パルキッズ通信 特集 | 子供の成長, 子育て論, 早期教育
2025年11月号特集
Vol.332 | 親が子どもにしてやれること
「環境 × 継続」が子どもの思考力と自立心を育てる理由
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2511/
船津洋『親が子どもにしてやれること』(株式会社 児童英語研究所、2025年)
親が子どもにしてやれることとは、なんでしょうか。もちろん、衣食住は親の義務として子どもに与えてやらなくてはいけませんが、もう一歩踏み込んで、着心地の良い服、居心地の良い家、健康な体を作る食事など、できる限りのことをしてやりたいと思う親は少なくないでしょう。
そればかりではなく、様々な体験をさせることも、親が子にしてやれることです。ピアノやバイオリン、算盤や習字、スイミングや英会話など、プラスアルファの取り組みとして、子に与えている親は少なくありません。また、休暇中の旅行やレジャー、季節のスポーツにキャンプなどの野外活動など、様々な体験をさせている親子連れを様々なシーンで見かけます。もちろん、長引く不況から、貧困家庭、特に母子家庭の貧困の問題などが最近浮き彫りになっていますが、それでも、昭和の中頃、筆者が育った昭和40年代に比べれば、今の日本は “見た目” はとてつもなく豊かになっています。
筆者が幼児・児童期を過ごした当時は、車を所有している家など数えるほど。ピアノ教室に通っているなんて “お嬢様” くらいなものでした。英会話教室など近所にはひとつもなく、中1の時に英検3級を持っていた女の子に、それはそれは圧倒されたものです。
とはいえ、筆者はボーイスカウトに参加していたので、比較的恵まれていました。夏のキャンプや、バーベキューや餅つきといった月ごとのイベント、あるいはロープ結びやナイフの使い方、テントの設営やかまどの作り方など様々な体験をすることができました。また、冬場にはスキーを楽しむなど、当時にしてみれば、田舎の小学生としては比較的恵まれていた方でしょう。
それでも、小学校高学年までは塾には通わずに過ごしました。つまり、学校から帰れば、ランドセルを放り投げて、すぐに遊びに出かけるような毎日です。両親とも働いている家庭の子は「鍵っ子」などと呼ばれており、学童保育を学校と家庭の中間の居場所として、そこに帰っては他の仲間と宿題をしたり遊びに興じたりしているのを近所で見ながら、逆に鍵っ子に憧れたりもしたものです。
つまり、月ごとのスカウトのイベント以外は遊んでばかりいた幼少期でしたし、それが当たり前の時代でした。今思えば、危険なことも含めて、体を動かしながら、様々な体験をしていました。そしてそこでは、何も与えられない中で、様々な工夫をして遊びを生み出したり、妄想にふけったりしていたのです。
それが、今はどうでしょう。幼稚園や学校が終われば、塾をはじめとした習い事に、親も子もがんじがらめな印象があります。今の子たちは昔の我々よりも、「自由に考える時間」が少ないのではないでしょうか。体を動かす時間も少ない。危険なことをする機会も皆無でしょう。中学受験のための詰め込み学習では、繰り返しを強要されたり、ひたすら問題を解かされたりするようですし、記憶も求められるのが今の教育の現状です。自由に考える隙間などないのです。
どちらが良いのか悪いのかを判ずるつもりはありませんが、むしろ昔の子たちの方が、自由な発想で伸び伸びと学んでいたような気がします。頭の良い子は数学をやらされるのではなく、本を読んでいた。本を読んで文学や地歴を知れば、世の中に対する理解力が高まります。そこに考える時間が与えられれば、数学や物理など自然科学の問題も、自ら考え、理解するようになるのです。
過去に「習い事を科学する」というタイトルで、増えすぎた習い事を整理整頓する特集を組みましたが(『パルキッズ通信2021年3月号』)、今回はそれとは別の角度から、増えすぎた習い事を整理し、親子ともに余裕を持って日常のこと、将来のことを考えられるような生活スタイルを構築するために、親ができることを「たった2つ」に限定して、考えていくことにしましょう。
環境の選択と継続
親が子にしてやれることは、究極までその本質を質していけば、「環境の選択」と「環境の継続」の2点に尽きます。
例えば、ピアノなどの楽器演奏をさせる場合には、その環境を整える。つまりピアノを用意し、ピアノの先生に指導を依頼することです。スキーをさせるのであれば、道具を整え、ゲレンデに連れて行き、指導したり指導者をつけたりすることがその環境づくりとなります(指導者も玉石混交ですので、その見極めはもちろん親の仕事となります)。また、算盤を習わせることも、スイミングスクールや英会話教室に通わせることも、子の育つ環境の選択をしていることに他なりません。ボーイスカウトに加盟させたり、進学塾に入塾させることも同様です。また、逆に放置することも環境の選択、つまり「環境を与えない」という環境の選択をしていることになります。
住まいにおいては、子ども一人ひとりに部屋を与えるのか、子どもの成長に合わせて住まいを変えるのか、ピアノや楽器を演奏できるような環境にするのか、あるいはドラムセットを置いてやるのか、そのために戸建てを購入するのか、というのも環境の選択です。逆に、ある程度サービス環境の整っている都会に住むことを優先すれば、戸建てではなく集合住宅に住むことになるかもしれません。これも環境の選択です。
子ども部屋に勉強机を置き、締め切った部屋で勉強させるのか、あるいは反対に、家族の集まるリビングやダイニングで勉強させるのか、といったことも環境の選択です。さらに言えば、次々とおもちゃを買い与えるのか、それとも限定的なおもちゃで遊ばせるのか、子どものための書架を整えるのか、最低限の本箱にするのかなども環境の選択です。つまり、子どもをどう育てたいのか、その上でどのような環境を与えるのかを親が決めていることになります。
筆者などは、冬場でも半ズボンで過ごしたものです。長ズボンは中学生になるまで与えてもらえませんでした。基本的に子どもは体温が高いので、あるいは高い代謝を保つために、といった理由で大人より1枚薄着にすることが勧められていた時代もありました。確かに汗をかきやすいのと代謝が高いことから、頷けますが、さすがに小学6年生での半ズボンは恥ずかしかった記憶があります。
「地頭力講座」のオンラインセミナーで、実弟の船津徹氏に登壇してもらったことがありますが、「子どものためにどこまでできるか」という趣旨で話してもらいました。彼の場合には、子どものために「ハワイへの移住」という選択をしました。もちろん、英語だけの話ではなく、教育環境全体を見たときに、日本よりアメリカの方が良いという判断の結果です。これは究極の環境の選択でしょう。
また、日本に居ながら、子どもをインターナショナルスクールに通わせるご家庭もあります。すると、必然的に日本語が “BICS : Basic Interpersonal Communication Skills、生活言語” で英語が “CALP : Cognitive Academic Language Proficiency、学習言語”(BICS&CALPに関して詳しくは『パルキッズ通信2025年6月号』参照)となります。
国語が弱いとなると、日本国内の最難関大学への進学は、特殊な受験方法でなければ難しくなります。結果として、国外の大学を選択することになるかもしれません。ただし、国外の大学の場合には、大学卒業後の方針を決めておかなくてはいけません。つまり、留学生の資格では、大学卒業後にその国に滞在する根拠を失ってしまうのです。すぐに現地で就職できれば結構ですが、それが叶わず結局日本の企業に就職するのでは、何のために伸び伸びと学ばせたのか、分からなくなってしまいかねません。
このように、親のひとつひとつの選択が、芋づる式に子どもの将来に影響してきます。子どもの教育方針を決定して、それを達成するためにどのような環境を与えるのか、これをできるのは親しかいません。同時に、この環境の選択が、親が子どもにできる最大のことのひとつなのです。
論理思考とバイアスの排除
この環境の選択が、どうも深い思考ではなく、思いつきや社会のトレンドに則って行われている様子があります。公教育レベルの高い地域に移住する。あるいは、中学受験をさせるのが一般的な都市部では、小学校低学年から受験塾に通わせる。大学のオープンキャンパスへ足繁く通うことによって、親も子も目指す大学への進学を共通の目標として共有し合い、コンセンサスの整った状態で日々の学習を進めることができる、ということなのでしょう。
しかし、例えば最難関大学へ進学させるのであれば、少しでも良い(偏差値の高い)中学に入れなくてはいけない。その中学へ合格させるためには、小学生のうちから夜遅くまで、睡眠時間を削ってまでも勉強させることになる。しかし、結果として、視力が下がる、睡眠不足によって成長ホルモンの分泌が低下するなどの副作用がある一方で、目指す最難関に入れる子はそれほど多くはないわけです。
残念ながら「みんなと同じこと」をやっても、目指すものは手に入らないことが多いものです。それどころか、塾通いをしたこともない、インターハイに行くような部活三昧の公立校アスリートが、東大・京大に合格したりする。なんとも不条理な世の中です。繰り返しますが、「みんながやっていることが正しい」わけではないのです。
さて、それではなぜみんなが雪崩を打ってそちらの(皆と同じ)方向へ進むのでしょうか。それには、様々なバイアスが作用していますが、そのなかでもっとも重大な影響を与えているのが生存者バイアスでしょう。n=1 の成功例を吹聴して「こうすればこうなる」というロジックですが、このバイアスの虜になる人が少なくありません。「こうすればこうなる」のではなく「(たまたま)こうしたらこうなった」のです。ひとつの成功例の背後には、無数の失敗例がありますが、それらは語られることはありません。成功者のみを見て、同様に取り組んで失敗した多くの例を見ないのが生存者バイアスです。皆さまは気をつけましょう。
また、生存者バイアスは確証バイアスにも繋がります。つまり、「成功した人が言うのだから、間違いないだろう」と、自分が信じるものを無批判で “信じよう” とする心理が働きます。そのために、都合の良い情報ばかりに目を向け、否定的な情報は軽視・無視してしまうのです。あばたもえくぼですね。こちらも多くの人が陥っています。メディアに登場するコメンテイターがその典型でしょう。一度、ある対象者を気に入ってしまうと、感情バイアスが働き、繰り返しその対象者の話に耳を傾けます。すると単純接触効果で、その人が間違ったことを言っていても無視するようになるのです。筆者もそうですが、好きなミュージシャンの新アルバムがどんなに駄作であろうと、それを繰り返し聞くうちに「味があるじゃないか」となるわけです。クワバラクワバラ。
また、最近ではテレビを観る家庭も減っているようですし、特に本誌の読者においては皆無かもしれませんが、そのテレビに流れてくるコマーシャル、ここでは古典的条件づけの手法が使われています。古典的条件付けとは、「パブロフの犬」で知られる反射や想起のことです。つまり素敵なタレントが楽しそうに家族旅行をしているところに映っている自動車を繰り返し見ると、その自動車に素敵な家族像が写像されるようになり、最後にいくつか残った論理的選択肢の中から感情的にそのコマーシャルに映されていた自動車を選んでしまう、という仕組みです。
英語をはじめとした各種教材の選択において、内容よりもその教材に起用されているキャラクター、つまり繰り返し見ている、あるいは感情バイアスの対象となるキャラクターのものに、ついつい手が伸びてしまうという場合には、そんな選択をしているのです。
さらには、同調性バイアス「みんながやっているから私も」、あるいは正常性バイアスによって「みんなやっているから間違いはないのだろう」という判断が感情的に行われる。ここには論理性はありません。
子どもの環境の選択ができるのは親だけです。その親の選択が、様々なバイアスの上に空気のように成立する、ありもしない幻の写像によって行われてしまうのです。
減らす
そのように、メディアや横並びの周囲の行動、あるいは n=1 のイデア崇拝によって、子どもの環境の選択が行われてしまうのは、大問題だとは思いませんか。すでに述べたように、一人の成功者の背後には、語られることのない無数の失敗者がいるのです。それどころか、同調性バイアスによって、同じ行動を取る人が増えれば増えるほど、失敗者も増えることになります。
考えてみてください。地方でのんびりとした幼少期を過ごし、中学高校では部活に明け暮れて、旧帝大クラスに合格してしまう子たちが、山ほどいます。東大合格者の家庭の収入を見れば、1000万以上が半数ですが、逆に1000万円に満たない家庭が半数あるのです。それほどお金をかけずに、彼らは合格しているのです。また、日比谷高校や西高、あるいは浦高など公立高校から東大クラスの大学へ行く子も大勢います。同時に首都圏ばかりでなく、地方の高校から旧帝大へ進学する子も大勢いるのです。なぜそちらを見ないのでしょう。また、都市部の受験戦争に疲弊して脱落する子たちを、なぜ見ないのでしょうか。
アカデミアの世界には頭の良い人がたくさんいます。そんな研究者たちに、機会があるごとに「小さい頃は何をしていましたか?」「塾とか行きましたか?」と尋ねると、塾など行ったことがない、あるいは(田舎で)遊んでばかりいたとか、暇なので親の書架から面白そうなものを拾って読んでいた等といった答えが帰ってきます。また、ある研究者がシンポジウムの中で語っていましたが、「入院中に本を読むのにも飽きて、暇に飽かせてミンミンゼミのミンミンと鳴く回数と最後のミーンに規則性があるのか観察していた」そうです。暇すぎたわけです。また、そんな人たちに共通しているのが、本を読むのが好きでテレビはあまり見なかった点です。つまり、詰め込み学習やエンターテイメントに時間を奪われることなく、読書や思考に時間を割り当てていたのです。そんな彼らが賢く育つのは、当然と言えば当然でしょう。
今日の子どもたちの環境は、“良かれ” と思ってあれこれ増やし過ぎかもしれません。親が子どものためにと懸命に働いた結果、その子どもと一緒に過ごす時間まで奪われてしまっている。そして、一緒に居られる限られた時間も習い事に消えていくのです。これが都市生活者の本当のところではないでしょうか。
しかし、繰り返しになりますが、田舎でのんびりしながら優秀に育つ子も星の数ほどいるのです。そこで、重要になるのは、あまり話題に上がることのない “田舎(的)” な “のんびり” した育児をしながら、優秀な子を育てているご家庭に目を向けることです。彼らは何をしているのか?おそらく、ポイントを抑えた育児をしているのでしょう。
この点に関しては「地頭力講座」に譲るとして、“田舎(的)” な “のんびり” した育児をするために必要な考え方をひとつ提供しておきましょう。ひと言で言えば「減らす」育児です。親は子どもを観察する時間を確保する。そして子どもには読書や思考に費やす時間を確保する。それ以外は最小限の習い事に限定する。これが大切でしょう。この点に関しては、既出の「習い事を科学する」に詳しいので、そちらも参照してください。
この節の括りとして、繰り返しますが、親が子どもにできることは「環境の選択」です。これは親にしかできません。その選択は、様々なバイアスによって歪められます。そもそもバイアスだけで、論理的な思考すら介在していないケースすら見られます。子どもの将来を見つめ、そのために今どんな環境を与えるべきかを論理的に思考し判断する。そこにバイアスが入っていないか、この点もメタ認知(自己の認知活動を客観的に捉え評価し制御)する。これらの作業は親の専権事項であり、同時に我が子を思う親にしかできないことなのです。
継続とは無標化
さて、様々なバイアスの介入を排除しつつ、紆余曲折しつつ、最小限まで絞り込んで、子どもに与える環境を選択できたとします。その次に必要となるのが「環境の継続的な提供」です。言い換えれば、初志貫徹。こうと決めたら石にかじりついてでも、ゴールを目指す、つまり環境を作り続ける姿勢が大切です。
しかし、このように一本筋が通った姿勢を持っている親御さんは少ない。我が子の様子を見て、やれ「つまらなそうだ」とか「無反応だ」とか心が揺れます。そして、終いには親の専権事項であるはずの教育について、子どもの意見を聞いてしまう。「つまらない?」「止めようか」となる。これでは、せっかくの環境の選択も水の泡、無に帰することになります。そして、「じゃあ、今度はこれやってみようか」とあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。次にやることが見つかり、そこで踏ん張るのであれば、まだしも、結局また一周して元の木阿弥、なんてことが珍しくありません。
ここはとても重要なポイントですが、逡巡して無駄にできるリソースなどありません。教育にはコストが掛かります。コストとは、時間とお金です。そして体力や精神力も。論理的結論に達して子どもの教育環境を選択すると、そこには時間とお金が掛かります。それを途中で投げ出してしまったら、リソースの無駄遣いです。子どもはみるみる大きくなります。あっという間に這うようになり、歩くようになり、喋るようになり、走るようになり、いつの間にかランドセルを背負って学校に行くようになります。そして、気づけば子どもの才能を伸ばす黄金期である幼児期を通り過ぎ、学習能力の土台を作る小学校低学年を通り過ぎ、気づけば「どうも勉強が苦手だな」とか「集中力がない」と小学校高学年になっています。この段階からいくら塾に通わせても、成績は伸びないでしょう。
つまり、コストを掛けるならば、なるべく早い段階で、しかも、フラフラするのではなく、どかっと腰を据えて、継続しなくてはいけません。なぜなら、継続しない限りにおいて、子どもの学習能力が伸びたり、あるいは子どもが様々な知識を身につけたりすることは、あり得ないからです。
では、どのように継続するのか。「パルキッズ」を例に取ると、「パルキッズ」の学習理論を理解して取り組むだけの知的格闘力のあるご家庭では「一度決めたからやる」「子どもの様子など気にせず続ける」という姿勢を持っています。なぜなら「継続すれば実になる」ことを知っているからでしょう。「パルキッズ」は簡単な取り組みです、英語の音声をかけ流して、1日数分程度のオンラインレッスンに取り組むだけで、英語力を育てることができるのです。こんな簡単なことなのですが、なぜか複雑にしたり、隣近所が気になったり、あるいは子どもの様子が気に入らなかったり(つまり、英語を口にしない)などの、本質に比べれば些細なことで中断してしまうご家庭があることも、残念ながら事実なのです。
また、子どものやる気を喚起するためにご褒美を与えるようなオペラント条件付けをすることもあるようですが、そんなことではなく、内発的なモチベーションを育てなくてはいけません。「レッスンをしたらゲームをして良い」とか「アニメを見せる」などの条件付けは、これらの条件がなければ成立しない “低次” のモチベーション付けなのです。それよりも、日常化することが大切です。
言語学には「無標」という概念があります。特別な意味づけや形のない、基本的・一般的・中立的で、無意識的に使われる形や概念のことです。我々大人にとっては、歯を磨いたり、ドライヤーで頭髪を乾かしたりすることは「無標」と言えるでしょう。しかし、子どもにとっては違います。つまり、無意識的ではなく「頑張ってやること」なのです。そういった事柄を「無標」的な状態まで日常化することが、継続への第一歩なのです。
できる旅の途中
「継続は力なり」と言いますし、そんなことは皆さんよくご存知のはずです。しかし、なかなか難しいのも事実です。
ところで、「やる気があるからやる」のではなく「やるからやる気が出る」ということは、ご存知でしょうか。人は自分自身のことをメタ認知しますが、何事かをやっている自分をメタ認知することで「自分はこんなにやっているのか」と客観的に判断するようになります。さらにやり続けると「できる」ようになります。自分の行動によって何らかの結果を得ることは「自己効力感」、つまり「自分はやればできる」という自覚に繋がります。自分の自由意志によって行動が起こされ、それによって自己効力感を得るに至る。これは内発的動機づけです。
反対に、オペラント条件付けのように、何らかの褒美につられて取り組んでいると、そんな自分をメタ認知してしまいます。つまり、「褒美のためにやっているだけ」なのです。大人に例えれば、最近チラホラと目にする「給料をもらえるから会社に行くだけ」というような、主体性も内発的動機づけも存在しない「静かな退職」がそれでしょう。このようなオペラント条件付けは、正の方向に作用していれば、とりあえず取り組む状況は作られますが、それが負の方向に働くと、取り組みたくない、避けたい、見たくもない、という状況すら招きかねません。気をつけなくてはいけませんね。
そのような “低次” の動機づけでない、内発的な “高次” の動機づけは「継続」から生まれます。つまり「やるからやる気が出る」のです。その仕組みは簡単です。上でも軽く触れましたが、もう少し具体的に見ると以下のようになります。
例えばスキー。皆さんは子どもにスキーをさせたいと思ったらどうしますか。颯爽と滑走するスキー選手の映像を見せるのも良いでしょう。しかし、それだけでは弱い。イメージだけで滑れるようにはなりません。やってみなくては分からないと、いきなり滑らせようとしても、無茶をすれば怪我をしてしまいます。そして、転び続けるうちに、それは負のオペラント条件付けとなり、子どもは「スキーしたくない」「上手になんてなりたくない」となってしまいます。
反対に、丁寧に根気強く面倒を見て、無理をさせずに継続すれば、少しずつ滑れるようになります。滑れるようになれば、自信がついて楽しくなり、もう一度滑ってみたくなるでしょう。継続的に「やる」ことがメタ認知的には「やる気」に繋がり、また実際の技術の向上も見込めるので、「自分はできる」という「自己効力感」へと繋がります。すると、さらにやりたくなります。これが人の常なのです。
どんな習い事でも、あるいは英語や算数などの学習をとっても、やり続けることが大切です。やり続ければできるようになります。成功するには、やり続けるしかないのです。こんな簡単なことを、できないわけがありません。できないとすれば、理由があります。それは様々な雑念・余念です。これらを排除して、一度決めたら粛々と淡々と継続する。それで良いのです。
投影厳禁、威厳を持って接するべし
ピグマリオン効果という心理現象をご存知でしょうか。ギリシャ神話で、ピグマリオンという彫刻家である王様が、自分の彫った理想の女性の像に恋をし、神様によってその像に命が吹き込まれるという物語から、理想を信じ続けると現実が理想に近づくという文脈で使用されます。有名なものにローゼンタールの実験があります。この実験では、ランダムに選んだ子たちが「伸びる可能性がある子」だと教師に伝えたところ、教師がそのような期待のもと子どもたちに接したことによって、現実にその子たちの成績が伸びた、というケースが示されています。興味深いですね。
このように、子どもたちに対して「この子はできる子だ」という確信(親にしか持てませんよね)を持って接すると、子どもたちは「自分はできる」と感じて意識や行動が変化し、結果として成績が上がる、あるいは、取り組んでいることが達成されるようになります。ピアノでも、スキーでも、算盤でも、水泳でも、親が「この子はできる」と信じ続けることが、親の行動や言動に現れ、子どもはそれに応えるようになるのです。
この反対がゴーレム効果。ゴーレムとはユダヤ伝承に登場する泥で作られた無知で命令に従うだけの人造人間です。思考力も自発性もない存在というイメージから、人を「期待されない者」として扱うことで、本当にそうなってしまう現象にこの名前が使われています。親が「この子はできないのかも」と “無意識” に感じることで、それが行動に現れてしまえば、ピグマリオン効果の逆の状態ができることになるのです。
無条件で我が子を信じ続けることができるのは親だけです。心に刻みましょう。
また、「あなた(子ども)のため」と言いながら、自分(親)が叶えられなかった夢を子どもに押し付けたり、その夢の実現を自分に投影したりすることがあります。さらに自己愛性パーソナリティーの一形態として、子どもを自分の一部・延長として捉えるようなこともあります。全体に、子どもに何らかの思いを投影することで、親が自己満足しようとする姿勢です。程度の差こそあれ、少なからず見られる現象ですが、度が過ぎると問題です。
親は子を見なくてはいけません。子どもの言動から、子どもの思考を推測する。些細な変化から、子どもの成長を見出す。これらは、日々接している親でないとなかなか難しい作業です。しかし、親が子に我が身を重ねたり、自らの思いを投影したりするとなると、これは子ども(の成長)を見ているのではなく、子どものその先にある自分を見て一喜一憂していることになります。
ピグマリオン効果やゴーレム効果に見られるように、人間、特に子どもたちは敏感です。親や周囲が、無意識に現す表情や発する言動から、自分の評価を感じ取り、そうあろうと無意識のうちに行動が変化します。その点において、ここで示したような接し方をすれば、子どもの心の発達の足を引っ張るのは何者なのか、専門家でなくても考えれば分かることでしょう。
つまり、親は「私は私、子どもは子ども」と厳然と威厳を持って子どもと接する必要があります。子どもに寄り添うと言いながら、まるで友達同士であるかのように親子の境界を曖昧にしたり、親の役割である環境の選択と継続を、子どもに委ねたりするようではいけないのです。
繰り返しますが、教育は親の専権事項です。親が決めて良いのです。同時に、決めるからには、子どもの成長に責任を持たなくてはいけません。何をするのか、しないのか。することによって得られる果実、しないことによって失う果実も、親の責任です。
もちろん、すべてのことができるわけはありません。そこには親の趣味趣向も介在するでしょう。しかし、大切なのは、周囲に合わせたり、根拠のないバイアスに振り回されたりすることなく、自ら取捨選択する姿勢です。そして、一度決めたらやり通す。
これが「親だからこそ、子どもにしてやれること」なのです。
【編集後記】
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船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。



