えられます)。また、一時的なものですので、ある思考を中断するとそれは消えてしまいます。同時に、思考が連続すると古いものから消えていってしまいます。
最近の子どもたちの学習能力の低さには、語彙や思考力の脆弱さに加えて、ワーキングメモリにも問題が潜んでいるように思えます。ワーキングメモリが小さいので、思考が纏まらず、あるいはロジックを飛ばしたり、思いつきで発言したりすることにも繋がっていると思われます。すると「中二病」と呼ばれるような言動になるのも頷けます。
反対にワーキングメモリの大きい人は、何のトピックについて話しをしているのか、今話されていることは全体像のどこの部分に相当するのかなど、思考のマッピングができます。ワーキングメモリの小さい人の話が、どんどん違う話題へと移っていくのとは対照的です。また、複数の数式の解をメモを取ることなくワーキングメモリに保持しながら、それを総合的に再計算できたりもします。大したものです。
このワーキングメモリの性能は、20歳くらいまでは伸ばすことが可能だと言われています。親の世代、ましてや私等の祖父母世代では叶わない夢ですが、若い世代の人には、エンターテインメントに時間を奪われることなく、脳を酷使してワーキングメモリの増強に努めていただきたいものです。これは「今」しかできないのです。ゆっくり映画を見たり、ぼんやりSNSを眺めたり、ゲームに興じたりするのは、大人になってからでも遅くはありません。
そのワーキングメモリを鍛えるのに最も良いのは、脳に健全なストレスを与えることです。つまり「思考」させること。幼児期には、それを無意識に脳にさせれば良いのですから、本人にはストレスはかかりません。その方法とは簡単で、言語情報をたくさん与える、この一言に尽きます。国語のインプット、英語のインプット、英語以外の言語のインプットなど、継続的に行うことで、ワーキングメモリが鍛えられるのであれば、これほど楽なことはないでしょう。
パルキッズ・国語システムの概観
近年「パルキッズ」では、様々な言語教材を新たに提供しています。国語もあれば、英語以外の外国語も家庭でインプットできるようになっています。また、国語に限っても、総合教材の「幼児教室プログラム」や、知識の幅を広げる「社会科マスター」、また漢字の文字と音読み訓読みなど音の対応をインプットする「漢検マスター」など様々です。
「パルキッズ」については、機会があるごとに紹介しているので、周知のこととさせていただき、残りのセクションでは、主に国語教育に関するものの位置付けを少し具体的に紹介することにします。
「パルキッズ」では、”CEFR : Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment、外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠、セファール” や“BICS : Basic Interpersonal Communication Skills、生活言語”・“CALP : Cognitive Academic Language Proficiency、学習言語” といった指標を使って教材の大体の位置付けをしています。
CEFRは、そもそも外国語学習における習熟度の目安ですので、母語の運用レベルとは一致しません。しかし、指標自体は汎用性があり便利なので、あるいは、メタ言語として母語(この場合日本語)を使用した国語科の習熟度としてはそれほど見当外れな指標ではないので、ここでは、日本語もCEFRに揃えています。もちろん、A1 などは外国語学習にしか該当しませんが、そのあたりは無視してください。BICSやCALPも、CEFRとは異なった発想の指標ですが、ここでは、無理やりCEFRに合わせてあります。
さて、基本的に外国語はBICSからCALPへと成長します。BICSはハイコンテクストなレベルのコミュニケーション能力で、家族や友人、あるいは街中での会話など日常的なやり取りの言語運用力(生活言語)のことです。それに対してCALPはローコンテキストで抽象的なレベルで、教科書を読んだり、論点をまとめて発表したりする言語運用力(学習言語)です。ある程度以上のアカデミックな内容に対応できる能力で、英検では準1級以上で、国語の能力では高校レベル以上です。
「パルキッズ」では小学6年で国語はB2以上、英語はA2を目安としています。そこまで育てておけば、中学または高校の早い段階で、国語はC1で大学レベル、英語はB2で留学生レベルをクリアできることになります。『パルキッズ通信2024年7月号』で特集しましたが、この目標に遥かに届かないのが現在の日本の教育の現状です。例えば、大学生にも関わらず国語でB1レベル、英語に関してはA1レベルで中学英語からのやり直しが必要な学生が珍しくないというお粗末な状況です。
もちろん「パルキッズ」の目標以上の成長を遂げる子どもたちも存在します。ただし、子どもには子ども時代にしか体験できないことがあります。それはそれで、勉強以上に貴重な経験です。また、子どもの理解の範疇を超えている、メタ言語の成長以上のことを要求すると、子どもたちは「理解」ではなく「記憶」しようとスイッチを切り替えてしまいます。これでは、国語力の向上とは真逆のベクトルへ導くことになってしまいます。「急いては事を仕損じる」ことも往々にしてあるようです。ぜひとも注意してください。
さて、具体的な教材の位置付けは上の表のとおりです。ここで、気を付けるべき点をひとつだけ挙げておくことにします。それは…、
「頑強なBICS(生活言語)の上にCALP(学習言語)は育つ」点です。これでもか、というくらいBICSレベルの入力を徹底しましょう。冒頭で述べたように「幼児期の絵本の読み聞かせが小学国語の成績を上げる」のです。語彙を豊かにすることと、読み聞かせによって聴解力を高めることをせずに、小学生になってからいきなり説明文の音読で読解力を向上させようとしても、親子ともにストレスが貯まるばかりです。なぜなら、理解力が低く育ってしまった子どもには、まず語彙と聴解力を育てないことには、一足飛びに「理解力」と「読力」を融合して「読解力」へと育てていくのは難しいからです。小学生になったら「音読」を通した「読解力」育成を、と考えてしまうかもしれませんが、そこに敢えて「語彙と理解力の強化」を目指すための「幼児教室プログラム」や絵本の読み聞かせを挟むことによって、子どもたちは、驚くほどスムーズに国語力を高めていくことになります。
育児のストレス軽減
育児にはストレスが付き物です。また現代では、情報が多すぎて、何が正しいか分からず、気付けば同じところをぐるぐる彷徨っているだけなどということも珍しくないはずです。しかし、子どもたちの時間は有限です。1つ目の区切りは音声知覚が形成される生後10ヶ月前後、2つ目の区切りは母語が形成される3歳前後、3つ目の区切りは正書法を身につける6歳前後、その後10歳くらいに思春期への成長の区切りがやって来ます。逡巡している暇はないのです。
育児の悩みは、時間のやりくり、お金のやりくり、健康問題、子どもへの接し方、しかり方、しつけ方、学力の伸ばし方から、進路の決定まで様々です。様々というよりは、悩みの百貨店のようなものです。そんな中で、「思考を整理」し「方向を決め」るお手伝いをするのが「地頭力講座」です。地頭力講座は、「地頭の良い子」に育てることを軸に「いかに親のやることを減らすか」「いかにして親に精神的・時間的な余裕を作り出すか」という素朴な思いから作られています。親に精神的あるいは時間的・金銭的コストの余裕が生じれば、子育てはもっと楽しく、もっと楽になるはずです。
さて、今回は「メタ言語」という概念を通して、国語教育を俯瞰してみました。また、「パルキッズ」のシステムの概観もできたと思います。これで、思い悩むことなく、少しでもスッキリとした気分で淡々と日々取り組んでいただければ何よりです。
【編集後記】
今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)
児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。

船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。