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2020年11月号特集

Vol.272 | 英語やっててよかった!

「知識の格差社会」で生き残れる子どもたち

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2011/
船津洋『英語やっててよかった!』(株式会社 児童英語研究所、2020年)


 子どもの習い事ランキングでは、常に上位を占める「英語」ですが、これは子どもばかりでなく、コンプレックスビジネスなどとも呼ばれ、大人もせっせと英語に精を出しています。
 大人の場合には、ひょっとすると必要に迫られての英語なのかも知れません。しかし、必要に迫られる以外のケースでは、本当に私たちには英語が必要なのでしょうか。仮に英語が必要なら、それはなぜなのでしょうか。今回は、まずその辺から始めてみましょう。


英語を身につけようとする「理由」はいろいろあるようです

特集イメージ1 外国人とコミュニケーションができるようになるため、中学から大学までの受験に有利、社会に出てから英語ができると得をする、などなど様々な理由が挙げられそうです。でも、英語の必要性って、本当にそんなことなんでしょうか?

 ひとつずつ、反論してみましょう。

 コミュニケーション云々に関しては、そもそも、なぜ外国人とのコミュニケーションの必要があるのでしょうか。
 日本人では飽き足らず、外国人の友だちを作りたいのでしょうか。それなら、その前にもっと日本人の友だちを増やしてはどうでしょう。
 言葉の通じる日本人同士でも、十分に豊かな多様性があります。道ばたで外国人に声をかけるくらいなら、電車や観光地、レストランや道で行き会った気になる日本人に声をかけて友だちになれば良いのではないでしょうか。それこそ片言の英語で、表面的なお友だちを演ずるよりは、日本人と日本語でコミュニケートする方が、余程深くお互いを知ることができます。
 もしくは、「異文化交流」が目的なのでしょうか? 道ばたで出会った外人と文化を語り合えるほどの英語力があれば、それも可能でしょうね。
 あるいは外国人と話すことではなく、英語で外国人と話している自分に価値を感じるのでしょうか。となると、これは、もう自己満足の世界で、先方も迷惑な話です。

 次に、受験に有利という考え方があります。『パルキッズ通信2018年9月号』でも紹介しているように、確かに英語ができることは受験に有利です。また、就活にも学歴が有利に働きます。そこで、より良い大学へ進ませるために英語を身につけさせたいという発想をするのは、極めて理にかなっています。
 しかし、英語ができると「有利である」ということは事実ですが、英語ができないと超難関・難関大学の合格が不可能だというわけではありません。現に、英検2級程度の英語力でそれらの大学に合格する学生も掃いて捨てるほど居ます。
 基本的な「知識」と「考える力」がなければ、いくら英語ができても、ただそれだけのことです。

 次の、社会に出てから云々ですが、確かに、英語力を求められる職場もあります。しかし、そのような職場は限られています。日本はそこそこ人口が多いので、ある程度以上、内需でまかなえてしまえます。つまり、外国とのビジネスに関わらないのであれば、特に英語力などなくても大丈夫です。
 大企業では、昇進の条件として英語力を課すケースが見られるようです。しかし、終身雇用や年功型賃金形態の廃止などで、もはや、大企業に就職すれば人生安泰という時代ではありません。その大企業ですら、社員に副業を推奨するご時世です。
 デジタルネイティブな若い世代では、自立してビジネスを立ち上げる人も増えています。そもそも、彼らはテレビを見ないのでテレビ世代の価値感とは異なった新しい世界の見方をしています。熾烈な競争を勝ち抜いて就職しても、結局はリストラされるくらいなら、その前に自分で自分の身を考えるという、極めて当たり前の職業選択をする人も増えてきています。
 メディアの洗脳から抜けきれず、”バブルアタマ”のままの親たちの中には「名のある大企業に就職して欲しい」「公務員になって欲しい」などと時代錯誤の感覚を持っている方もいるようですが、そんな価値感を押しつけられて迷惑するのは、当の子どもたちなのです。しかも、彼らの方が新しい世界に対する正しい感覚を持っているというのですから、お粗末な話です。
 それでは起業するのに、果たして英語力は必要でしょうか?そんなことは、まったくありません。逆に、英語力を活かしての起業という方が難しいのではないでしょうか。英語力で生きていくよりは、自分にしかない価値を見つける方がずっと大切で強味になります。

 と、まぁ、英語教材を売り物にしている会社の人間が「そんなことを言って良いのか?」という内容ですね。ただ、上記のことは本当のことです。英語力などなくても、才覚次第で十分豊かに生きていける世の中なのです。
 仮に、「英語を学ばせる理由」が上記のようなものであれば、簡単に否定されてしまいます。現に英語熱に対する冷たい風潮が、世の中の一部に存在することは間違いありません。

 そもそも、英語推進派の「英語を学ばせる根拠」が脆弱なのです。もちろん、英語をお子さんに学ばせている親御さんたちの中には「絶対英語」という信条あるいは信念のようなものをお持ちの方もいらっしゃるでしょうけれど、それは別として、大半のご家庭では「とりあえず英語」「やっておいて損はない英語」「やらないよりはずいぶんマシな英語」といった程度の認識でしかないのが本当のところでしょう。
 もちろん、英語ができること自体は、悪いことでも何でもありません。それどころか、メリットばかりです。ただ、これは英語に限りません。スポーツもできるに越したことはないし、楽器演奏もできればステキです。ただし、できなくても死ぬわけではありません。この点、英語も特別ではありません。
 繰り返しますが、英語を身につけさせる根拠に関して地に足の付いた論理を持っていないので、さまざまな誘惑(「英語を話してもらいたい」に代表される)に惑わされたり、子どもの成長における(入学や受験などの) 過程や、あるいは子どもたちの(「英語きらい」「分からない」などなど)時々の様子に振り回されて、英語教育が停滞することも珍しくありません。

 そこで、今回は、そもそもなぜ英語が必要なのか、というこの点について人類の進化や文明の発達の視点から巨視的に眺めてみることにします。

 簡単に否定されるような理由で英語を勉強させるから、安易に表面的な英語力を求めてしまったり、あるいは途中で止めてしまうのです。「英語を身につけること」の本当の意義を理解すれば、そんな事どもに惑わされることなく、我が子の英語教育に専念できることでしょう。


文字があるから今の私たちがある

特集イメージ2 それでは、大上段から結論をば。
 英語を身につける理由は、「新しい価値を生み出して文明を一歩前進させる」ためです。
 「おやおや、これまた大きく出たなぁ」と鼻白まれるかも知れませんが、ちょっと待ってください。当方大まじめです。

 人類が6万年ほど前に「ことば」を獲得してからつい最近まで、それこそ数千年前まで文字はありませんでした。私たちの先祖が文字を発明してから、まだわずか5千年程で、それ以前は音声によるやりとりばかりだったわけです。5千年前というと、日本では縄文時代ただ中の話です。
 音声はその定めとして、生み出された刹那に次々と消え去っていきます。それでも、狩猟生活や簡単な農耕生活程度であれば問題なく、日々が過ごされていったのでしょう。
 ただし、定住するようになって集団が大きくなると統治者が必要になり、さらに農耕文化が広範囲に広がっていくと、音声だけではなく、他の手段での情報伝達が必要になります。
 情報伝達とひと口に言いましたが、これには「共時的」な情報の伝達と、「通時的」な情報の伝達があり、共時的というのは、その時々におけるヒトとヒトとのことばのやりとりであり、通時的というのは時を超えたことばのやりとりを指します。
 どんなに優れた哲学者でも、死んでしまったら、その知識は彼と一緒に虚空へ消えて無くなります。その彼の知識を、時を超えて次世代へ伝えることができるのが文字です。そして、文字が生まれたことで、より広範囲に、しかも人の一生という時間制約から逃れて、文化を継承することができるようになり、その積み重ねから現在の文明が生まれてきたのです。
 私たちが新幹線や飛行機に乗って移動したり、テレビやスマホを使ったりすることも、文字を持った文明の知識の集積の上に、さらなる新しい価値が生まれる続けることによって可能となったのですね。


知りたがる本能

特集イメージ4 このように、文字という記録媒体が作られたことによって文明は生まれ発展してきましたが、ただ単に文字があるだけでは、今日の我々はありません。もうひとつ、重要なファクターがあります。それは、私たちがことばと共にセットで手に入れた「知識への欲求」です。
 文字は単なる記録ですから、それを活用しなければ、記録された知識は活かされないままです。

 ”Nihil sub sole novum.” という聖書の一説があります。ヘブライ語はまったく分からないので、ラテン語で失礼しますが、いかがですか?ちょっとラテン語を出しただけですが、その方がなにやら説得力があるでしょう。これも、ことばのパワーですね。
 さて、上記ラテン語は直訳すると「太陽の下新しいものなし」とでもなりましょう。確かに、魔女がいたり、昆虫は地から湧いて出ると考えられていたり、あるいは地動説に対する天動説など、特に自然科学の面においては、その当時の知識の範囲で結論づけられていることもありました。
 しかし、人間の本性は昔から変わらないもののようです。2千年以上も前に生まれたという『イソップ寓話』は、今読んでも、人間の本性を的確にまたユーモラスに現しています。
 
 つまり、「なんでうちの子は…」「どうして私だけ…」というのは誤った認識だと言えます。
 おそらく、今我々が直面している悩みのほとんどは、先人たちが経験済み、解決済みのことばかり。思い悩むよりも、そんな人類の記録を知れば、悩む必要などないでしょう。少なくとも、悩んでいるのは1人じゃありません。孤独を感じる必要など、まったくないのです。
 ただ、この「知ること」ができる人類の権利を、あまりにも多くの人が行使していないようです。
 もちろん、”ググれば” 何か出てきます。ただ、事はそれほど簡単ではありません。

 何が簡単ではないのかというと、現代の社会では、複合的な知識から新たな価値が生まれ、それらが新しい知識として記録されます。さらにそれらの新たな知識同士が組み合わさって、さらに新しい価値を生み出す、というスパイラルの中にいます。
 つまり、ヒトの悩みが多様化しているため、優れた検索能力を持っていなければ、たとえ “ググって” も答えに行き当たらないのです。あるいは、ネット上に、あるいは出版物として答えが存在しないケースも珍しくありません。
 そこで重要なのは、「そもそも」自分が何に関して悩んでいるのかを正確に分析する能力です。複合的な要素が絡んだ目の前の現実を、ひとつずつひもとき、バラバラにする。とことんまで、因子に分けていく。すると、一見すると新しい悩みも、人類がすでに経験済みの原始的な悩みの複合体であることに気づかされます。
 はい、これでお悩み解決です。

 ただし、個々の因子も、それらに関する知識がなければ、知覚もできず分解もできません。結局悩みも解決されないのです。

 このように書くと、「なんだ、知らなければ分からないじゃないか」「結局は知識の詰め込みか」と感じられる方もいらっしゃるかも知れません。
 はい。それはそうです。膨大な量の知識がなければ、直面している問題を分析できないわけですから。ただし、私たちには強力な味方がいるのです。それは、ヒトが言語と共に獲得した「知りたがる本能」です。知識を増やすために、この「知りたがる本能」を発揮させれば良いのです。

 「知りたがる本能」は、みんな持っています。ただ、これがなかなか発揮できない。これはお子さんをお持ちの方は、体験済みの方も少なくないはずです。相手が子どもであれば、興味を持たせようとしたり、楽しませようとしたり、いろいろ工夫するわけです。
 しかし、本来そんなことは必要ありません。「知りたがる本能」のスイッチを入れるのは簡単なことです。


ある程度知ると「知りたがる本能」のスイッチは勝手に入る

特集イメージ5 知りたいと思わせるためには、ある程度以上の知識を持たせればよいのです。

 楽器演奏を例に取りましょう。最初は苦労してもなかなかうまく演奏できません。しかし、初歩の簡単にできることから、根気よく指や身体を動かし続けると、気づけば複雑なこともできるようになっています。
 ほら、楽しくなりますね。スイッチが入りました。すると楽器に接する時間も、音楽に関して考える時間も増えるので、自然と上達します。
 その対象は、電車であったり自動車であったり、魚や植物であったりしますし、虫めずる姫君なら昆虫、歴女なら歴史遺産や背景にある物語であったりします。知れば知るほど、楽しくなるのです。
 知識一般に関してもおなじことが言えます。分かることが増えると、新しいことがすっと理解できるようになる。知識が増えれば増えるほど、新しい知識の獲得が楽になります。そして、分かるようになると、「知りたがる本能」のスイッチが入る。

 そして、あることに気が付きます。

 ”Scio me nescire.” とはソクラテスの言で、これまたギリシャ語も分からないのでラテン語で失礼しますが、直訳すると「私が知らない(という)ことを(私は)知っている」となります。いわゆる「無知の知」です。

 これが「知りたがる本能」の正体です。知ると分かる。分かると知らないことが見えてくる。 (←ココ重要) そして、もっと知りたくなる。

 ヒトが言語と一緒に手に入れてしまった「知りたがるの本能」のスイッチが入れば、「文字」を通して先人たちの知恵をどんどん吸収できます。すると、さらに知りたくなり、それが結果として新しい価値を生み出すパワーの源となるのです。

 こう書くと、本を読めば良いのかと感じられる方もいらっしゃいますが、本の種類にもよります。娯楽的な文学では無く、やはり自然科学や古典的な知識を得られるような内容のものが良いでしょう。これは以下に述べていきます。


知識があるから考えられる

特集イメージ6 ここで、最近もてはやされている「考える力」について言及しておきましょう。
 教育現場では知識偏重教育への反省から、知識だけじゃなくて、考えることもしようね、と子どもたちを指導するとかしないとか。「知識」より「考える力」らしいですね。この風潮に関しては何と申し上げて良いのやら。ううむ、と唸ってしまいます。

 「考える」とは「経験や知識に照らしてあれこれ思いを巡らせること」です。

 当然のことですが、知識や経験がないと十分に考えられません。知識に乏しく経験が浅ければ「下手な考え休むに似たり」となってしまいます。
 この知識と経験ですが、くせ者は「経験」です。ヒトの一生は短くて、世界のすべてのことを経験することはできません。また、歳を重ねればよいということでもありません。30代になっても、40代になっても、経験不足は経験不足です。50代くらいになると、ようやく自分の経験から他を予測することができるようになりますが、それにしても個人差が激しく、あくまでも想像力の世界なので、やはり限界があります。

 では、どうしたら良いのでしょうか。
 簡単な話です。「他人の経験」に関する知識を増やせばよいのです。つまり、歴史、あるいは自然科学の原理を知ることです。「こうすると、こうなる」というのは、物理現象のように分かりきったものである場合が少なくありません。

 歴史や先人たちの苦労、あるいは苦労によって得られた知識を土台にして、その上で「考え」れば、それは「下手な考え」ではありません。十分に説得力のある思考です。それが科学です。
 学校教育の場でも、ただ考えさせるのではなく、それと同時に知識を与える教育をおろそかにせず、さらに充実させてくれることを祈るばかりです。
 いろいろやっている言語学者のチョムスキーさんによれば、ヒトの言語使用の大半は「考える」ことに費やされているそうです。コミュニケーションの場における言語使用は、場所と時間の制約を受けますが、「考える」ことは制約を受けません。それこそ、寝ても覚めてもヒトは何かを考えています。それどころか、寝ている間にすら考えていて、妙な夢を見たりしています。
 もちろん、ボンヤリしている瞬間もありますが、逆に頭から雑念を追い払うことの方が大変で、そのために座禅を組んだり瞑想したり、大変な苦労をするわけです。

 ”Cogito ergo sum.” とデカルトが言ったとか言わないとか。

 ヒトは「考える故に我あり」なのか、あるいは「我ある故に考える」のか、いずれにしても、放っておいても考えてしまう生き物であることは間違いありません。

 そのヒトの精神的な労働の中で、最も本能的とでも言うべき「言葉を使って考える」ことの精度を高めるために、「限定的な経験」ではなく「無制限の知識」へのアクセスが重要な役割を果たしていることは、改めて言うまでもないでしょう。

 良質の思考のベースにあるのは知識の多さなのですよ。ここも重要な点ですね。


考えるのは楽しいこと。でも、分からないことを考えるのは辛い

特集イメージ7 皆さんは、考えることを途中で止めることはありませんか。

 私は、頻繁にあります。自分では理解しきれない記述や現象に行き当たったとき、その現象を構成する要素に分析しきれず、思考が行き止まってしまうのです。
 そんな時は、専門書にあたったりしますが、そこに書かれている概念が理解できなくて閉口することもしばしば。それらの概念を知るために、別の教科書にあたり、さらに、分からない概念を別の専門書に、と大変な遠回りをして、目の前の現実を分析します。
 そんなとき、「頭の良いやつは羨ましいな」とか「若い頃遊んでばかりおらずに勉強しておけば良かった」などと感じてしまいますが、遅きに失したこと。自分を恨みつつも、せっせと教科書を読み知識の獲得に精を出さざるを得ないのです。

 自分の目の前にある世界を理解できれば、世界は安全です。自分の置かれている状況を、常に正確に理解できていれば、自らを危険な立場に置くこともないでしょうし、万が一、危険な立場に置かれたときにも、難を逃れる術を見つけることもできるでしょう。
 しかし、その分析が正しく行われず、思考が行き止まってしまうと、もう、布団を被って嵐が通り過ぎるのを待つしかない、あるいは酒でも飲んで身体の不健康と引き替えに、一時的な精神の休まりを得るしかない、という事態になりかねません。
 自分の置かれている状況を正確に理解できない、その先には絶望しかありません。幸運に恵まれて事態が好転するか、あるいは本能的な生命力で現実を押し返すことができればよいのですが、そうでないことも少なくないのが、今の社会の現実です。

 なににしても、自分の周りの世界を正確に分析し、より正しく理解する、そのためには高い思考力が必要で、高い思考力を持つためには、豊富な知識がその根底に不可欠なのです。


答えを知るより、考える課程が大切

特集イメージ8 日本人は総じて従順ですね。知識がないのに屁理屈をこねる星条旗の国の若者のあり方も考えものですが、自らの考えを主張せずに、あるいは考えることすらせずに、他人の価値感をそのまま受け入れてしまうのは、行き過ぎた従順というものです。弊害すら生みます。
 最近ニュースになっている、どこかの価値に乗っかって正義感を振りかざす “○○警察” などは、その最たるものでしょう。自分で考えることをせず、メディアや著名人の言に乗っかって、それを自らの価値とすり替えて、自らの思考の拠り所としてしまうわけです。思考停止の一形態です。

 現にそのように思考をけちっている学生をしばしば目にします。高校までの授業は別として、大学以上になれば、答えのない課題を考えることは当たり前のことです。教授ですら、答えを持っていないことも珍しくありません。
 しかし、そのような授業形態は、日本の教育システムに慣らされた、特に優秀な学生たちにとっては、辛いこともあるようです。なにしろ彼らは答えを求めているのであって、途中の思考をしたいのではないのですから。
 人ごとのように書いていますが、かくいう私も、答えがないとモヤモヤと思考が整理できないので、仕方なく自分なりに仮の答えを出して、一段落付けるようにしています。

 このような、日本人の「答え」に飛びつく思考法の根っこには、もちろん学校教育のあり方が影響していると思います。物理の法則ならまだしも、算数の公式は原理の理解を伴っていなければ、単なる数字を当てはめるパズルのようなものです。
 一度覚えた公式も、忘れてしまえば、あるいは間違えて思い出せば、何の役にも立たないどころか、誤った答えを導き出すことになります。逆に、原理が分かっていれば、公式を忘れても計算はできるわけです。つまり、世界の理解に役立つのです。
 このような、本質を伴わない知識に対して「知識偏重」などと批判の声が上がっているのでしょう。しかし、問題はその場限りの記憶を強いる教育のあり方です。大切なのは、そのような一時的な記憶ではなく、本質的な理解を伴った知識を得ることです。決して知識が悪いのではありません。
 そして、それらの知識を獲得するためには、よく「考える」こと、そして丸暗記ではなく自分なりにキチンと消化・吸収・蓄積されていくことが大切です。
 自ら公式を編み出せとまでは言いませんが、先生の言うことを鵜呑みにするのではなく「なぜそうなるのか」を考える習慣を持つことが肝要ですし、子どもたちにも、そのように考える習慣づけをすることが必要であることはここで強調しておきましょう。


知識を使う人たち

特集イメージ9 さて、人類が文字によって文明を発達させてきたこと、ヒトは放って置いても考えてしまうと同時に、知ることに楽しみを覚える生き物であることは分かりました。また、日本人は他人の知識を鵜呑みにしてしまう従順さを持っていることも分かってきました。

 そろそろ「ちょっと待て」「なぜ英語が必要なのか」という話じゃないのか、とのお声が聞こえてきそうですが、もう少しお付き合いください。
 知識というものがどのように作られ、どのように使われているのかが分かると、それが英語に繋がりますので、ご安心ください。

 さて、その知識ですが、世の中には「(のちに知識となる)新しい価値を生む少数」と、その「恩恵に与る多数」が居ます。また、その「恩恵に与る多数」は、知識に「アクセスできる少数」と、知識に「依存している多数」に分けて考えられます。

 さて、皆さんはどこに当てはまりますか。

 例えば、スマホを使っていますよね。便利です。ないと不便どころか、生活が成り立たない人も少なくないでしょう。
 そのスマホは、知識の集積したひとつの体系です。インターネットという環境を生み出す知識があって、そのインフラの上に、文字や画像、映像や音声などをデータ化して通信網に載せ、さらには端末に再び文字や映像として表示する複雑で複合的な知識の結晶です。
 それらの知識も、先人たちの無数の知識の上に成り立っているわけですが、その先人たちの知識をうまく組み合わせて、例えば、スマホ、facebook、通販システム、情報ネットワークなどを生み出す人たちが居ます。これが「新しい価値」を生む人たちです。その価値は「知識」として記録されていきます。
 また、このような知識にアクセスできるだけの知識を持っていて、それでもってビジネスを構築する人が居ます。そのような人たちは新しい価値を生んでいるのではありませんが、その知識をうまく活用している人たちと言えるでしょう。
 そして最後に、それらの知識の上に成立する様々なビジネスを利用する人が居ます。これが残る大半です。知識を生み出すわけでもなく、知識にアクセスするでもなく、知識によるサービスに依存している人たちです。

 もちろん、知識を生み出す人たちも、知識にアクセスしてビジネスする人たちも、同時に別の知識(例えば飛行機や新幹線、自動車などの移動手段や、エネルギーや流通などのインフラ)においては、それらの知識に依存している個々人に過ぎません。
 さらに、当然のことながら、それら新しい知識を生み出す人たちも、先人の知識の蓄積があって、さらにその知識を与えてくれる教育の場や書籍の恩恵に与って、新しい知識を生み出せているわけですから、その意味では人類の知識に依存している個々人に過ぎないのです。

 そのように、新しい知識を創造するか、あるいはそれらの知識にアクセスしてビジネスを成功させる、というのが、今世紀の新しい生き方のひとつとなりつつあります。すでに述べたように、長いものに巻かれるのではなく、独立独歩の人生を歩む人たちが増えつつあり、また、その環境も整いつつあるのです。
 誰かが作り出した知識に依存するだけではなく、自ら新しい価値=知識を生み出したり、知識にアクセスしたりできることが、子どもたちが大きくなった後の社会において、ますます重要になってくることは間違いないでしょう。
 なぜなら、知識を生んだり、アクセスしたりしてビジネスに繋げる側に居ないならば、それらに依存せざるを得ないのがこの社会だからです。つまり、次々と生まれる新しい知識や価値に対して、税金のようにお金を払うだけの立場に陥る羽目になってしまうことでしょう。

 “GAFA : Google, Amazon, facebook, Apple” の台頭に、行政や民間が危機感を募らせるのは当然のことです。

 「お金より時間が大切」という生き方もあるようです。もちろん「時間が大切」であることは言うまでもありません。しかし、現代を生きるためには「お金」も必要です。
 狩猟や農耕による完全な自活が成り立つのであれば話は別ですが、エネルギーは必要でしょうし、上下水道も必要でしょう。当然、住民税も払うわけですが、税金を払うためのお金を稼ぐためには、ものやサービスを売らなければなりません。
 そのような、ささやかなビジネスにしても、燃料費や原材料、あるいは存在を知ってもらうためのサーバー費用や、広告費がかかるわけです。また、家族や友人にも未練があれば、やはりスマホが必要になるし、子どもが大きくなって学校に行くようになれば、さらにお金がかかるようになるので、完全に引っ込んで自活しているわけにもなかなか行かなくなるでしょう。
 つまり、現代の社会で生活しようとすれば、知識から目を背けることはできないのです。そして、知識を使うのならば、知識から新しい価値を作り出すか、知識にアクセスして利用するか、あるいは作り出された価値=知識に対して税金のようにお金を払うか、のいずれかです。

 それであれば、積極的に知識にアクセスし、さらには新しい知識を生み出す側に回った方が、現代の経済社会により適した存在になることができるでしょうし、それが叶わなくても、少なくとも「知りたがる本能」を満たすことはできるでしょう。


知識・文字情報はどこにあるのか?

特集イメージ10 お待たせいたしました。ここから英語の話です。

 知識を元にして新しい価値を生み出す、あるいは知識にアクセスできるようになることが大切なのですが、その知識はどこにあるのでしょうか?

 日本は、有り難いことに母語で高等教育を施せる、数少ない国のひとつです。明治時代、先人たちが列強に追いつけとばかりに、せっせと彼らの学問を取り入れました。
 ひとつには、英語や仏語や独語などの言語を通して、海外の知識を取り入れられる人材を増やすことでした。
 それと同時に、彼らの知識は、次々に漢語に造語されていきました。「法律」「経済」などの漢語は、現代日本語の語彙の半分ほどを占めていて、日本語古来の和語よりも多く、現代の日本人の思考と漢語は切っても切れない関係にあります。
 それらの漢語に訳された新しい概念、つまり日本語化した海外の知識で教育を行えるようになったことが、現在の日本の教育制度を形作っています。本当に、先人たちに感謝感謝です。

 ところで、他の国々はどうなっているのでしょう。ヨーロッパの国々や英語圏、あるいは植民地化を免れた一部の国々では、日本と同様に母国語で高等教育を行っている国もありますが、それ以外の国々、特にかつて植民地であった国々では、旧宗主国の言語で高等教育が行われていることもあります。
 論文が書かれている言語に目を向けると、50年前で英語が50%、ロシア語が20%、ドイツ語が10%弱、フランス語が5%で、日本語が4%という数字が手元の資料にあります。50年前の段階で、すでに英語が優位であることは間違いありません。
 世界における英語の地位は、19世紀には仏語や独語などと並んでいたようですが、その後、独語が脱落し、大東亜戦争以降は圧倒的に英語が優位を占めるようになります。そして、上の数字となるのですが、その後の今世紀に入る頃には、英語の論文が8割強、その他の言語はちょこちょこ、という具合になっています。もちろん、相対的に日本語の論文数も減少傾向です。
 こう書くと、日本 “人” の論文が少なくなっているような印象を受けるかも知れませんが、そうではなくて、日本人も英語で論文を書くのが当たり前になってきていて、日本 “語” の論文が減っているだけのことです。

 世界の知識が、英語に一極集中しているのです。

 先に、日本語は母語で高等教育を施せる恵まれた言語であると書きました。その先人達の恩恵にあやかりながら、その上にそれにあぐらをかいているのがいまの私たちの現実です。
 学究の世界というのは日進月歩、刻々と進歩しているわけです。そして、それらの知識はほぼすべて「英語」に集まっています。日本人が書いた論文であれば、日本語版の可能性もありますが、日本語以外の論文が日本語に訳されるのは、可能性として極めて低い。
 つまり、英語が読めない学者は、最新の知識にアクセスができないのです。

 これは、学者や研究者に限ったことではありません。とある科学に関して、少し専門的な教科書を手に入れようとすると、それが日本語で出版されていないケースは珍しくありません。そんなことはもう常識になっていて、最近では大学院はもちろんのこと、学部のゼミでも英語の教科書が使われています。
 「そんなアカデミックなことは関係ない」と感じるかも知れませんが、少しでも専門性のある職に就けば、やはり最新の知識は必要となります。そして、専門書にあたっても、日本語の専門書は少ないのです。その一方、英語で検索すると豊富な書籍ラインナップが用意されています。

 確かに、価値を創造する人、あるいは価値を生み出す知識にアクセスする人以外の大多数の人々にとっては、そんな専門的な知識は不要なわけで、そうした人たちは、一部の人たちによって生み出された価値の恩恵の中でぬくぬくと生きれば良いだけのことです。

 つまり、英語を身につけるということは、知識から価値を創造したり、知識にアクセスする人になるのか、あるいはそれ以外の大半になるのかの大きな分かれ目でもあるのです。

 さて、お子さんを前者に育てますか?それとも後者ですか?


「知のパワーと無知の無力」

特集イメージ11 子どもに物質的な財産だけを残しても、碌なことはありません。これは歴史にあたるまでもなく、周囲を見回せば自明です。大切なのは、使っても使ってもなくならない財産、すなわち良質な教育を与えることです。
 教育は、ことばによる知識の受け渡しと、受けとった知識を元に思考することで行われます。もちろん、先人たちの苦労による現代日本語も、十分に教育言語として耐えうる「質」を有しています。しかし、如何せん知識の「量」において、日本語の知識は英語の後塵を拝しているのです。

 「知っている」ということは「力」があり「安全」に直結します。「無知」は「無力」であり「危険」ですらあります。

 それでは、どの程度「知っている」ことが求められるのでしょうか。どの程度の「知識」があれば安全なのでしょうか。

 これに対する明確な尺度はありませんが、ひとつ言えることは、「知りたがる本能」のスイッチが入る程度以上の知識は必要です。つまり、中等教育程度の教科書を読んで理解できる。そして、高等教育の教科書を読むと、楽しくて仕方がない。そんな程度の知識を身につけることが、スイッチが入ったことと同義と考えて差し支えないでしょう。

 まずは、「知りたがる本能」のスイッチが入るところまで、細心の注意を払いながら、安全かつ丁寧に我が子を導いていくことが大切です。そしてその上で、スムーズにあらゆる知識にアクセスできる言語力、つまり優れた日本語(母語)の能力は言うまでもなく、それにプラスして英語力を身につけていれば、お子さんの未来に対する憂いは相当軽減されます。育児において、ひとつ重たい肩の荷が下りるのです。

 長々と書きましたが、いかがでしょうか。皆様がお子さんたちに英語を身につけさせる理由を、もう一度考えてみる機会になれば幸いです。

【編集部より】

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【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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