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2022年11月号特集

Vol.296 | 「できない子」を「できる子」に変える方法

器を増やして積極的に学ぶ子に

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2211/
船津洋『「できない子」を「できる子」に変える方法』(株式会社 児童英語研究所、2022年)


できないことは素晴らしいこと

出来ないことは素晴らしいこと 習い事や勉強など、いつまで経ってもできるようにならない我が子を見て、イライラしたことがある親御さんもいらっしゃるでしょう。そこで、つい怒ってしまうのは人の常。そうやって子どもを萎縮させたり、親の顔色を窺うようにさせてしまったりすることは、日本ではよくある子育て風景です。
 いやいや、我が家では、できないことを認めて丁寧に育てている。怒ったりせずに、子どもにわかるように、時間をかけてじっくり取り組んでいる。これは欧米風の少し豊かな考え方でしょう。このような育児を実践すると、子どもたちは穏やかに、しかもできないことを責められることがないので、のびのびと学習に取り組めます。

 しかし、我が子に対して「できない」と感じてしまうのはなぜでしょう。おそらく、これは横並びが好きな日本人ゆえの感覚ではないでしょうか。隣の子たちができているのに、我が子はできない。多様性のお国柄では「人それぞれ」「得手・不得手がある」「それも個性」と受け止めますが、日本人はそれがなかなか苦手なようですね。

 ところで、「できない」ことによって、何か問題が生じるのでしょうか。「とある事柄」に関して我が子が人よりも習得が遅い、あるいは苦手であることに、どんな問題があるのでしょうか。

 まずは結論からまいりましょう。

 できないこと自体は、チャンスなのです。できないから、考える。つまり、できない子ほど、考えるようになります。できてしまえば、それは考える対象にはなりません。この辺りに関しては本稿の後半で詳しく見ていくことにします。

 一般に、早生まれの子は、そうでない同学年の子に比べて生きてきた日数が少ないので、勉強も運動も「できない」傾向にあります。それはそうでしょう。特に低年齢の段階では、早生まれの子は1~2割方、生きてきた日数が少ないわけです。その数ヶ月分の差により、体の大きさも違えば運動能力も違うでしょう。また、読み書きや計算など、精神面においても同様です。

 ところで、早生まれには会社の社長が多く、総理大臣やノーベル賞受賞者、あるいは作家も多いらしい。こう聞くと、早生まれである僕自身、嫌な感じはしません。なぜ早生まれに出世する人が少なからずいるのか?おそらく、彼らは、自分は「できない」と自覚し、そのことに関して「よく考え」たのでしょう。

 ここでは、できない子の代表に早生まれを挙げましたが、できない子は上手く育てれば、よく考える子に育ちます。よく考える子に育てば、それは優秀な子に育つことに直結しているわけです。早生まれであろうがなかろうが、何かしらの「できない」ことに直面した時に、諦めるのではなく考えるような子に育てておけば、その精神は彼らの財産になることは間違いないでしょう。

 ということで、今回は「できないこと」から考えて、どのように「できる子」に育てるのか、そのためには何が必要なのかを考えていくことにしましょう。


自然な環境から育つ能力とそうでない能力

自然な環境から育つ能力とそうでない能力 さて、育児をしていると、子どもの発達に関して様々な感慨を持ちます。
 まずは身体的な発達でしょう。寝返りをうったり、はじめの一歩が出たり、これらは子どもの成長記録であると同時に、親にとっては「しっかり育っている」というお墨付きでもあります。かけっこが上手になったり、自転車に乗れるようになったり、習得が早いか遅いかに個人差はありますが、いずれできるようになり、「できる」ようになれば親としては「ひと安心」なわけです。

 言葉の発達を見ると、発声練習の喃語から始まり、1歳くらいでは発語があります。その後、語彙爆発の時期を経て、2歳くらいまでには基本的な日本語の回路を身につけ、日常的なことなら周囲の会話も理解でき、必要に応じて口を開くようになります。
 そして、3歳にもなれば一通りの日本語の習得は終わります。もちろん、この後も語彙の強化や文法など学びますが、3歳くらいで日本語は「できる」ようになったと親は安堵します。

 そのほかにも、様々な能力・技能を子どもたちは身につけていきます。ピアノやバイオリン、読譜をしたり正しい音程で歌ったり、はたまたスイミングやバレエに(我が家ではスキーに釣り)、精神面では読み書き計算などなど様々なことを身につけることになります。

 これらの能力を見てみると「本能だけで自然に身につくもの」と「本能に加えて環境を与えて身につくもの」があることがわかります。
 歩いたり言葉を理解したりというのは、人間の本性です。特に指導しなくても、自然とできるようになります。しかし、そうでない技能もあります。ピアノも自転車もスキーも、もちろん本能は利用しますが、環境を与えない限りできるようにはなりません。

 そう考えると、言葉を理解するのは本能でしょうけれども、文字を読んだり書いたりすることは環境を与えないとできないことですし、言葉が身につけば数も本能的に数えますが、環境を与えなければ嵩の感覚や四則の理解には至らないでしょう。

 また、幼いうちから環境を整えてあらゆる経験をさせているご家庭では、子どもたちは本能的に身につけた(言語や運動)能力をさらに伸ばしたり、逆に本能だけでは身につかない(読解、四則、スキーやピアノなどの特殊)能力すら身につけていくわけです。
 ものには適齢期があるので、何でもかんでも早ければ良いというわけではありませんが、早くから多くの環境を与えられている子と、そうでない子では同じことをやらせても能力に差が生じてしまうことになります。

 また、生まれ月によるメリット・デメリット、あるいは子どもの個性により、好きなこと嫌いなこと、得意なこと苦手なことがあります。

 そのような変数がいくつか絡み合って「できない」子と「できる」子の差が生じて、親たちを悩ませることになるわけです。

>→本能だけで身につく能力
→積極的に環境を与えないと身につかない能力


個々の「能力」=「器」と考えてみる

個々の「能力」=「器」と考えてみる 上で見てきたように、様々な種類の能力があり、人々はそれぞれの能力を活かしてその後の人生を生きていくことになります。

 さて、ここでは、それら個々の能力のことを説明上の便宜的に「器」と呼んでおくことにします。
 ここから、わかりやすい例をいくつか見ることにしましょう。例えば母語。母語を身につけることは、すべての子どもたちが生まれながらにして持っている母語の「器」を、言語環境での「経験」という「インプット」で満たしていく、と考えることができます。

 そして、母語の「器」が言語環境の「経験・インプット」で満たされると、母語が身につき、言葉が器から溢れて出てくる、と考えるわけです。

 もうひとつ。歩くことに関しても同様です。はいはいから伝い歩きができるようになると、子どもたちは立ったり座ったりを繰り返し、様々なものを頼りに伝い歩きをします。この「経験」が歩行の「器」を満たしていき「はじめの一歩」として溢れ出てくるのです。

 さて、この「器」、みんな同じ大きさかというと、そうではありません。技術ごとに器の大きさが異なります。楽器演奏に例えるなら、カスタネットやタンバリンなどの打楽器は、リズムと強弱のみですが、ギターやピアノとなるとそこにメロディーやハーモニーなどの要素が加わります。したがって、器を満たすための経験は、カスタネットやタンバリンの方が少なくて済むわけです。

 同時にこの「器」は、個々人の個性に合わせて大きさが異なります。すでにピアノの器を満たしている、ある人間にとっては、カスタネットやタンバリンの「器」は小さいものとなるでしょうから、あっという間にその器は満たされてしまいます。他方、2歳の子どもにとっては、カスタネットやタンバリンは比較的に大きめの器となるので、わずかな経験では満たされることがないわけです。

 これらが「できない」に繋がります。

 つまり、高い技術を要する大きな器はなかなかに満たされずに「できない」期間が続き、同時に個人差によって、その本人にとって大きな器なのであれば、それも満たされるまでの長い期間「できない」状態が続きます。

→器の大きさは能力・技能によって異なる
→器の大きさは個人の個性によって異なる


本能レベルと学習レベル

本能レベルと学習レベル 「器」を「経験」で満たすことで「能力(技能)」が身につく。
 世の中の技能をこの一言でやっつけてしまうのは不遜の極みようですが、果たして、これだけの単純さで良いのでしょうか。つまり、何らかの経験、例えば反復学習でもさせていれば、求める技能は身につくのでしようか。
 違いますね。もう少し複雑なようです。それが証拠に、上の方式で行けば学校教育を受けている者は、程度の差こそあれ押し並べて望むべく知性を身につけられることになってしまいます。もちろん、現状はそうではありません。
 また、日々部活動に明け暮れている野球部やサッカー部の生徒たちは、あまねくプロスポーツの世界へ進むことができる。楽器演奏を愛してやまない未来の音楽家たちは、安心して脇目も振らず楽器演奏に没頭できる。そして、プロのミュージシャンになれることになってしまいます。さらに単純化すれば、毎日走っていればマラソン選手になれる。自転車に乗っていれば競輪選手になれることになってしまいます。

 しかし、そうではありません。

 「器」には、本能レベルの「器」と、学習レベルの「器」があります。
 まずは本能レベルの器から参りましょう。本能レベルの器は経験で満たしてやれば、その能力を身につけることができます。
 例えば母語がそれです。子どもたちは生まれつき言語の器を持っていて、その器は特段、学習が行われなくても、経験のみで身につけることができます。また歩くこともそうです。日常的に立ったり座ったり、伝い歩きをしていればいつかソロで歩けるようになります。
 自転車もそうです。プロテクターをつけて何度か痛い目に遭いながらも経験を続けるうちに自転車に乗るという技術の器はあっという間に満たされ、自転車に乗れるようになります。
 スキーもスノーボードも同様です。繰り返し経験させることで、一日二日経てば一通り滑れるようになります。もちろん、過度に辛い目に合わせたり、恐怖心を植え付けてしまえば、経験というインプットがストップしてしまうので、器は満たされることなく、従ってそれらの技術を身につけられることはありません。

 これが本能レベルの「器」を満たす方法です。「経験」という「インプット」を続ける以外方法がないのです。

 言語、学問、スポーツ、芸術。まず体験させないことには何も始まりません。子どもの中にまずはそれぞれの能力の「器」を用意してあげて、それを満たしていく以外に、本能レベルの「器」を「経験・インプット」で満たす方法はないのです。

→本能レベルの「器」
→学習レベルの「器」がある。


本能レベルの「器」は「勘」の世界

本能レベルの「器」は「勘」の世界 学習レベルの「器」に話を進める前に、もう少し、本能レベルの「器」の本質を理解しておきましょう。
 この節の見出しにあるように、本能レベルの「器」で得られた能力・技能は、「勘」のレベルの能力・技能です。どういうことか見てみましょう。

 私たちは本能レベルで日本語の母語の「器」を満たし、母語の運用能力を身につけました。身につける過程では、先生や親から文法を教わったり(そもそも日本語が身についていない段階で文法を教わることは不可能)することはなく、純粋に「日本語の言語環境に身を置く」という「経験」から身につけています。
 ここで、身につけた能力は「勘」のようなもので「なぜそうなっているのか」を説明することはできません。例えば「こんにゃくは太らない」という句において、太らないのは「人」であって「こんにゃく自体」でないことは理解できますが、なぜそう理解できるのかを外国人に説明するのは大変です。
 「玉ねぎのみじん切り」と「みじん切りの玉ねぎ」の違いも説明するとなると大変ですが、なぜか自然と使い分けていたりします。また「花子の作ったケーキ」と「花子が作ったケーキ」は同じものであることは理解しつつも、なぜ「が/の」が特定の環境下で交代可能であるのかを説明することは難しいでしょう。

 つまり、私たちは「器」を満たして身につけた「能力」の中身を理解して使っているのではなく、「勘」で運用しているに過ぎないのです。

 歩くことも、走ることもそうです。歩行する機械を作ろうとしたら大変な計算と技術が必要ですが、みなさんは「勘」で、それを何事もなく成し遂げています。
 自転車もそうです。自転車は右足のペダルを踏み込んだ時、わずかにハンドルを右に切らなければ倒れてしまいます。従って、ハンドルを固定された自転車を走らせることはできません。しかし、そんなことは知らずに自転車に乗っていますよね。
 スキーやスノーボードもそうです。さすがにスキー・スノーボードはいきなり滑らせるのは危険なので、子どもにはハーネスをつけたり、大人には転び方や曲がり方を教えたりしますが、彼らは理屈ではなく、彼ら自身のスキーやスノーボードの「器」を「経験・インプット」によって満たすことで、目的の技能を習得します。
 そして、一度滑れるようになってしまったら、歩いたり走ったりと同じようにその能力を行使できます。しかし、それを言語化して他人に理解させようとなると、これは非常なる困難を伴います。それが証拠に何年もスキーを教えているプロスキーヤーですら、相手の技量や理解力を勘案しながら、適宜指導方法や伝え方を変化させていくわけです。

 このように、本能レベルで身につけた能力・技能は、あくまでも「勘」のレベルで運用されているわけです。繰り返しますが、私たちは未だに「勘」で歩いたり走ったり、乗ったり滑ったり、あるいは喋ったりしているわけです。
 そして、加齢や事故によって、この勘が狂ってしまうと、一気にその能力は失われてしまいます。

 しかし、それで良いのです。経験・インプットで器を満たして、とりあえずできるようになること。これがまずは大切です。あくまでも本能でできる範囲、勘の範囲ですが、最初はそれで結構なのです。


学習レベルの器の話

学習レベルの器の話 さて、本能レベルの「器」は「経験」という「インプット」が存在するときに限り、満たされ「能力・技能」として機能し始めるようになります。
 言語のように母語ですら2~3年かかるような大きな「器」も存在しますが、自転車もスキーも本人の運動能力の条件が満たされていれば、基本的な技能は数日で身につけることができます。

 それら本能レベルの能力は、あくまでも “勘のレベルの能力” との制限付きであることは述べました。日常的に歩いたり、走ったり、自転車に乗ったり、あるいは泳いだりする程度においては、特にその能力を高める理由など存在しないでしょうから、勘のレベルのままで十分でしょう。

 しかし、勘のレベルの能力・技能では足りない状況も往々にして出来します。いくつか例を見ていきましょう。

 例えば水泳。日本ではプール付きの家など滅多にお目にかかることはありませんが、米国などでは1クラスに数名は家にプールを持っています。都市部ではなかなかそうもいきませんが、地方では土地も家も安いので、プール付きの家は珍しくも何ともありません。
 それが環境であり、その環境により「経験」という「インプット」が生成され「器」が満たされていきます。子どもたちは誰に教わることもなく、泳げるようになります。(もちろん危険の管理は重大要項です)

 しかし、その子たちが国を代表する水泳選手になろうとしたとき、勘のレベルのままではどうにもなりません。夏場に毎日、家のプールで遊んでいても、どうにもならないのです。勘のレベルで身につけた能力は、勘のまま運用されても、次のレベルの「器」へと能力を高めることはできないのです。

 水泳だけではありません。走ることも然り、スキーやスノーボードも然り、日本語も然り。勘のレベルの運用からレベルアップするには、ワンランク上の次の「器」を自らの中に作り出し、その器をインプットで満たさなければいけないのです。
 さて、ここで問題です。本能レベル、勘のレベルの能力の獲得には「経験」の「インプット」で十分でしたが、より高いレベルの運用能力を習得するには単なる「経験」の量を増やすだけの「インプット」では不十分です。がむしゃらに泳いでも、無我夢中で滑っても、無心に喋りまくっても、あるいはひたすら計算問題を解いても、次のレベルへは進めません。

 何が必要なのでしようか。

 ここからは「思考」というフィルターを通した「練習」という「アウトプット」が必要となるのです。


「思考」を介した「練習・アウトプット」が次の「器」へ「インプット」される

「思考」を介した「練習・アウトプット」が次の「器」へ「インプット」される 「器」とは「能力・技能」と考えると、ひとつの分野にもさまざまな「器」が存在することがわかります。
 例えば、勘のレベルで滑れるスキーからバッヂテストを受けたいとなれば、それはバッヂテストの「器」を想定することになりますし、いやいや基礎スキーではなくアルペンスキー選手を目指したいとなれば、それもまた別の「器」を自分に想定することになります。

 スポーツに限ったことではありません。楽器演奏も然り。ピアノをはじめとした楽器のある家庭で日々楽器に接していれば、自然と音楽を耳でコピーして鍵盤を探るようになります。列車到着の「近接メロディー」や車内機内で繰り返し流れる楽曲、あるいはお気に入りの歌や、繰り返し聞いて耳に残ってるジングルなどを、ピアノやギターで演奏するのは、もはや本能でしょう。

 しかし、それはあくまでも勘レベルの話。いくら滑っても、どれほど弾いてもプロ選手や演奏家にはなれないでしょう。ここからは、思考を介した練習というインプットが必要となるのです。

 例えばピアノ。聞いた音を探って遊ぶことができる、本能レベルの「器」が満たされたら、次は読譜や運指、さらには両手のコーディネーションの能力という「器」を想定し、そこに練習というアウトプットを通したインプットを流し込んでいかねばなりません。
 言い換えれば、練習によって生じるアウトプットが次の能力の器へのインプットとなるのです。

 そのときに重要になるのが「思考」です。

 いくら指導を受けても、本人が「考え」てくれないことにはなかなか上達しません。言われたことをやっているだけでは足りないのです。もちろん、指導者の存在は極めて重要で、優秀な指導者につくことがベストです。
 そして、指導者から与えられた課題をこなすにあたって、実際に指を動かしながら「この指から始めてこう動く」「同時に左(右)手のこの指が動く」とそれこそ脳裏に “掘り込む” ように考えながら、手を動かすことが重要でしょう。そして、考え抜いた結果を「練習・アウトプット」という形で「器」の中に放り込んで(「インプットして」)いくわけです。
 そして、ひとつの技術をクリアしたら、次の技術へと、改めて「思考」を介した上で「練習・アウトプット」を繰り返します。

 ここではスキーとピアノを例示しましたが、どんな能力でも同じことです。まずは本能レベルの「器」を「経験」で満たし、その後学習レベルの「器」を想定しそれを「思考」を介した「練習」によって生じる「アウトプット」(つまり、器にとってはインプット)で満たしていくのです。


やっつけではなく「やりたくなる」

やっつけではなく「やりたくなる」 この「器」を想定した「思考」を介する「練習」には、別の効能があります。
 単に言われたこと、あるいは与えられた課題をこなしていく過程には(レベル別ドリルの場合)思考の余地がありません。忍者の麻の苗木のように、毎日少しずつ成長する麻を飛び越えているうちに跳躍力が高くなるのを期待するようなものでしょう。

 もちろん、ひとつの技能を身につけるのですからどんなやり方でも構いませんが、この方法には成功者が少ないのではないでしょうか。毎日頑張って勉強しても、一向に成果が上がらない。確かに参考書にもドリルにもせっせと取り組んでいる。しかし、私の知る限りにおいて、一向に成果が上がらないケースも少なくないのです。
 考えるに、そこに「思考」が介在していないからではないか。

 思考を介在させた練習には、ひとつの特徴としてターゲットがはっきりしている点が挙げられます。演奏であればひとつのフレーズ、スポーツであればひとつの技術を “やっつけ” ること、つまり身につけることが当面のゴールで、そのゴールに到達すると、そこには「できなかった過去」とは違った「できるようになった自分」がいるのです。
 これほど楽しいことはありません。

 この気持ち、つまり「できた!」という自信が、次のステップや新しい「器」へのモチベーションとなります。やらされているのではなく、自らその練習へと向かうようになるのです。

 それどころか、通学途中、食事中、遊んでいる時など四六時中、「思考」を介在した「練習」を頭の中で「アウトプット」、言い換えればイメージトレーニングするようになります。そして、家に帰ってピアノを弾くのが、あるいはゲレンデでスキーを履くのが待ち遠しくなるのです。

 これでけでも、与えられた学習より、思考を介した練習の方が楽しそうでしょう。そして、この「思考」のスイッチが入ってしまった子どもたちは、何事に対しても自信を持って積極的に取り組めるようになるのです。


いかに思考を介した練習へと歩みを進めるか

いかに思考を介した練習へと歩みを進めるか さて、ひとつの能力を身につけさせとき、我武者羅に取り組ませるやり方と、考えさせて練習させるやり方があること、そして、後者の方が中断率もどうやら低そうで、中断せずにインプットが続くのであれば上達も望めそうなことがわかりました。

 しかし、です。世の中、どこを見回しても、前者の「レベル別」とか「コツを教える」とか「〇〇対策」のようなものが横行しています。すでに述べたように、麻の苗木方式はどこかで中断する可能性が高く、何かを教える方式は、本人が考えることでなく覚えることに集中してしまいます。また〇〇対策も教える内容をシャープにしただけで、やらされていることは反復トレーニングと記憶になってしまうケースも少なくないでしょう。
 これは、これらの学習法自体が「与えられたこと」を「こなしたり記憶したり」に集中しているから、構造的に仕方がないと思います。

 それでは、どのようにすれば、後者の学習レベルの「器」を想定した「思考」を介した「練習」に取り組ませることができるのでしょうか。

 以下、3つのポイントに整理して述べることにします。

1、持っている器の数が大切。
 一口に行ってしまえば「器の数を増やす」、言い換えれば「あいつは何だかわからないけど、何か持っているんだよなぁ」と人に評されるような人物になることでしょう。
 「一芸は道に通ずる」と言いますね。これは確かに実感できることです。日本は学士に牛耳られている国で、一部の会社を除き修士があまり優遇されません。
 なぜか?この点に関しては言いたいことが山ほどあるので、別の機会に譲るとして、修士を欲しがる会社はなぜ彼らを欲しがるのかとなると簡単です。修士号まで取っている人間は、思考が深いのです。
 まぁ、修士ですので「一芸に通じ」ているとまではいきませんが、自分で「器」を想定し「思考」して掘り下げるという「練習」を積んでいるので、未知の事柄に対する適応力が優るのでしょう。
 さらに「一芸に通じ」ているはずの博士に関しては、これまた言いたいことがありますが、別の機会に論ずることにしましょう。

 さて、学者に関しては、ひとつのことを掘り下げる縦方向のベクトルで「器」を増やす例ですし、スキーやピアノに関しても同様に掘り下げるベクトルです。ただ、「器」を増やすだけなら、もっと簡単な方法があります。そう、ベクトルを水平に取れば、「器」の数を増やすことがお手軽にできます。

 新しい楽器を手に取ってみても良いですし、新しいスポーツを始めてみるのも良いでしょう。それこそ、風土記よろしく地理や歴史、あるいは文化に関して、城、古墳、遺跡など、興味深いことどもばかりです。これも人生を豊かにする「器」でしょう。
 電車博士、昆虫博士、動物博士、魚博士にするのも「器」を横方向のベクトルで増やしていきます。そして、一通り電車の「器」が一杯になったら、別の「器」を探すも良いでしょう。

 なぜ横方向へと「器」を増やすことをお勧めするのか。「器」は本能レベルのものと学習レベルがあると書いてきましたが、基本的に本能レベルの「器」は直感的で関心を持ちやすく、すでに述べたように「器」がいっぱいになるのにさほど時間がかかりません。
 その先に、さらに深める縦のバイアスの学習レベルの「器」が成立すると考えると良いでしょう。
 すると、手軽な横軸の「器」を増やしておいて、その後に好きな「器」を掘り下げる方が現実的です。知らないものを、いきなり掘り下げろと言われても戸惑うかもしれませんが、色々な「器」を「持って」いれば、そのほかの器に関しても「一芸に通ずる云々」の規則が自動的に適用されるのです。

 小さな「器」をたくさん持つ。本能レベルで運用できる能力が身についていれば、それを掘り下げるのも楽でしょう。そして、そのようにたくさんのことができる人間は、あっという間に新しい「器」を一杯にすることができるのでしょう。

2、グループよりプライベートで取り組む。
 横のバイアスで「器」を広げるのであれば、何をやっても構わないわけです。スケートボードでもボイスパーカッションでもeスポーツの道でも構いません。
 しかし、です、ここでひとつ問題が生じます。横のバイアスで広げる器は、だいたい本能レベルを考えれば良いのですが、できればそれら「学問」になっている方が好ましい。
 なぜなら、せっかくひとつの能力・技術を身につけるならば、オーソドックス(正統的)なものの方が、その後の汎用性が高いからです。

 ゴルフには、正しいフォームと間違ったフォームしかない、などと言われるそうですが、ゴルフに限らず、野球もスキーもピアノもギターも、もっと基本的なところだと走ることや歩くことですら、基礎的なフォームが大切です。
 正しいフォームで歩くことを習いなさいとは言いませんが、何かスポーツを始めて「勘」レベル、「本能レベル」の能力・技能を身につけるのに最善の方法は、優秀な先生について「経験」を積むことでしょう。
 我流で反復練習すると、変な癖がつくことは容易に想像できますね。恥ずかしながら、僕も我流で文字を書くので、お粗末なこと極まりない。そのような我流で「本能レベル」の「器」を満たしたことで、その先なかなか文字が上達しないのです。妙な癖が抜けない。
 このように、「どうせやる」なら「オーソドックス」を、できれば「優秀な教師」から学ぶと良いでしょう。

 そこで登場するのが、「グループよりプライベート」という考え方です。

 スキーでもピアノでも、バレエでも書道でも、可能であればプライベートでじっくりみてもらう方が遥かに効率が良い。グループレッスンに半年間参加してもあまり上達しなかった子が、1時間のプライベートレッスンで、あっという間に上達を見せることもあります。もちろん、グループレッスンの下地があったことは間違いありませんが、グッと一段階技術を高めるのであれば、断然プライベートが良いでしょう。

 このように、学問になっている技能であれば、間違えた方法での練習を排除できるし、優れた指導者に加えてプライベートで学べは、漫然とグループを続けるよりは高い投資効果、つまり「器」を「経験」で満たす結果を得られるでしょう。

3、考える時間を奪わない。
 さて、最後に縦方向で「器」を満たす方法です。
 「縦方向で」という段階で、すでに本能レベルの「勘」で運用できる程度の「能力」は身についているでしょう。逆に本能レベルの運用力が身についていない状態では、縦方向に深めようがありません。(もっとも、言語においてこれをやろうとしている人は少なくありませんが…。)

 これは簡単な話です。
 すでに、勘では運用できる能力があるのですから、あとは深めるだけです。言い換えれば、「もう一人でできる」のです。そして、その能力をさらに深めるためには、前説で述べた以上に、優秀な指導者のもとプライベートで教わることが大切です。

 学習者の個性や理解力を勘案しながら、適切な課題を提示してくれる。そんな指導者は「クリアすべき課題」を与えてくれます。そして、学習者はその課題について「思考」して「練習」を繰り返すわけです。
 それこそ、すでに述べたように、通学中や食事中、あるいは夢の中でも、ピアノの鍵盤を中空で叩いたり、譜面が頭に浮かんだりするのです。スポーツも同様でしょう。気づけば「ああ、こうすればうまくいく」と思い浮かんだりする経験をされた方も少なくないでしょう。このようなイメージトレーニングも立派な練習、立派なアウトプットで、このアウトプットがインプットとなって想定された能力の「器」を満たしていくのです。

 その上で重要なポイントが、考える時間を奪わないことです。

 以降は『パルキッズ通信2022年9月号』に書きましたが、人は考えてしまう存在です。「考えないこと」は坐禅でも組まないとできません。特殊なトレーニングを積まない限り、それこそ夢の中でも考えてしまう生き物なのです。
 その思考の時間を奪うものが、いわゆるエンターテインメントです。過去には、テレビ位しかありませんでした。もはや、そのテレビを見るご家庭も少ないとは思いますが、それ以上の強力なエンターテインメントがスマートフォンによって手に入ります。

 携帯用ゲーム機が登場した頃、子どもたちが同じ場所に居つつ別のことをするようになり、その世代が今スマホを持っています。そのスマホはテレビとは異なり、24時間オンデマンドでエンターテインメントを提供し続けているのです。
 もうこれ以上は、語る必要はないでしょう。放っておくと考えてしまう人間を、考えない愚かな人間にするツールで世界は満ち満ちているのです。その辺りに注意を払うことが必要ですね。

 さて、今回は「できないこと」は「思考の機会を与えてくれる素晴らしいこと」である、というところから始まり、本能だけで身につく能力と、環境を作らないと身につかない能力、本能的な「器」は経験からのみで身につく勘のレベルがあること、「器」の大きさが技能や個人差によって異なること、より高次の学習レベルの能力の習得には「思考が欠かせないこと」を述べてまいりました。
 そして最後には、いかにして高次のレベルの「器」を身につけるのかについて簡単に述べました。

 最後の最後になりますが、「ん、では英語は?」と感じた方もいらっしゃるでしょう。お子様の英語習得、あるいはご自身の英語学習に関しては、以上の提案を参考に是非ともご一考いただきたいと思います。Podcast でも一部解説していますので、そちらもご参照くださいませ。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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