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2024年3月号特集

Vol.312 | 英語教室と幼児向け教室の役割

言語学の視点から習い事を再考する

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2403/
船津洋『褒め方の作法』(株式会社 児童英語研究所、2024年)


つまるところ「言語力」

つまるところ「言語力」 世の中にはいろいろな学問があります。ただ、同じ学問でも世間一般との親和性には、ずいぶん粗密があります。例えば、「歴史を研究している」といえば、「なんの歴史ですか」とか「私も日本史が好きです」とか、何らかの反応を示してくれる人が少なくありません。「物理学です」といえば、「へぇ、難しそうですね」とか「アタマ良いんですね」などの反応が得られるかもしれません。高校までに習う学科であれば、皆んななんとか知っています。しかし、大学でないと学べないような学問、例えば人類学とか社会学、あるいは心理学となると少し様子が違います。「心理学やってます」などといえば「心が読めるんですか」とか「カウンセリングできるんですね」などと言われることもあるようです。社会学も「社会の勉強ですか…」と社会科と勘違いする向きもあるとか。
 まぁ、しかし言語学ほど意味不明のものはありません。「言語が専門です」などと聞いても何を研究しているのかピンとくる人は少数派でしょう。もっとも、本誌を読まれている皆様におかれましては別、「文法ですか、音声の方ですか」と質問する方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは普通のことではありません。一般的には「何語を話すんですか?」「何ヶ国語話せますか?」などなど、言語学の本質とは程遠いイメージを持たれているわけです。
 友人知人との会話の中でも、言語学について分かる人など皆無。なので、質問されない限り、こちらから言語学について話すことは慎んでいます。ただ、酒席の余興でうっかり研究内容の話などしたものなら、熱が入る一方のこちらとは負の相関で、皆さんどんどん冷めていく。ふと気づけば酔いまで覚める勢いで皆様すっかり白けている事も二度三度、いや両手で数えるほどあります。
 という具合に孤独で変人扱いされる言語学ですが、そうそう馬鹿にしたもんではありません。なぜなら、すべての学問に必要なのは、高度に抽象化された概念を処理することができる高い言語力です。人並み以上に高い言語力を持っていなければ、細分化された専門的な学問に没頭することはできません。文系の学問は当然のこと、理系と言われる医学や物理・化学、数学は少し毛色が違いますが、結局は言語力による高い思考力や、それの元となる高い認知力や理解力を持っていなければ始まらない。
 つまり、学問すべての基礎となっているのが言語力なのです。しかし、言語はあまりにもに身近すぎて、まるで空気のような存在です。日常的に言語が意識に上がってくることはありません。言語がなければ、科学の「か」の字もなく、我々が日常生活を送ることから、立法・行政・司法とすべて言語、学問も言語がなければ始まりません。国会を見ていても、「これが言論の府か」と訝るばかりの有様なので、我々下々が言語をあまり大切にせず、テキトーに使っているのも仕方がないのかもしれません。しかし、言語が重要であることは変わりありません。
 要するに「何それ」扱いされているのが、日本における言語学の現状です。ちなみに諸外国では「言語学」は盛んです。特にアメリカには世界の言語学者が集まってくる。それはそうでしょう。先の大戦ではアメリカは暗号解読などの情報戦を重視してきました。言語こそが情報の交換の手段であることを知っているのです。他方、日本は…、結果は歴史が語っています。

 と、まぁ、妙な話はそこまでにしましょう。ここからは、言語学に絡めて、「パルキッズ」やその周辺教材、あるいは世の中の幼児教室を見ていくことにいたしましょう。
 さて、自身の言語体験を振り返ると、小学生の頃から先取りで始めた英語学習、高校時代の留学で成し遂げた英語習得、その後の中学生や幼児・小学生、あるいは成人に対する英語教育・学習支援など、英語との絡みの連続の半生でした。児童英語研究所では、英語教室ばかりでなく、現在のいわゆる「幼児教室」と呼ばれる教室の運営もしており、もちろん私自身、実際の教室での指導にも携わってきました。ついでに一時期は「フランス語教室」まで運営していた事もあります。さらに、音感教育や障害児教育にも携わってきたことによって、それらの知見を活かし、さまざまな教材や教育プログラムを世に生み出すことができたのです。
 その後、なぜ「パルキッズ」の学習方法が「成果を上げることができるのか」という、この点に関して科学的に解明しようと思い立ち、言語学の世界に足を踏み入れました。現在、言語学の世界は理論言語と応用言語に分かれており、前者は基礎研究、後者は基礎研究から得られた知識をさまざまな学問領域、特に英語(言語)教育に応用することを旨としています。今日、中学から高校までの英語教育は、従来の文法訳読式を捨てつつあり、応用言語の風潮(「英語を使ってみようよ、楽しいよ」)という流れへシフトしつつあります。せっかくですから、その辺りも合わせて、理論言語学の視点から検討していくことにしましょう。


言語教育における英語教育の位置付け

言語教育における英語教育の位置付け 当然のことですが、僕も昔は若くて青かった。高校で留学したものですから、村(?!)一番の英語使いでした。そんなことから、学生時分から英語塾を開いておりました。しかし、そこでやっていたことといえば、変わり映えしない教科書の訳読と文法の説明。ただ、あまりうるさく「文法文法」と言わず、「やっているうちに分かるようになるよ」程度の指導が中心で、特に変わったことといえば、月に一度は勉強の代わりに(字幕を隠して)洋画を見せる程度でした。それで、学生たちの英語の成績も不思議と上がるものですから、まずまずの評判です。学生の小遣い稼ぎとしては結構繁盛していました。
 その後、ひょんなことから故・七田先生とご縁ができ、現在代表役を務めている児童英語研究所にお世話になることになりました。そこには外国人と普通に会話したり、英検2級を持っている小学生などがゴロゴロしていたわけですが、これは大変なショックでした。これが、22歳の時。その後、まぁ弟子入りのような形で、様々なアドバイスや指示を受けながら教材を作ったり、教室のカリキュラムを整えたりすることになります。
 まず、手始めは英語教室のカリキュラムでした。当時、オリジナル教材は「幼児と母親が一緒に学ぶ英会話シリーズ」や「パルイングリッシュ」(←検索能力高くないと出てきませんよ)程度しかない中で、市販教材をはじめ輸入教材(Shortland社、PriceSternSloan社、Safari社)などを組み込みながら、教室・家庭学習用教材を組み上げていたものでした。ここがポイントです。教室用の教材を作るのは当然ですが、我々は40年近く前から家庭での日常的なインプット教材の制作に取り組んでいたのです。時代の先取りどころか、いまだに誰も付いて来ない(なぜなら、マーケットは「英会話」と「楽しさ」を求めているから)まさにぶっちぎりの独走状態が続いているようです。

 さて、ここから「パルキッズ」の英語学習を言語学的見地で見ることになりますが、その前に、言語教育における英語教育の位置付けを確認しておくことにしましょう。言語学の世界において、言語とは「獲得するもの」と位置付けられています。つまり、英語は「勉強」では身につかないか、あるいは絶望的な成果しかあげられない、という考え方が一般的に行われています。この点、故・渡部昇一先生のような「文法訳読の何が悪い。中高の英語教育のありようは、実用を追うのではなく知的格闘力の涵養にあるのだ」というくらい気概のある教育者に、最近お目にかかれないのが少し残念です。
 話を戻しましょう。英語は勉強しても身につかないのが定説ですが、それでは、ということで「実際に使ってみよう」という集団がいます。対面からネットへと河岸を移しながら、英会話ブームが終わることがないようですし、最近ではAIを使った発音指導へと興味の対象を移しながら、やはり、英語を口にしてみようという指導が盛んです。また、中高で取り入れられている “CLIL : Content and Language Integrated Learning、内容言語統合型学習、クリル” も同じです。内容言語統合型学習などというと、真新しさを感じる人もいるのかもしれませんが、その成果の程といえば、調査のやり方によっては有意差が確認できるようなものです(「パルキッズ通信2020年5月号」参照)。しかも、中高の英語に CLIL を導入するために大学入試改革があったことが発覚したり(「英語教育改革の行方」吉田研作・上智大学特任教授 2019.11.07 jnpc : 日本記者クラブ公式YouTube)、結果として、とある調査で英語が好きな子が “増えた” 程度の成果しか見込めないことを考えれば、うーむと唸ってしまいます。

 言語学、とくに音声学や音韻論的な見地からすれば、「やる気」とか「好き」などといった主観的な要因を変数にするあたりが疑問ですが、そうでない要因、例えば “LOR : length of residence、(移民してからの)滞在期間” や、年齢差による優れた英語環境(標準的な発音をする教師や友人)の有無などが主に研究されます。そこでは、やはり「インプット」とその「量と質」に焦点が当てられ、それにより、学習者がどのように母語以外の言語の音素を身につけていくのかの研究がなされています。(Best et al., 2007; Flege, 1995)
 研究を待たなくても、英語を身につけるためには、まず「聞き取り」ができないことには話にならず、その後「和訳せず理解」できるようにならねばならぬことは自明です。しかし、聞き取りの訓練ではなく、話す訓練に偏向しているのが今の英語教育全般の傾向です。また、ネイティブであれば2歳児でも英語を身につけ、話すことができる、つまり、聞き取り、理解し、少なからず意思を伝えることができることを考えれば、1000語ほどの語彙で、基本的な英語力は発揮できるはずです。それにもかかわらず、話してみる、使ってみる、単語やフレーズを覚えるといった学習法が未だに市民権を保持し続けられるのが、日本という国の特殊性かもしれません。アカデミアの研究の成果も無視して、やはり英会話だ、などというのには論理も何もありません。最早これは信念あるいは信仰とも呼ぶべきでしょう


幻の「アウトプットプログラム」

幻の「アウトプットプログラム」 さて、件の児童英語研究所です。入社して間もなく七田チャイルドアカデミー(現イクウェルチャイルドアカデミー)の設立に伴い、僕が児童英語研究所の教務から運営全般を任されることになりました。ちなみにチャイルドアカデミーは、児童英語研究所の幼児教室と英語教室のプログラムをベースに設立されました。もっとも、今では似ても似つかぬカリキュラムとなっていますが、料金体系やレッスンの構成人数なども、当時の児童英語研究所のやり方を踏襲していました。つまり、現在世の中で行われている幼児教室の概念は、当時の児童英語の教室そのもの、月額14000円とかで定着しており、大手ではその半額の月謝のところもあります。この金額で、1クラス平均4名程度の指導をしながら利益を上げるのは大変なことです。もっと高く設定していれば良かったかもしれません。しかし、その後35年間に渡り、あまり月謝が変わっていないのは、日本がそれだけ残念な国になってしまった証でしょう。

 さて、幼児教室に関しては後述するとして、まずは英語教室の話です。人間とは愚かなものです。恥ずかしながら、かくいう僕も同類。私塾時代は文法・訳読、映画鑑賞でしたし、その後、英語教室を運営するようになってからも、世間一般にありがちな誤りを犯します。つまり「アウトプット・プログラム」なる愚物を生み出したのです。
 当時のことですから、ワープロで作られた20ページほどの冊子です。そこに記したのは、レッスン中に子どもから英語のアウトプットを促すことを目的とした、十数項目からなる取り組み羅列でした。ハローソングを歌った後の挨拶から始まり、自己紹介、フラッシュカード、単語読み、絵本、フォニックス、ライミング、ゲーム、プリント学習から最後のお楽しみチャントまで、取り組みやカリキュラム外で、子どもからアウトプットを引き出すヒントが満載の小冊子です。「家庭でインプットをしたら、教室でアウトプットだろう」との浅知恵からの企画書でしたが、これを提言したものの言下に却下されたものです。
 今考えてみれば、愚かな話です。アウトプットは促して引き出すものではなく、子どもから自然と溢れ出るのを待つものなのです。障害児教育に携わっていたときに、「水は注ぎ続ければ、自然とコップから溢れる」とは肝に銘じていたはずなのに、いざ英語となると、恥ずかしながら、アウトプットを促そうという言語習得の王道(自然な治世)の真逆の覇道(力でねじ伏せるやり方)を提案している自分がいたのでした。これが、24, 5歳の時。まだ「パルキッズ」が生まれる前の話です。
 もちろん、却下の背後にある「インプットだけすれば良いのだ、アウトプット(なんか)は自然と付いてくる」という無言のメッセージにすぐに気づき、己の愚かさを恥じ、その後は「インプット一筋」「いかにインプットを継続させるか」に専念してきたことは、いうまでもありません。ああ、恥ずかしかった。


帰納だろうが普遍文法であろうが「インプット」

帰納だろうが普遍文法であろうが「インプット」 さて、そんな「パルキッズ」方式の英語教育は、他とどのように違うのでしょうか、言語学的な見地から振り返って見ることにします。まず、「パルキッズ」の最大の特徴はインプットにあります。すでに述べたように、あるいは現在の英語教育の機能不全を考えれば、言語の習得・獲得には良質の言語証拠の大量インプット以外方法はありません。
 「留学があるではないか」「インターナショナルスクールがあるではないか」という向きもあるでしょう。しかし、それは良質な英語を大量にインプットをする “場” を強制的につくっているだけのことです。また、「それでは純ジャパはどうなるのだ、かれらは留学せずに英語を身につけているではないか」という事実もあります。その答えも簡単です。英語学習に対するモチベーションが並外れて高い子たちがいます。そんな子たちはどのように英語を身につけるのか。簡単な話です。モチベーションが高ければ、英語の映像や音声に触れる機会が増える。さらに、そんな子たちは大量に英文を読みます。つまり、良質の英語のインプットが増えるのです。それだけのことです。付け加えておきますが、彼らは映像や音声を少しばかり聞いたのではありません。または少しばかり英書を読んだのではありません。それらに「大量に」触れたのです。それによって、人が本来持っている言語学習プログラムのスイッチが入ったのです。
 理論言語の世界には、チョムスキーの提案した「普遍文法」という考え方があります。これはとても便利な考え方です。つまり、ヒトは幼児期に母語を獲得してしまう。そこには個々人の能力は関係しておらず、本人の努力も全く関係なく、ヒトとして生まれれば、優劣関係なくどんな子でも2歳くらいまでには母語を身につけてしまうとされています。子ども達の生育環境には、代表的には母親から与えられる不完全で乏しい言語証拠しかなく、また否定証拠(言い間違えを指摘されるなど)を与えられることもなかなかありません。しかも、不思議なことに家庭環境は違えど、どの子もほぼ均一の母語の運用能力を有するわけです。もちろん、その後の言語教育(日本語においては国語教育)によって、理解力やその運用力には雲泥の差が生じますが、この点は後節に譲るとして、基本的な言語回路においては、どの子も均一の能力を身につけるわけです。詳しくは「パルキッズ通信2015年8月号」参照
 これってすごくないですか?

 ただし、普遍文法を活かした言語習得には、年齢に制限があるという考え方が中心です。臨界期を超えると、生得的な言語習得回路は働くなるというわけ。でも、ですよ、これって本当ではありません。幼児期を過ぎてしまった個体でも、まるで幼児が母語を身につけるようなレベルで外国語を身につけることができることがわかっています( “SLA : Second Language Acquisition、第二言語習得、留学生や帰国子女のような外国語習得メソド” )。いや、かくいう私も、高校生からの留学で英語は普通にできるわけですし、五十歳を過ぎてから学んだラテン語やフラ語もそれなりに分かるようになっているわけです。では、なぜ、そんなことが可能なの?それは、インプットされた言語証拠の法則を帰納的に見出す能力が、ヒトにはあるからなのでしょう。これについては「パルキッズ通信2023年6月号」などをご参照ください。
 つまり、幼児期は普遍文法、幼児期を過ぎても帰納学習で外国語を学ぶことは可能なのです。そして、そこに必要なのは、「インプット」と相なるわけです。そして、幼児期の普遍文法活用であれば、最低限のインプットでも達成できますが、その後の帰納学習となると良質な言語証拠の大量のインプットが必要となるのです。幼児期であれ、それ以降の学習であれ、外国語習得を可能とするのは人間に元来備わっている学習能力の「スイッチ」を入れることであり、そのスイッチを入れるのが「インプット」なのです。アウトプットなんか後からついてくるもの、引き出したりせずに待っていれば良いのです。

 というのが、40年ほど英語教育・学習業界で過ごし、さらには10年ほどアカデミアで思考を深めた結果です。「いやいや英会話でしょ」という向きはご自由に。論理的な思考をお持ちの賢明な読者の皆様には、お分かりいただけるものと期待しております。


能力開発と言いながら、結局は言語

能力開発と言いながら、結局は言語 ここからは幼児教室の話です。英語教育と幼児教育、まぁ、幼児教育という概念自体が曖昧模糊としている。おそらく、辞書的な幼児期養育とは別の意味での幼児教育が、現在は主流になっています。それもこれも、児童英語研究所で行われていた教室が幼児教室であり、フランチャイズ化され新しい概念が広まることで、辞書的定義以外の「幼児教育」が一般化したのかもしれません。また、似たような概念で才能開発があり、「生まれつきの能力を開花させること」だそうです。その意味では、幼児教育というよりは才能開発教育といった方が、現在あるところの「幼児教育(ならびにその教室)」を表すのに適しているかと思われます。
 さて、その幼児教室ですが、教室に通わせる目的はどこにあるのでしょう。英語教室の場合には、小学生で英検準2級、中学生のうちに英検準1級を取れるような英語力を身につけさせるのが目的です。しかし、幼児教室の「ゴール」とは、どこに、何があるのでしょうか。これ、実は関係者に「幼児教室の意義を一言で」と聞いて回ったことがあります。しかし、帰ってくる答えといえば、「あの先生がこう言った」「才能豊かな」「IQだけでなくEQも高い子に」などと、どうも曖昧模糊としている。ズバリ「中学受験に強くなる」とか謳ってくれればスッキリするのですが、なんだか全体的にふわふわしていた記憶があります。
 それでは、幼児教室に通わせる目的とはなんでしょうか。ちなみに、幼児教室での取り組みをご存知ない方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に取り組みの内容を記しておきましょう。これは、児童英語研究所で35年程前に提供していた、幼児教室プログラムの内容であることをお断りしておきます。まず、ちえ・もじ・かずと呼ばれる分類がありました。また、記憶や指先や視幅拡大の訓練などなど、情報のインプット以外の取り組みもありました。それらをフラッシュカードを中心としたインプット、またはパズルやプリント類などさまざまな教材・教具を使いながら学習させていきます。アウトプットの機会としては、記憶した内容の暗唱や、文字読み、あるいはゲームを通した発話などがありました。あとは、ESPとかイメージトレーニングとか、まぁ、多かれ少なかれこんな感じでした。
 「ちえ・もじ・かず」という分類について、少し考えてみることにします。「ちえ」のサブカテゴリーには基礎概念がありました。基礎概念には空間認識(英語の前置詞のようなもの)から色・形、大小をはじめとした比較、カレンダーや時計など時間の概念に関わるものなどがありました。「もじ」は仮名をはじめとした文字記号で、「かず」は基数と序数、それに加えて演算子などです。基礎概念や基礎語彙、文字記号と数詞くらいではすぐにネタが尽きてしまうので、そのほかに一般名詞や固有名詞、形容詞、副詞が大量にフラッシュカードの形で与えられていました。
 これらは、どんどん下位カテゴリーへと広がっていきます。例えば「イヌ」のサブカテゴリーには「チワワ」「ブルドッグ」などがあります。これらが動植物の世界へと広がります。また、形にはある程度限界がありますが、色はかなり細かく分類されています。もっとも、それらの色をフラッシュカードにするとなると、業者が使う色見本を切り貼りしてカードにするなど、大変な労力とコストがかかっていました。懐かしい。けど、もう二度と戻りたくない過去のひとつです。
 
 と、まあ、書き連ねてまいりましたが、顧みるに「幼児教室」とは、語彙を豊かにして世の中の理解力を高めることを “結果として” 目標にしていたことになります。絵画や楽曲など言語以外の知覚力を高める取り組みもなされていましたが、基本的には言葉を豊かにして、子ども達の認知の範囲を広げることに寄与したわけです。


言語教育としての幼児教育のあり方

言語教育としての幼児教育のあり方 言語教育という視点から幼児教育を考えてみると、英語教育とは際立って異なる点があります。第一に、英語教室は、英語そのものを身につけさせることを目的としています。つまり、英語で聞いたり読んだりして、それを日本語に訳すことなく直感的に理解できる。例えば日本語で「昨日の晩御飯何を食べましたか?」と尋ねられると、カレーなり寿司なりが即座に脳裏に浮かびます。そして、「カレーです」とか「寿司です」と答えます。ここで重要なのは、耳にした日本語に翻訳を加えていないことです。耳に入った日本語を「理解しよう」とする前に、カレーとか寿司のイメージが浮かぶことが重要で、これを司るのが日本語の回路となります。
 これと同様に、英語で “What did you have for dinner last night?” と尋ねられたら、日本語に訳すことなく、即座にカレーなり寿司が思い浮かぶ回路を身につけること、つまり日本語の回路と同じような英語の回路を構築することが、英語教育の目指すところです。
 他方の幼児教育の目標は、まったく異なります。そもそも「昨日の晩御飯に何を食べた?」云々における日本語の回路はすでに身につけている子ども達が、幼児教育の対象です。つまり、日本語の回路がある上で、その日本語の回路をより優れた「国語力」として高めていくことが、幼児教育の目標です。
 もちろん、これは児童英語研究所の幼児教室のあり方の回顧論なので、現在の巷の幼児教室の理念とは相容れない “かもしれない” ことは断っておきますが、結果として語彙を豊かにして、理解力を高める教育をしているのであれば、それは言語教育に他ならないことは論ずるまでもありません。
 ここで、勘の良い読者はお気づきでしょう。英語教育は「生活言語」レベルの言語力の教育で、幼児教育は「学習言語」レベルの言語力の教育ということになります。これに関しての詳細は、「パルキッズ通信2018年4月号」をご参照いただくとして、単に「英語教室があれば幼児教室がある」という単純な思考ではなく、それらをひとつの俎上に載せて観察することで、言語力を二段階に分けて、その上で英語教育を行なったり、幼児教育を行なったりするという科学的な姿勢が親にも、あるいはいわゆる教育を提供する側にも求められるのではないでしょうか。


言語を身につけるのか言語で身につけるのか?

言語を身につけるのか言語で身につけるのか? さて、英語教育は「生活言語」としての英語力を身につけさせるための教育であり、幼児教育は「学習言語」としての国語力を身につけさせるための教育であることが分かりました。すると、「英語でさまざまな内容を学ぼう」という “CLIL” は「学習言語」としての英語の能力を伸ばそうとしていることが分かります。しかし、「学習言語」を学ぶためには、まず「生活言語」レベルの英語が身についていないことには、チンプンカンプンです。最後に、幼児教育の本質に移る前に、言語を使用しながら言語を身につけるという考え方に関して、少し整理しておくことにします。
 世の中には頭の良い人がいるもので、実際に行われている言語指導にいろいろな名前をつけてくれます。その中で、 “Focus on Form” というものがあります。これは言語活動の中で form(形式、つまり文法)にも所々注意しようね、という学習法です。それに対して “Focus on Forms” というのは、なんと言っても文法に注意を向けよう、という学習法です。後者が従来的な言語学習なのに対して、前者は “CLIL” と直接通じていて、コミュニカティブな英語の使用を通して英語を身につけようという考え方です。まぁ、そんなことはどうでも良いことです。一口に言ってしまえば、文法をある程度以上身につけた人向け、つまり大学生などを対象とした学習法です。つまり、ある程度以上の「生活言語」として英語のレベルが担保されているのが前提となります。そうでなければ、英語でコミュニケーションなど取れるわけがない。
 これに関しては、留学生と帰国子女の違いでスッキリ説明できます。留学生は「生活言語」レベルの英語力がある程度以上身についている、あるいは、その素地となる英語の知識が十分にあるという前提で留学します。例えば高校留学でも、英検2級以上を持っていないと、今日では(「語学留学」は別とした)留学は難しいでしょう。そして、彼らは現地で(結果として知らずのうちに)”CLIL” を実践することになります。そして、数ヶ月から半年程度で英語が聞き取れるようになります。聞き取れるようになればこっちのものです。1年経つ頃には未熟な「生活言語」をそれなりの「生活言語」レベルに育て上げ、帰国すると立派な留学生となります。
 他方の帰国子女の多くは、英語の知識をまるで持たずに、親の都合で英語圏なりに放り出されます。よく聞く話ですが、帰国子女は最初の1年間は “無言” の東洋人として過ごします。ところが、彼らは2年目になると、英語なり現地の言葉を話し始めるようになります。そして、結果的には1年程で帰国する留学生より、高い英語の知覚力・産出力を身につけて帰ってきます。
 こう考えると、留学生は “CLIL” ですね。それを大学生以上の英語力を持つ人間を対象に援用しよう、というのが “CLIL” の考え方です。これをまるで英語の基礎もなっていない小学生にまで当てはめようというのですから、気が知れません。さて、問題は、帰国子女です。彼らは英語の基礎的な知識も持ち合わせずに、英語の世界に放り込まれます。そして、ひと言もわからないまま時間を過ごします。そのうち、英語が分かるようになりますが、留学生のように数ヶ月で、ということではなく、いろいろ話を聞くと、大体一年程かかっているようです。それもそうでしょう。英語の文法知識も語彙もないまま、英語の世界に放り込まれるわけですから、留学生よりもよほど過酷です。もっとも、留学生と違い学校から家に帰ると家族が待っているわけですから、その点留学生の方が英語漬けの度合いは激しいことになります。そんな彼らは、大量の音声インプットから、帰納的に音素やフレーズを知覚できるようになり、そこから産出も始まります。つまり、両者に共通しているのは、やれ “Focus on Form” だ、やれ “CLIL” だというお題目ではなく、人が生まれ持っている帰納学習のスイッチを入れるための、大量の英語のインプットがある環境に身をさらしたという点です。決して、「英語を話してみて」「コミュニカティブなアクティビティのなかで」英語を身につけたわけではないという点に着目するべきでしょう。”CLIL” が成功するとすれば、期せずして大量のインプットがなされた場合、といっても良いでしょう。


結局は概念のインプットと理解力向上の訓練

結局は概念のインプットと理解力向上の訓練 さて、英語教育はもちろん言語教育なので、僕の範疇の話ですが、幼児教室も学習言語を身につけさせるための教育と考えれば、幼児教育も言語教育から言語学の範疇に入ってきますので、僕の面目躍如たるところです。せっかくですので一言二言、言わせていただくことにします。
 数も含めたさまざまな概念は、言葉によって表されています。木なら木という意味に「キ」という音が割り振られています。数も同様です。境界のはっきりしている物体の個数も、五つならば「ゴ」、十なら「トウ」という音が割り振られています。それぞれが概念です。そして、その概念をたくさん知っていると、世の中が詳細に見えてきます。木の種類に詳しい人の目には、眼前に広がる森の中で何十種類もの植物が鮮やかに見えていることでしょう。他方、木の下位概念である各植物の名前など知らん、という人の目には「木がたくさんある」としか映らないのです。これが、多くの概念を知ることの意義です。この意味では、幼児教育は子どもたちの目の前の世界を詳細に知覚させる、語彙の豊かさという、極めて強力なツールを身につけさせる教育と言えるでしょう。
 子どもの言語能力を向上させたい場合に、「思考力・判断力・表現力」などと文科省が言っていますが、思考力とはつまり、理解力をベースに論理性をもって思いを巡らせる能力です(「パルキッズ通信2021年2月号」参照)。また判断力は、思考の産物として生み出された選択肢から最適解を選ぶ能力であり、また表現力も言語能力というよりは、判断された選択肢を相手にわかりやすく伝えるための倫理観が必要となります(「パルキッズ通信2023年7月号」参照)。もちろん、論理性や判断力、倫理観や表現力のベースとなっているのが豊かな語彙と高い理解力を総合した言語能力です。
 すると、やはり言語力の涵養が幼児教育の中心となる。そして、そのためには、ありとあらゆる概念のインプットによる、知識の増大、語彙を豊かにすること、これらが必要になるのです。一口に言ってしまえば、幼児期の教育としてすべきは「優れた情報の大量インプット」に尽きるのです。

 さて、英語教室から幼児教室、あるいはそこで行われる教育に関して、つらつらと述べてまいりましたが、いずれにしても、インプットしかないのです。親は淡々と子に与え続けるのみ。アウトプットは、インプットが満ちれば自然と得られます。道半ばでアウトプットを引き出そうとして親子関係を拗らせたり、学習意欲を萎えさせたりする親御さんも多く見られます。すでに、どうやったらうまくいくか、どうやったら失敗するかは、検証済みなのです。40年近く取り組んできた結果を、今回は簡単にとまめたわけですが、これが、現在育児真っ只中の皆様のお役に少しでも経つことができれば幸いです。

 生活言語レベルの日本語を、学習言語レベルの国語力へと導く教材、その名も「幼児教室プログラム」がリニューアル販売されます。従来の音声インプットとプリント学習に加えて、毎月8回のオンラインレッスンに取り組めるようになります。幼児教室を家庭に持ち込む考え方で、現代を生きる忙しいご両親の時間と金銭面でのコストを、大幅に削減することになります。新学期からの国語教育にお役立ていただければ、幸いです。


【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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