パルキッズ通信 特集 | 国語力, 子育て論, 教育術, 日本の教育, 論理的思考力
2022年9月号特集
Vol.294 |「覚える」より「考える」ことを好む子どもに育てる方法
高い思考力を育てて超難関大学にも楽々合格
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2209/
船津洋『「覚える」より「考える」ことを好む子どもに育てる方法』(株式会社 児童英語研究所、2022年)
反復学習や記憶を促す学習は、思考力の弱い、学力の低い子にはぴったりの学習法である。自分で考えられない子どもたちは、教えてもらったり、繰り返しのプリント学習で暗記したり、計算技術を鍛えたりすることで、社会に役立つ学力を得ることができる。反復学習や記憶を促す学習は、そんな彼らには絶対に必要な学習法である。
しかし、反復訓練や記憶を促すプリント学習は、子どもから「思考」する機会を奪い、技術の訓練や記憶という「学習の型」を刷り込むという面もある。単純作業を繰り返すことが要求され、そこに「思考」という高度な知力を要する精神労働の入り込む隙間はない。
「思考」は高次の精神的な作業であり、ある意味「辛い」作業である。他方、反復学習や記憶は、単純作業という低次の作業に子どもたちを明け暮れさせる。この学習法を推進する側にとって都合の良いことに、高次の作業が「辛い」のに対し、この低次の作業は非常に「楽」なのである。子どもたちは「楽」な作業の中に身を沈めていく。つまり、「思考」することがなくなっていくのである。
もちろん、学力や思考力の低い子たちは、基本的な技術や能力を身につけることで社会に貢献することになるが、この「学習の型」は、学力が高く育つ可能性を持った幼児たちからすら、思考力を育てるチャンスを奪っていることに気づくベきであろう。
50年前、あるいはバブルの頃まではそれでもよかったのかもしれない。しかし、コンピュータ、IT技術、AIの進化により、今日、社会の様相はずいぶんと様変わりしている。「思考力」を奪われた子どもたちは、電卓やワープロのようなスペックで人生を歩むこととなるかもしれない。
しかし、そんな世の中の流れとは独立して、この「学習の型」だけは50年前のままである。そして、多くの親たちもこの「型」に則って、我が子を育てているのだ。
思考力の弱い子を育てる親たち
思考力の弱い子どもに育てる方法は簡単です。子どもから、考える機会を奪うような育て方をすれば良い。ただそれだけのことです。そして、そのような子育てをしている親たちが増加しているのが現代の日本であり、その結果として、深い「思考」のできない子どもたちが続々と育っています。
そのような親たちも、もちろん、我が子に「思考力の弱い子に育ってもらおう」と思っているわけではありません。むしろ、自身も高学歴で教育熱心、子どもの大学進学は無論、そのために中学受験も、と考えている親御さんが多いのではないでしょうか。
しかし、そのような教育熱心な親御さんのもとに、思考力の弱い子が育ってしまっています。教育熱心であればあるほど、その傾向は強くなるのかもしれません。そして、そのような親御さんのもとに育った子どもたちは、長期間・長時間の低次の作業の積み重ねの結果として、難関大学への進学も不可能ではありません。しかし、トップ中のトップには、まず成れないでしょう。
なぜかといえば、冒頭から指摘しているように、そのような子たちは単純作業に拘泥するあまり「思考力」が未熟なままだからです。
思考力が弱くても、例えばMARCHクラスの、いわゆる “難関” 大学へは進学できます。ここは重要なポイントですので、繰り返しておきます。
思考力が弱い子でも “難関” 大学へ進学できるのです。さて、なぜでしょう。
これも簡単な話です。入試では、それほど難しい問題は出題されないからです。
例えば、そのクラスの大学であれば、ある程度以上のスピードで英文を読めて、すべてを日本語に訳さずとも理解できる(英検でいえば2級)程度の英語力と、世界史Bや日本史Bの教科書を隅から隅まで覚えられる記憶力と因果関係を理解しようと図録にあたる程度の興味関心、あとは当然のこととして高い国語力があれば合格することができます。
つまり、ある程度以上の国語力とそこそこの英語力、あとは選択科目で6・7割得点するだけの根性があれば合格できるのです。
高い思考力がなくても、そこそこの大学には合格できてしまう。結果として、こうした学生たちは自分の思考力が弱いことに気がつきません。
しかし、今やAIの時代です。論理、確率、統計などはコンピュータがやってしまいます。論理も確率も統計もできない、電卓やワープロ型の人間が、AIに職を奪われてしまうのは、仕方がないことでしょう。人間に求められるのは、高次の思考力という時代です。思考力が弱い子たちは、人生の節目節目に、自らの思考力に足を引っ張られることになるでしょう。
記憶力と思考力
さて、MARCHあるいは早慶レベルの大学、これらの大学に合格できる子どもたちは大きく2つのタイプに分けられます。
まず、これらの大学を「滑り止め」とする学生たちです。彼らは、これらの大学に特化した受験勉強をしなくても合格できます。そして、おそらくは旧帝大などのワンランク上の超難関大学を目指し進学していくことでしょう。
次に、これらの大学を「第一志望」とする学生たちです。受験にあたり、彼らに必要なのは志望校別の何らかの対策です。そして「対策」と言った瞬間、その作業は、大量の問題パターンの記憶や計算速度・精度の向上がメインとなります。
つまり、同じ大学の入試でも、余裕で合格する子たちは特段の対策をするわけでもなく、そうでない子は受験対策の勉強として、教科書や問題集に首っ引きで一生懸命に記憶をするわけです。
この両者を隔てているのは、高い思考力の有無です。
思考力の高い子は、常に何かを考えています。そのような子たちは、教科書や参考書があれば、自学自習することができます。理解できない部分に関してのみ、専門家のアドバイスが必要となります。
その専門家は、もちろん教師の場合もあるでしょう。しかし、今日ではインターネットという便利なインフラがあります。もちろんネットの世界は玉石混交ですが、様々なツールやサービスが利用可能な今日、思考力の高い子にとっては、教師すら不要となってきているのかもしれません。
こうして、思考力の高い子は、教科書の内容をどんどん一人で掘り下げて「理解」に至ることができます。一度理解してしまえば、もう「記憶」しておく必要はありません。本誌でも繰り返し例示しますが、すでに「速度と距離」の物理量の関係を理解している子どもたちには、おなじみの「はじき」の公式は必要ないのです。
「思考力」の高い子は、物事の本質を「理解」できます。すると「記憶」は、彼らにとってそれほど重要ではありません。例えば、彼らは歴史年表を暗記する代わりに、ストーリーで思い浮かべます。
やや脇道に逸れますが、日本史を例にとりましょう。
1180年に決起した源頼朝が、1183年には東国の支配を認められる寿永二年十月の宣旨を受けます。これで東国に関しては徴税権を得た、つまり今でいう国税局長官になったわけです。
その後、文治元年(1185年)に平家を滅ぼした源義経は(無邪気にも任官してしまったため)頼朝の怒りを買います。
そして、頼朝は奥州へ降った義経追討の勅許の理由で「文治の勅許」を得ます。これにより頼朝は実質、国税だけではなく警視庁長官になったことになります。
その5年後の1190年に、頼朝は右近衞大将に任官。翌1191年、政所をつくり頼朝ワールドの形式を整えます。さらに翌年の1192年に征夷大将軍に任命され、出張政府の体で朝廷と共にこの国を牛耳ることになります。
…この流れがストーリーとしてイメージできれば、年譜を丸暗記しなくても、活き活きと情景を頭に思い浮かべることができるでしょう。思考力の高い子は、上記の流れを暗記するのではなく、理解するのです。
「思考力」の高い子は、このような「理解力」を持っているので、「記憶力」に頼らず、日本史の問題に楽しく取り組むことができます。
他方、思考力の低い子は、理解力も低い。そのような子たちが持っている武器といえば「記憶力」です。「記憶力」という、若者だけに許された能力で受験を闘うわけです。
暗記は手っ取り早い。思考は時間がかかる
さて、記憶力に頼らざるを得ない、思考力の弱い子が生み出されている昨今ですが、その背景には何があるのでしょうか。
文科省も産業界も「記憶力だけではダメだ、思考力の高い子に育てる教育を!」と声を揃えていますが、スローガンだけではどうにもなりません。
この50年間、何も変わっていない。理由は、この一言に尽きるでしょう。かつては有用であった「学力が担保できない子どもたちを、上中下の中くらいまでに引き上げる学習法」、つまり、反復訓練と記憶の「学習の型」が、いまだに学校教育、あるいは学外救育でも行われているためです。
もちろん、文科省の指導を受けて、現場では「考えるように」と指導されるのかもしれませんが、幼児期に思考する訓練を受けていない子たち、あるいは小学校低学年までに思考する機会を与えられなかった子たちが、急に「考えなさい」と言われても「はい、できました」という具合にはいかないでしょう。結局、教育現場は50年前の「学習の型」に支配され続けているのです。
例えば、掛け算九九。
掛け算九九に関しては「覚えるのが当然」と思って、誰もが疑わないことでしょう。
しかし、少し考えてみてください。「ごろくさんじゅう」と呪文のように覚えてしまえば、「なぜ、5かける6が30になるのか」を考えることはしません。
つまり「掛け算の仕組みとは何か?」を自ら「思考」する機会は提供されず(されても、おざなり程度)に、手っ取り早く「記憶」する学習へと誘われていきます。
「ご、じゅう、じゅうご、にじゅう…」と五飛びを覚えることも同様です。図に描いてみて、あるいは考えてイメージして、五飛びの境地に到達するのであれば結構なことですが、大抵はただ記憶させてしまうことでしょう。
例えば、百玉そろばんなどを使って、これらの指導をすると、数がどのように増えていくのかもイメージできるようになります。つまり、物理量である「嵩(かさ)」が身についていくのです。
引き算や割り算も同様です。
2枚重なったパンケーキを8等分に切り分ければ、それは掛け算ですが、「4切れ食べたら何切れ残るか?」と考えさせれば引き算になり、あるいは「残りを3人で分けると何切れずつか」と考えさせれば割り算になります。さらには「残りの4切れは二分の一と同じではないか」と考えさせればそれは約分になります。このように、パンケーキひとつで四則の計算の仕組みを考えさせることができます。
しかし、考えさせることには時間がかかります。子どもによって理解のスピードも違います。すると、教室では一人一人の子どもの理解度など見てはいられないわけです。
結果として、九九や公式の暗記、筆算の練習などをせざるを得ないことになってしまいます。
その結果、文章題を解かせても、文脈と数字の間の関係性が導き出せず、正しい式を作れない、当然、答えを出すことができない子になってしまいます。仕組みとしての四則と、物理量としての「嵩」が理解できていないのです。これでは、せっかく鍛えた計算力すら実社会に応用できません。
記憶や計算技術よりも「思考力」が求められる時代
このような記憶や反復訓練は、子どもたちに計算のスピードと正確さ、あるいは点の集合としての記憶をもたらします。ただ、すでに述べたように、スピードと正確さなら電卓の方が人間よりはるかに優秀です。また、記憶力に関してもコンピュータの方がはるかに能力が高い。
これから、AIと共存する時代がやってきますが、人間がAIに計算力で勝てるわけがありません。また、記憶力をいくら伸ばしたところで、コンピュータには敵うわけがありません。
大切なのはAIにできないことにおいて、優れた能力を発揮することです。
それでは、AIにできないこととは何でしょう。AIは、論理を基に設計されています。さらに確率や統計もお手のものです。加えて記憶力も抜群です。
しかし、そんなAIが苦手なことがあります。AIは「考える」ことができません。また「理解する」こともできません。「常識」もなければ「一般化」も苦手です。AIには、経験から「人はいつか死ぬ」という一般化ができないので、「人はいつか死ぬ」ことを教師データとして教えなくてはいけません。そして、いくら「人はいつか死ぬ」と教えたところで、AIには「人はいつか死ぬ」という概念を理解できないのです。
100年、あるいは50年前には、記憶や反復練習の教育も充分役立つものだったでしょう。しかし今の時代、ヒトが伸ばすべき能力は深い思考力と高い理解力です。そして、AIを使いこなせる論理性を備え、AIの手には負えない倫理観を身につけることでしょう。
人間には「一般化」と「外挿」の能力がある
人の能力で特徴的なのは、まずは言語能力でしょう。さらに、一般化と外挿も得意です。
一般化とは、複数の知識から共通点を見つけて、一般的な知識として理解することです。例えば、飼っている猫が死んだ、おじいちゃんが死んだ、という事実があれば、そこから「人は死ぬ」という一般化が得られます。そして、それを外挿すれば「お父さんも死ぬし、僕もいつか死ぬ」ことが分かるでしょう。
一般化ができなければ、極端な話、「人を刺してみて死ぬかどうか確認する」などという考え方も生じるのかも知れません。信じられないようなことですが、このような考え方に至ってしまう人が現に居るのです。
このような子たちは、知識の集合から一般的な規則を発見することが苦手です。
しかし、これは特殊なケースではありません。『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著 東洋経済新報社)でも紹介されているように、「世界一高い山はエベレストである」という命題を与えられ、「富士山がエベレストより高いか否か」について、実際に「比べてみなければわからない」と回答する子どもたちがいるのです。これは笑い話ではありません。このような一般化ができない子どもたちが、現に存在しているのです。
頭の良い子、思考力の高い子は、上記のようなことは瞬時に理解(一般化・外挿)できます。しかし、思考力の育っていない子は、結果として「記憶」していくしかないのです。しかも、それが「勉強の型」に則っていれば、彼らを「勉強した気」にさせてくれるのです。そして、安心して「勉強の型」の世界に耽っていき、その結果、希望の進路が得られなくても、それは本人の責に帰させるのですから、残酷です。
ある程度の年齢まで、考える経験が乏しいままに育ってしまった子が、このような「勉強の型」に身を沈めていくのは、残念ながら仕方がないことです。しかし、これも残念なことに、まだ「思考力」が未開発な幼児期から、「勉強の型」に嵌め込まれてしまうケースも少なくないようです。
ここで、ひとつ注意しておくことにします。
反復訓練や記憶の学習は、「思考力」の高い子に有効な場合もあります。「思考力」の高い子どもたちが、反復訓練や記憶の学習をすることで、さらに効率よく学習を進めることも可能なのです。
問題は、まだ「思考力」が育っていない段階から、反復訓練や記憶などの「学習の型」に嵌め込んでいくことです。
「学習の型」に嵌まった人の思考
人間、考えるのは辛いものです。考える作業は、精神的な成熟を必要とします。また、考えるためにはそれなりの知識がないといけない。
つまり、考えるためには、まずその素材となる知識が必要となります。世間では「知識偏重教育」などと揶揄されますが、「知識がないことには思考ができない」ということは、もう少し理解されるべきでしょう。思考の深さには、まず知識が必要。その上で、自らの経験や想像力、そして精神力を総動員して「思考」することによって、思考は深まっていき、本質の理解にたどり着くのです。
他方、「淡々と」「考えずに」「与えられたことをすれば良い」学習法にさられた人たち、彼らは具体的にどのように学んでいくのでしょう。
小学生時代の勉強法について、いろいろな人に経験談を聞きますが、繰り返しのトレーニングを嫌うタイプの人と、別段嫌うこともなく取り組めるタイプの人に分かれるようです。繰り返しのトレーニングを嫌うタイプは後述するとして、まず、繰り返しのトレーニングを厭わないタイプについて見てみます。
このタイプの人たちに、上で述べたような「思考と記憶」の話をした後、「どのような姿勢で」反復訓練に取り組んだかを尋ねると、「いかに早く終わらせるか」「いかに効率良く取り組むか」を重視した、といった答えが返ってきました。反復訓練によってやり方に慣れてくれば、早く終わらせることができるようになります。それと同時に、似たような問題を見つけ、それらにまとめて取り組むことで、効率良く問題が解けるそうです。
つまり、彼ら彼女らにとって「勉強」は何かを学ぶための手段ではなく、与えられた分を効率良くこなす作業だったようなのです。
そんな人たち、与えられた課題は早く解けるようです。しかし、実社会ではそのような形式で、問題が目の前に姿を表すことは稀です。計算をはじめ、論理の処理能力や確率・統計などのツールを使い、あるいは常識や経験による一般化、さらには想像力を駆使して問題解決に当たるわけです。
そこにおいて、反復訓練や記憶で得た能力が、どれだけ大きな役割を果たすのかは疑問です。現に、彼ら彼女らも計算するときには電卓を使い、調べものにはインターネット検索を使っているのですから。
親の怒りが子の癇癪へ
直情的に怒る人もいますが、経験を積み歳を重ねると共に、たいていは穏やかに丸くなっていくものです。おそらく、ひとつに歳と共に感情のレセプターの感度が下がるのかもしれませんし、ひとつに思考が深まって怒りの沸点が高くなり、多少のことでは怒らなくなるのかもしれません。
しかし、怒りの沸点を越えると、人は誰でも怒ってしまいます。つまり沸点の高さが、怒りっぽい人とそうでない人を分けている、と考えることも可能でしょう。
ところで、その怒りの沸点の正体とは何でしょう。考えるに、思考の深さが大きく関係しているのではないでしょうか。
子どもが、どうしてもプリントの問題を解けず、あるいは理解できずに癇癪を起こす。癇癪を起こすまで、彼らは考えているんです。ところが、考えても考えても理解できないと、考えることが嫌になってしまう。そして、考えるのをやめた証として癇癪を起こすわけです。
癇癪を起こさずに、単にプリント学習を嫌がる子もいるでしょう。そんな子たちは、そもそもプリントの内容が理解できていないのかもしれません。そして、それに向き合って考えることをしたくないのです。結果として、プリント学習を嫌がる。
当然でしょう。スイスイできるプリントであれば、面倒ではあれ、嫌がることはないでしょう。
ところで、前節で「繰り返しのトレーニングを嫌がるタイプ」がいると述べましたが、ひとつには今述べたところの「思考」が嫌なケースでしょう。この場合には、プリントなどのレベルを下げるか、別のタイプのプリントを探す、あるいはプリント学習ではなく、別のタイプの取り組みに切り替えると良いでしょう。
もうひとつのケースは、これとは別に、プリントなどでの学習自体ができる十分な能力を身につけているにもかかわらず、単に反復訓練が嫌いな場合です。すでに、計算の仕組みも、嵩の感覚も身につけているような子からすれば、同じような計算問題を100問も200問も提示されるのは、理解し難い、意味不明な時間の使い方でしょう。単に先生に言われたから、親に言われたから、では納得できないような、思考の深い子がこのタイプになります。
さて、このように「思考」の限界を越えるとそこが臨界点となって、癇癪を起こしたり、あるいは取り組みを嫌悪するようになりますが、これは子どもばかりのことでもありませんね。
そう。みなさんもお子さんに対して、怒ってしまうことはありませんか。
なぜか、ラテン語の “Cogito ergo sum” の形で引用されることが少なくない、デカルトの命題「我思う故に我あり(”Je pense, donc je suis”)」は「確かにそうだな」と納得。さらにここ数年来「思考をしない子どもたち」に想いを馳せる、あるいは何事かに腹を立てている我が身を振り返るに至って、さらにフムフムと頷けます。
ヒトをヒトたらしめているのは、思考であるわけです。しかし、その思考を止めて怒りだすようでは、「我思うゆえに…」の「我」を忘れてしまっているわけですから、あまり感心できる状態ではなさそうです。とまぁ、自責の念も込めているわけですが…。
特に、子どもに対して怒ることはやめましょう。
「お父さんが怒るからわからなくなる。これこれこうだからこうしてください、って言えば僕もわかります」と4歳の我が子に諭されたことがあります。ああ情けない。
子は親の姿を映し出す鏡です。つまり、子どもが何事かに関して「思考」を止めて癇癪を起こしているのは、ひょっとすると「思考」停止で怒っている親の姿を真似ているのかもしれません。「そうではない」と、自信をもって言い切れるのであれば天晴れですが、少なくとも「そうかも…」と我が身を振り返って「思考」ならびに「反省」するのが、人として、あるいは人の親として優れた姿勢ではないでしょうか。
知っていることを知っているようにしか理解しない人たち
「考える葦である」とはデカルトの少し後輩にあたる、同じくフランスのパスカルの言葉です。裸の猿となった人間は自然界では弱い存在だが、考えることを許されている唯一の生物であり、そのことが人間をして地球を滅ぼすことができるほど強い生物にしました。
つまり、良いか悪いかは別として、考えるから人間なんです。
その考える能力を、使うか使わないかは個人に任されています。しかし、先人たちが言うことを逆に解釈すれば、「人間は考えてしまう」のです。放っておいても、あれこれ思考を巡らせてしまうのが人間の性です。
そう考えると、ひとつの疑問が湧きます。「なぜ人は本能であるところの思考をやめてしまうのか」。「思考」は辛い精神作業であることを書きました、また怒ってしまうのは「思考」を止めるからだとも書きました。しかし、同時に「思考」が人の本能であれば、それが辛いというのは矛盾しているように思えます。
これは一体どう考えれば良いのでしょうか。
答えは簡単。人は「知っていること」しか知覚できません。自分の知識の範囲を超えた情報は、「理解」するために「思考」が求められるケースが少なくありません。その思考をまったくしない(自分の知識の範囲を出ない)大人もいるのです。
僕はお節介焼きなので、人の(求められてすらいないかもしれない)相談に、進んで乗ってしまうことがあります。すると、そんな人たちの反応に類似点があるのです。「ああ、結局この人は、自分の理解の範囲でしか理解しようとしないんだな。分からない概念を理解するために思考することはしないんだな。」と感じる場面に出会います。そのたびに、「ああ、ここにも居た。」と感じてしまいます。
また、たまにネット上のコメントやレビューなどの投稿を読んでいると、「ん?この人は本当にこの記事を読んだのかな?」「そんなことは書いていないが…?」といった内容があるので、「日本人の国語力の低下」に関して、改めて考えさせられてしまいます。
つまり、そのような人たちは、自分の知っていることを、知っているように理解するのです。ひらがなしか読めない子たちが、漢字仮名交じり文のひらがなの部分だけから内容を理解しようとするようなものでしょう。英語であれば、一文の中に現れる知っている単語のみの知識で、その文を理解しようとするようなものです。
まず足りないのは、ひとつの概念を理解するための知識です。知識がないことは、悪いことでも何でもありません。新しい概念を「理解」するために「思考」すれば良いのですから。しかし、新しい概念を理解するための思考は辛い精神作業です。
これが、子どもたちが勉強を嫌がる理由の最大のものでしょう。繰り返しが嫌だったり、面倒だったりしますが、「分からない」ことを「理解」するために「思考」する、これがなかなかできないわけです。
一度「思考」の習慣が身につくと、新しい概念を次々と「理解」できるようになります。そして、そのように日々新しい概念を身につけていくことで知識量が増えます。つまり理解できることが多くなり、深くなるのです。すると、さらにさまざまなことが理解できるようになり、自らの世界、つまり、ヒトが人である所以であるところの「思考」を深めていくことになるのです。
「考えなさい」ではなくて…
その深い「思考力」を身につけさせるためにはどうしたら良いのでしょうか。
もちろん「考えなさい」といって解決する問題でもありませんし、ただ待っているだけでもどうにもなりません。ここはひとつ、僕には珍しく「3つのポイント」で説明することにしましょう。
しかし、その前にひとつ。本当に、ここでお伝えしてしまって良いですか?
答えを考えるからこそ、思考は深まり、理解につながるのですよ。ここで解説してしまったら、読者の皆さまの多くは、その回答を記憶して、記憶している限りにおいて実践しようとするだけのことになりかねません。それでもよろしければ、ここから先へ読み進めてください。
はい。子どもの生活面や学習面において「思考の機会を奪う取り組みから子どもを遠ざける」こと、「思考の機会を見逃さない」こと、そして「思考の機会を生み出す」ことの3つの考え方を心に留め置いてください。
順に見て参りましょう。
思考の機会を奪う取り組みから子どもを遠ざける
これは、なかなかに難しいポイントです。なぜなら、習い事には「思考の機会を奪う」ものが多いからです。
プリント学習は、基本的に答えがあって反復しながら、少しずつ学んでいくことを目標にデザインされています。答えがないような問題を大量に与えて子どもに考えさせ、そこから一般化を引き出すようなプリントには、あまりお目にかかりません。
特に日本の学習プリントは、年齢ごと、あるいはステップ毎に目標が定められており、それをひとつずつクリアしてステップアップしていく形がとられています。このやり方は、学校のように一斉授業が行われる現場ではある程度仕方がないのですが、家庭学習にまでこの方式を持ち込む必要はないでしょう。
誤解のないように申し上げますが、「プリント学習をするな」と言っているのではありません。プリントは、大いに活用すればよろしい。ただし、すでに述べてきたように、プリント学習を続けると、早く答えに辿り着くこと、あるいは取り組むこと自体で「勉強している気」になってしまうことが少なくありません。すると、作業化してしまい、考えることをしなくなってしまうのです。
これもすでに述べたように、パンケーキでもクッキーでも何でも構わないので、嵩の感覚と四則の規則をある程度身につけた上で、プリント学習も積極的に取り入れると良いでしょう。原理を理解した上で、九九を暗記したり、計算スピードを高めるのは、大いに結構なことです。
さらに、かなや漢字などを、よりきれいに書くための練習も(本人が嫌がらないのであれば)させれば良いと思います。ただし、文字書きにしても、単に練習するのではなく、考えながら書いた方が圧倒的に上達につながるはずです。
学習が、単なる作業になってしまうようなら、その取り組み自体を考え直すのが賢明でしょう。
思考の機会を見逃さない
これは簡単そうですね。心掛けひとつでできることです。例えば、子どもが宿題でわからない箇所があった場合、手を止めて子どもの質問に耳を傾けましょう。すぐに手を離せない時にも、手が空いたらすぐに相談に乗る旨約束してあげましょう。
宿題に限ったことではありません。散歩中に聞こえてくる虫の声や、季節の花に関心を向けましょう。それらの名前を知ることで、また、鳴き声を知ることで、昆虫や植物に対する興味が湧いてきます。繰り返しますが、まずは知識を得ることが大切なのです。まるで知識がない状態で、思考だけ深められるはずもありません。
例えば、いろいろな月の形があることを知っている子が、どうして月の形が変わるのかと聞いてくるかもしれません。また、昆虫の知識が豊かになった子は、セミの抜け殻を見て、その生態に関心を持つかもしれません。雲の種類を知っている子なら「そろそろ雷が鳴るかもね」というかもしれませんし、雷の仕組みにさらに関心を持つかもしれません。
これらが、チャンスなのです。ここで、答えを言うのではなく、どうしてだろうねぇ?どうなっていると思う?と考えさせるのです。トンチンカンな答えが飛び出すかもしれません。そんな時には「それは思いつかなかった!すごいこと考えついたね」と大いに誉めてあげれば良いのです。
間違っている答えでも、否定するのは良くありません。実は親がそう思い込んでいるだけで、子どもたちの方が正しいことすらあり得るのです。「お母さんはこう考えるけどね」と、あくまでも対等な一個人として接することが大切です。問題集だって、間違っていることもあるかもしれません。
親だから、年長者だから、先生だから、教材だからといって、必ずしも正しいとは限りません。一度与えられた「答え」から距離を置いて、子どもと一緒になって考えれば良いのです。
ここまでは、基本中の基本です。
そして、子どもが自分の考えを述べ始めたら、これは大きなチャンスです。そこからは、インタビュー形式で「どうしてそうなの?」「なんでそうなっているのかな?」「そうするとどうなるの?」とさらに子どもに考えさせるのです。
最初から一人で考えられる子などいません。このように、親が伴走者になり視線を同じ高さにして、一緒に「不思議だなぁ」と考えることで、子どもたちは思考の習慣を身につけ、思考の習慣が身につけば知識が豊富になり、知識が豊富になれば思考が深まっていくのです。
考えるきっかけとなるチャンスは、日常にいくらでもあります。それを見つけて、一緒に考える。これが第一歩です。
思考の機会を生み出す
さて、考える機会を奪うものから遠ざけ、考える機会を発見する。これだけでも十分に考える機会に恵まれますが、さらに一歩進めて、考える機会を生み出すところまで手が回るようになれば「深い思考のできる子」に育つこと請け合いです。
子どもが物事に関心を持つには、さまざまなタイミングがあります。絵画が好きな子、昆虫が好きな子、動物が好きな子、音楽が好きな子、体操が好きな子、スキーが好きな子、さまざまな好みがありますが、それらの好みの決定は、単に待っているだけでやってくるのでしょうか。待っていれば、いつしか美術や芸術、スポーツに関心を持ってくれるのでしょうか。
答えは否。
待っているだけではいけません。ここが「インプット方式」として我々が提唱する学習法の面目躍如たるところです。
何でも良いからインプットする。これが大切です。
例えば、絵本に「風神雷神」が出てきたら、数ある中でも代表的な風神雷神図を見せる。すると、作者によって画風が違うことを発見したりする。そこで美術館へ行き、実物を見て感動する。美術に限りません。七福神でも、埴輪でも土器でも、楽曲でも、スポーツでも構いません。まずはいろいろ与えてみる、何でも良いから経験させる。その中に、本人にピンとくるものが必ずあります。そこを手がかりに、美術、歴史、さまざまなスポーツ、あるいは博物知識へとつなげていくわけです。
これをせずに、単に待つだけでは、子どもが物事に興味を持ってくれるか否か、つまり自ら思考を深めるチャンスを得られるか否かが、「運任せ」になってしまうのです。
なにはともあれ、幼少期のうちに思考力
「思考力」が未熟な子どもたちを「学習の型」に嵌め込むことが、どんなリスクを孕んでいるのかは十二分にご理解いただけたと思います。また、「思考力」を育むためにどのような心がけをすれば良いのかも概説しました。
幼少期に「思考」の習慣を身につけた子たちは、放っておいても考えてしまいます。教科書を読んでも、理解力が高いので、疑問に思う点、理解できていない点が、くっきりと自覚できます。だから、調べられる。だから、考えられる。だから、理解できるのです。そして、そのような子たちは、「〇〇対策」の塾や教材に頼ることなく、「実力」を発揮するだけで超難関大学にも合格できるのです。
最後に、学習の順序を示しておくことにしましょう。
まずは、豊かな語彙と高い理解力を備えた「言語能力」を育てる。その過程には、当然「思考」が至る所に散りばめられていくことになります。そして、思考を繰り返すうちに、「論理性」が身についていきます。ここまでの準備が十分整ったら、合わせてプリント学習などの反復訓練、記憶学習に取り組めば良いのです。あっという間にマスターしてしまい、「もうわかったから結構」と見向きもしなくなるかも知れません。
そのような子に育てることを目標としてください。
最後に、高い言語能力を育てるため子ども向け「幼児教室プログラム」や、深い思考力を育てるための親向けの「地頭力講座」なども用意しています。もちろん、ご自身で正しいと思われる方法を「思考」錯誤されたい方は、「思考と記憶」に関して、大いに研究してみると良いと思います。
ただ、今すぐ答えが欲しい方々は、上記のような講座を受けてしまうのが「楽」であることは間違いありません。
【編集後記】
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児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。