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2024年2月号特集

Vol.311 | 褒め方の作法

褒めて驚く、自己効力感を高める子育て

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2402/
船津洋『褒め方の作法』(株式会社 児童英語研究所、2024年)


自己肯定感が高いとか低いとか?フツーじゃダメなの?

自己肯定感が高いとか低いとか?フツーじゃダメなの? 自己肯定感という言葉、よく耳や目にしますが、どういうことなのでしょうか。抽象的な概念で実感が湧かないので、少し調べてみました。すると、自己肯定感とは「自分自身の価値や能力に対する肯定的な評価や感覚のこと」だそうです。つまり、自己を肯定的に見ることができる人は自己肯定感が高く、そうでない人は自己肯定感が低いということになるようです。
 「自分の価値や能力、あるいは存在を肯定的に見る」と言われても、うーん、どうもよくわからない。情けないことに、自己肯定感などという立派なものを、生まれてこの方、僕は感じたことがありません。おそらく未来に向けた刹那刹那を夢中に生きてきただけだったのだと思います。しかし、人は一般に日常的に「自分自身の価値や能力、あるいは存在していること自体を肯定的(あるいは否定的)に捉えている」のでしょうか?僕はそんなことをしたことがないので、実のところよくわからないのです。
 自分の価値については、確かに、若気の至りで色々考えることもあるでしょう。少々ばかり知恵がついてくれば「自分の存在意義」、「なぜ私はこの世に存在しているのか」、などという問いを立てて、悩んでみたりするかもしれません。うーん、ロマンチック。貴族的ですね。通常、自分自身は主体的にしか見ることができません。つまり、自分は中の人であって、自己を客観視するためには、自己の存在を肉体や精神や思考なども含めて、自分自身から分離して自分を外から観察する必要があります。そのような、自分を客体的に見るための問い、あるいは思考実験のひとつとして「自分の存在意義」を考えたことは、誰でも一度や二度はあるでしょう。その意味では、日本も豊かになったものです。別の意味では世界初の「脱!先進国」ですので、豊かな人が貧乏になったけど、気持ちだけは豊か、というあたりでしょうか。
 しかし、ですよ、「自分の存在意義」などということは、日常から離れた思考実験の中での話です。「ああ、私はこの世に存在する価値がある」とか「自分なんてこの世に存在する価値がない」などと、日常生活の中で常に感じ続けるようなことは、忙しく日々をこなしている多くの人は経験しないでしょう。

 ただし、自分を観察するのは困難ですが、他人は別。「自己肯定感」という色眼鏡をかけて人間観察すれば、確かに自己肯定感が高そうな人もいれば、低そうな人もいます。高そうな例を挙げると、「自分は価値のある人間だ」と感じているからこそ、「中二病」は発症するのでしょう。また、ところどころで傍若無人な振る舞いをする人も見かけますが、そんな人たちも自己肯定感が高いのでしょうね。なぜなら、自分の行動が周りに迷惑を及ぼすことなど、どうでも良いくらい、自分には存在価値があると感じているのでしょうから。ただ、その方々が「自己肯定感」という概念を知っているかどうか、となるとこれまた別の次元の話です。
 逆に、自己肯定感が低い人も確かにいそうです。「(うまくいかないのは)自分が悪いんじゃないか」とか「(我が子にとっての)完璧なママになれない」とか、自分に責任の所在を置き過ぎるような人がいると、「そんなことないのになぁ」「なぜ、それほど自分を責めるのだろう」「ただ、運が悪いだけさ(’at the wrong place at the wrong time’)」と気の毒になってしまいます。
 繰り返しますが、”普通”に生きている限りにおいて自己肯定感を感じることはないでしょう。しかし、その生育環境の中で、過度に「自信を持つように」育てられたり、逆に「自信を持てないように」育てられれば、自己肯定感が高くなりすぎたり、低くなりすぎるということもあるのでしょう。

 さて、このように、自己肯定感とは普段は感じることがない感覚ですが、少し似た表現に「自己効力感」というものがあります。こちらは、普通の人が普通に生きていても、感じることがあります。特段に哲学的な問いを立てるでもなく、とあることを達成した、または状況をうまく処理できた、と自分の能力を感じることはあります。こちらは、僕も新しいことに挑戦した時に、「ああ、できたぞ」あるいは、少々ハードルが高めな困難に直面しても「まぁ、自分ならできるよね」と日々感じるところではあります。
 ということで、今回は「自己肯定感」とは何かに関して、「自己効力感」という、似て異なる概念を俎上に上げて考察して参りたいと思います。


有標性理論

有標性理論 言語学の世界に「有標性理論」という考え方があります。これは二十世紀にヤコブソンを中心としてプラハ学派の中で共有されていた概念です。この概念を用いると、複雑怪奇な言語の世界が、スパッと二分され、思いの外スッキリ見えてくるのです。こんなことを書くと、「また言語学かぁ?!」と食傷気味の向きもあるかもしれませんが、今回の話は、為になる(はず)ですし、面白い(はず)ですので、ひとつ頑張って読んでください。

 有標性理論では、いろいろな現象が「有標」と「無標」に分けられていきます。有標とは「”普通”でない状態・存在」のことで、無標とは「”普通”の状態・存在」のことです。「有標性理論」という言葉自体が「”普通”である無標」を冠していない辺りから、これは「”普通”でないことを軸に考える理論」ということが想像できます。面倒臭いですねぇ…。
 例えば、日本語のサ行とかタ行には仲間はずれの音がありますね。「さ・し・す・せ・そ」と、かなで書かれていると気づきませんが、音素に分けて /sa, shi, su, se, so/ と書くと、イ段の「し」は /sh/ で、この音はサ行ではなく、シャ行の音になります。つまり「しゃ・し・しゅ・しぇ・しょ」の一員です。タ行に至っては「た・ち・つ・て・と」で、ローマ字で書けば /ta, chi, tsu, te, to/ とイ段にはチャ行、ウ段にはツァ行の音が混じっていることになります。有標性理論によれば、これら「し・ち・つ」など仲間はずれの音は有標、それ以外は無標ということになります。

 世界にはたくさんの言語がありますが、それらの言語にも有標・無標があります。「パルキッズ通信」をご愛読の皆様にはお馴染みですが、日本語は開音節性の構造を持った言語ですね。開音節というのは、「あかさたな」のように、ひとつの音節が母音、または子音プラス母音で終わる構造を持っている音節を指します。逆に英語は閉音節性の音節構造を持った言語です。日本語のように母音で終わる制約がないので子音で終わることができます。例えば、 ‘strike’ のように子音が連続することが許されています。しかし、日本語は子音で終わることが(撥音や促音を除き)許されていないので、英単語を日本人が発音すると、母音が後続しない子音、この場合には ‘s, t, k’ には ‘u’ が挿入されて「す・と・ら・い・く」となります。
 さて、世界中の言語を見た場合、日本語と英語ではどちらが”普通”、つまり無標なのでしょうか。これナント、日本語なんですね。世界の言語には、開音節の言語の方が多いのです。日本語の方が仲間が多いのです。よし、やはり英語なんてできなくてもいいんだ‼︎となるかもしれませんが、有標性と話者の多寡となると、また別の話です。音声構造においては有標である英語は、なんといってもリンガフランカですから、その点は日本語のようにマイナーな言語とは異なりますね。
 また、文法を見ると、日本語は SOV です。主語のあとに目的語が来て、最後に動詞がくる言語です。ついでに、主語は発音する必要もありませんので、形としてはOVに見えますが、実は主語はあるという考え方もあります。他方、英語はというと、語順は SVO です。つまり主語があって、続いて動詞がくる。そして最後に目的語が来ます。さらに言うと、日本語と異なり、英語は主語の省略ができません。この辺りも日本語と異なる点ですね。さて、日本語式の SOV と英語式の SVO、これも世界を眺めると、日本語式の SOV の方が多くを占める。無標、つまり”普通”のようです。後述しますが、仮に「普通が偉い」のであれば、日本語の勝利!


大きい小さい、古い新しいは?

大きい小さい、古い新しいは? 物のサイズを尋ねる時「大きさ」を聞きます。乗り物は「速さ」、山は「高さ」、海は「深さ」、距離は「長さ」ですね。”普通”は「小ささ・遅さ・低さ・浅さ・短さ」を尋ねません。つまり、前者が無標、後者が有標ということになります。これは英語でも同じです。’How big (fast, high, deep, long)’ でその逆の概念で聞くことは、特殊な場合で有標です。気づかないうちに、大小、長短、高低などの概念の間においては、それぞれ前者が”普通”と捉えられているのです。だから、二つ並べると無標の方、つまり前者が前に来るのでしょう。
 この感覚でいくと、ですよ、何やら大きい、速い、高い、深い方、など物差しの値の高い方が”普通”となります。すると、学問はどうでしょう。「できる」のが”普通”の無標で、「できない」のが有標と感じることがあるかもしれません。もっとも、学問には段階があって、義務教育程度なら「できる」方が”普通”の無標ですが、高等教育になると話は別で、「できない」のが”普通”で無標であると、世間一般はとらえるかもしれません。つまり、閾値を超えるとて、できすぎるのも”普通”でないし、専門的なものも当然”普通”ではないわけです。つまり、ある程度できるのが”普通”ということです。で、ほとんどの人は”普通”の枠にカテゴライズされます。すると、”普通”である限り、自分のことを「頭が良い」とか「頭が悪い」とか、たまーに感じることはあるかもしれませんが、日常的には、そのような感覚に囚われるようなこととは無縁ということになります。つまり、何も感じない。つまり、おつむの出来具合は”普通”の無標。

 さて、このように、尺度を聞く時に値の大きい方を”普通”とする感覚や、そこから、ある程度できることが”普通”だと感じる概念がある一方で、”普通”が”普通”すぎて感じられないこともあります。例えば気温です。気温は中立です。英語でもどうやら中立のようで、’temperature’ はラテン語の temperare「中和」から来ています。同様に、味が濃かったり薄かったりしますが、何でもないのが”普通”の家庭料理です。朝食ごとの味噌汁や沢庵、納豆やお茶を「これは美味い!」と感じられるのであれば、それはそれは幸せなことですし、主食の白米を「美味い、美味いぞー、これは美味いぞーっ‼︎」などと感じられる方は、本当に幸せ者に育ててもらったものだと、ご両親に感謝した方が良いでしょう。

 ”普通”が”普通”であることは、世の中に溢れています。無標すぎて気づかないけれども、そこにしっかりとある「普通」に我々は育まれて活きています。既述の気温もそうです。暑くもなく寒くもない春の日が心地よいのは当然ですが、夏はエアコン、冬は暖房で常に寒くもなく暑くもなく、”普通”に過ごせるのが現代人です。
 そればかりではありません。自然の中にも”普通”は溢れています。例えば自律神経。人間は「よしっ、動かすぞ!」とか「吸い込むぜ!」と思わなくても、無意識のうちに”普通”に呼吸し、心臓が動いています。寝ている時にすら、せっせと自律神経は”普通”に働いています。それが、無標です。
 しかし、怪我や病気をすると一気に”普通”でない有標の状態になります。すると、痛くも痒くもない状態、無標の状態がいかに儚い僥倖であるか、いかに、何もない”普通”であることがありがたいのか、ということに初めて気づくわけです。
 少々出来が悪くても、元気でにこやかな我が子がいて、少々の持病持ちでも、年老いた親たちも日常は元気である。お腹が空いているわけでもなければ、寒いわけでもない。中肉中背で、美男美女でもない、目も見えれば、耳も聞こえる。足は速くないがスタスタ歩ける。眠くもなく、かといって眠れないわけでもない。これらが当然のことのように感じられるのが、いかに恵まれているのか。どうでしょう。有標性理論を知ることで、無標の状態が幸せと感じられるようになりましたでしょうか。これがわかったら、もはや、おみくじや宝くじでで運試しなんてことはないでしょう。すでに十分な幸運に恵まれているのですから。


自己肯定感を高めるとは?

自己肯定感を高めるとは? 専門家ではありませんし、また、いろいろなケースがあるでしょう、と前置きして言及します。自己肯定感が高すぎて自己肥大したり、逆に自己肯定感が低くて何事にも消極的になる場合、多くはのその生育環境に何らかの原因があると考えられると思われます。
 例えば、引きこもりは、厳格な親による、規範から外れることを厭う完璧主義がもたらすと言われています。つまり、完全にできないとダメ、という高すぎるスタンダードが一因と考えられているのです。有標性理論に照らし合わせれば、ほどほどにできる”普通”の状態ではなく、有標である「出来過ぎ」を求めてしまっているわけです。まぁ、それを求める親が有標であるほどに優秀であるかどうかは別として…。
 もちろん、相当優秀か継続的な偶然に恵まれない限り、何でもかんでも理想的にこなすなんてことはできません。いつか必ず失敗します。それつまり失敗体験です。失敗体験は少なからずの否定的自己対話へとつながります。すると、自己肯定感が”普通”の範疇に収まっておらず低い傾向の人たちは、引っ込み思案になり人との対話を避けるようになるかもしれません。結果として、社会スキルの欠如へつながり、これがさらに逃避行動を呼びます。負の連鎖。トリガーが親である場合、「あなたのためよ」と言いつつ、どこか不満げな満たされない親を見て、それは自分のせいだと思い込み、自分がいなければみんな幸になるのかも…、と極端な思考に繋がることもあります。

 それでは、自己肯定感を高めるためには何をしたら良いのでしょうか。専門家ではないのでよくわかりませんが、素人なりに科学的に考えてみると、これは誰かに治してもらわないことにはどうにもならない。自己肯定感が低いと、他者依存したり、優柔不断だったり、承認欲求が強くなったりしますが、これは自分ではなかなかコントロールできないでしょう。そこで、結果として精神科医あるいは病院に行くか、病気とは思わないまでも、「どこかうまくいかない」と感じて NLP やコーチングといった技術に頼ることにも繋がるのでしょう。大人ならばそれで何かが解決する可能性もありますが、子どもの場合にはそうはいきません。子どもの自己肯定感を高めることができるのは、他でもない親です。保育所・幼稚園、あるいは習い事では解決できません。
 では、一体全体どうすれば、子どもの自己肯定感を高めることができるのでしょうか。あるいは高くなりすぎた自己肯定感を”普通”の無標状態に戻すことができるのでしょうか。そもそも自己肯定感自体が「自分の価値や能力、あるいは存在を肯定的に見る」ことでした。それでは、と単純に「あなたには価値があるのよ、能力があるのよ、存在していいのよ」などと言い聞かせるだけでは、響くことはないでしょう。ということで、具体的な自己肯定感の高め方に関して、詳しくは『世界標準の自己肯定感の育て方』(船津徹著 KADOKAWA)をご参照いただくとして、ここでは、「自己効力感」という切り口から以降、話を進めていくことにしましょう。


「無標」の自己肯定感に対して、自己効力感は「有標」なので自覚できる

「無標」の自己肯定感に対して、自己効力感は「有標」なので自覚できる 自己肯定感は目に見えません。何か自分自身を意識しなくてはいけないような事件・事象が起きて、「うむむ」と内省することで無標の状態を逸脱しない限り、普段は感じることもできないのです。しかし、他方の自己効力感は目に見えます。
 自己効力感とは「自分が特定のタスクをこなしたり、状況に対処できる能力を持っていると感じること」だそうです。具体的には、例えば、根拠を持った上で、希望する大学に合格する自信を持っていることなどがそうでしょう。大切なのは「根拠」があることです。自己肯定感は「根拠のない自信」とも言えますが、自己効力感は根拠が伴います。主観的な自己肯定感に対して、自己効力感は客観的なのです。仕事で言えば、新しい事業を展開するにあたって、「自分はチームリーダーとしての役割を果たせる」と感じることも自己効力感から生まれます。言い換えれば、自己効力感は設定された目標や普段の行動に関して「自分ならできる」と感じることです。
 自己効力感は、根拠を持って自覚できるので実感できる、つまり無標で日常的には感じないことがデフォルトの自己肯定感と異なり、自己効力感は有標なので、自覚できる。そして、自覚できるならばコントロールもできるのです。当然、子どもの自己効力感もコントロールすることができます。

 それでは、どのように自己効力感を育てることができるのでしょうか。

 実は、これが「超」簡単なのです。『パルキッズ通信2024年1月号』の「主体性の育て方」で「継続させること」に触れましたが、これが自己効力感と直結しています。なぜなら、継続しさえすれば、何事も達成、あるいは上達できるからです。すると、それが自信となり、さらに次のレベル、あるいは新しいことへのチャレンジ精神に繋がるのです。拍子抜けするほど、単純な理屈でしょう。
 心理学の世界では、正の強化などと呼ばれるようですが、とある行動を起こして、その行動が評価されれば、それは正の強化子となり、将来的にその行動の頻度が増します。例えば、習字の練習をしたら、先生に褒められた、というのも正の強化ですし、毎日コツコツ取り組んだらクラスでトップになった、というのも正の強化です。これらの成功体験によって、その行動頻度が増すのですから、どんどん勉強する、どんどん積極的に取り組むようになるわけです。

 ただ、ですよ。淡々と継続することが極めて難しいと感じる人もいます。子どもに習い事をさせると「つまらなさそう」とか「他のことをしたがる」など、子どもの気まぐれに翻弄されて、あれやこれやと次々に手を出しては、やれ「我が子とは合わない」などと断念、また別のものに手を出す…。そんな人も少なくありません。これでは、子どももかわいそう。このようにして環境を与えられる子は、淡々と続けられません。淡々と続けるからこそ、できるようになるのです。
 このような感覚を「有標性理論」に当てはめると、「子どもに習い事をさせること」が彼らにとっては「有標」で”普通”ではないことなのでしょう。だから、無標にできない。子どもから何らかの有標である反応がなければ、満足できないわけです。そもそも、有標なことをしているわけですからね。
 三度三度の食事や日々の歯磨きに、楽しさは必要ですか?食事や歯磨きのように、気づけば、そろばんにプリントに、あるいはオンライン学習に取り組む、息をするようにそれらの取り組みができるようになると、それは「無標」になります。そうなるとようやく継続が生まれ、結果として「正の強化」に繋がるのです。

 「継続は力なり」で、継続させることが鍵です。その継続させることに関する鍵が「明日取り組むために今日取り組む」という、ある意味哲学的な境地にあることも、『パルキッズ通信2024年1月号』で述べているので、そちらも参考にしてください。

 自己効力感と自己肯定感は、運動と健康の関係に似ています。自己効力感が高まり「自分ならできる・成果を上げられる」という自信を持つことは、そのまま自己肯定感に繋がります。そして、低い自己肯定感を克服すれば、失敗しても「今回はダメでも次は頑張ろう」という、いわゆる「普通」の自己肯定感の状態になれます。自己効力感と自己肯定感は相関関係にあるらしいのですが、上の関係を見ると、相関関係もさることながら、連続的な因果関係の状態にあるとも言えるでしょう。


自己肯定感を”普通”に保ち自己効力感を高める

自己肯定感を”普通”に保ち自己効力感を高める 勉強ができても、自己肯定感が低い人がいます。言い換えれば自己効力感は高いのですが、どうも「満たされない」「心配」な精神状態というのが同居するケースがあるようです。もっとも、自己効力感と自己肯定感は異なる概念ですし、上で述べたように相関関係もあるという段階で、別々の概念です。なので、それらが同居することはもちろん可能です。大切なのは「自己効力感」を高めつつ、「自己肯定感」を”普通”の状態に持っていくような親子関係の構築でしょう。
 それでは、ここから、具体的に「褒める」という作業を切り口にして、自己効力感を高める方法を見ていくことにしましょう。まぁ、せっかくの「パルキッズ通信」ですから、ありきたりの十人並みではつまらない。常々「褒める」のではなく「驚く」べきであると書いてきました(気になる向きは「パルキッズ通信 驚く」などで検索してみてください)。今回は、世間一般に「褒める」に還元されている、親が子どもと接する時に知らず知らずのうちに行なっている行動を、①状態・性質を「定義する」、②行動(思考・言動)を「褒める」、③成果に「驚く」、の3つに分類して見ていくことにしましょう。


ただ褒めるでは芸がない、何を褒めているのか自覚してみると…

ただ褒めるでは芸がない、何を褒めているのか自覚してみると… 例えば、我が子。かわいいですよね。そして「〇〇はかわいいねぇ」。よその子もかわいいけど、他の子がかわいいのとは次元が異なるかわいさの我が子、ですよね?ここ、今、とても重要なことを書いたのですが、わかりましたか?わかったなら結構です。そうでないなら、さらに読み進めてください。
 幼稚園児ながらに、様々なことをこなす我が子。ひらがなカタカナはすべて読めるし、2、3年生の漢字程度ならほぼ読める。書く方も達者で、毎日何やら書いている。計算も得意で、足し算引き算なら桁を超えてもできる。いちご3個ずつが2皿で全部で6つ、あるいは10個あるから3人で分けると1個余る。いやいや、それどころか、最後の1個は三分の一にすれば良いなどと、下手な中学生より頭が良い。そんな我が子を見て、「〇〇ちゃんは賢いねぇ」となるわけです。そろそろわかりましたか? 
 運動が大好きな我が子。もっとも、子どもは放っておけば動き回るものです。ただ、都会では子どもが自由に走り回れる環境が減ってきているので、昔であれば、公園や空き地で勝手に遊ばせておけば、十分運動神経は育ったのですが、今日では運動までが習い事。それでも、上手に自転車に乗ったり、運動会で活躍する我が子を見ると、「〇〇ちゃんは運動神経がいいねぇ」となる。どうでしょう。もう少し進めましょう。
 お手伝いが大好きな我が子。日常的に食事の時には箸や箸置き、小皿の準備をしてくれる。聞き分けも良く、お片付けもできるようになった。話を聞くと、どうやら幼稚園でも、困っている子や、年少の子の面倒をよくみたり、先生のお手伝いをするらしい。日常の我が子を見ながら、また、そんな話を聞きながら、「〇〇ちゃんは偉いねぇ」とやります。この辺りで「お、変わったな」と感じた方がいらっしゃたら鋭い。さらに続けます。
 朝起きると、母の具合が悪い。そんな母を見て心配そうに「どこが痛いの?」「大丈夫?」と声をかける。ああ、なんて心優しい子に育ったんだろう。それに比べて旦那ときたら…。なんてこともあるかもしれません。そして、「〇〇ちゃんは優しいねぇ」となるわけです。

 種明かしをすると、これ、褒めているようで褒めていません。実は、定義しています。でも、子どもたちは褒められたと思ってしまいます。前半の3つと後半の2つに分けて順に解説しましょう。前半の3つの「自分はかわいい」「自分は賢い」「自分は運動神経が良い」を見ると、こんなことを言われ続けると子どもたちは「自分は〇〇だ」と信じ込みます。しかし、これは事実と異なる場合もある。もちろん、我が子はかわいいんです。でも、子どもはいつか社会に出ます。すると、社会の人にとってはいくらかわいい我が子も、単なる他人の子です。相当の器量か愛嬌がないかぎり「かわいいねぇ」とは評価されません。つまり、子どもたちは、一歩我が家を出ると自分はかわいくなくなってしまう。でも、自分はかわいいと親から刷り込まれているわけです。自己評価と他者評価にギャップができるわけです。
 2番目と3番目も似ています。確かに、幼児期には幼児期なりに賢いかもしれません、また、運動もできるかもしれません。でも、小学生の算数問題(『パルキッズ通信2023年11月号』)からもわかるように、低次の計算能力だけでは、太刀打ちできないレベルになると、賢さも途端に色褪せてしまう。
 昔の人は賢かったですね。こんな言葉があります。「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」。皆まで言う必要はないでしょう。でも、子どもたちは「自分は賢い」と信じ込まされているのですから、これも自己評価と他者評価とのギャップですね。
 さて、それに対して、最後の2つ。お手伝いなどしてくれて「偉い」という点と、他者を気遣ってくれて「優しい」という点。これは問題ないでしょう。現にお手伝いしてくれるのですから、偉いと言えば偉い。まぁ、高校を卒業して実家にお世話になっていて、お手伝いするくらいは当然ですが、まぁ、「偉い」で大目に見ましょう。優しいも同様です。これらを伝えることは大いに結構なことです。

 つまり、子どもたちを、何気なく褒めているつもりで、実は定義してしまっていることがあるという自覚が親には必要です。そして、定義するからには客観的に正確に定義しなくてはいけません。親の主観で「頭が良い」とか「賢い」とか「運動神経が良い」などと刷り込んでしまうのは、いかがなものかなと思います。なぜなら、将来的に持続的に頭脳明晰で運動神経抜群な子に育ててあげないことには、上で述べたような自己評価と他者評価の乖離が生まれます。この乖離の間にいるのは子どもたち本人で、彼らがこのチグハグな現状を、どうにか認知的に処理・解決しなくてはいけないのです。これ意外と辛い。
 例えば「賢いね」と言われ続けると「自分は(性質として)賢い」と思い込むようになります。そこには、努力も何も介在する余地はありません。なぜなら、自分は賢いのですから、勉強しなくても、努力しなくても「賢い」のです。しかし、現実はそうではありません。実際に解けないレベルの問題に突き当たった時、「自分は(性質として)賢い」と思っている子は、ショックを受けます。なぜなら、「賢い」はずの自分が「賢くない」ことになってしまうからです。そして、その認識と現状の乖離に対する最も簡単な解決法は「やらない」という一点に逃げ込むことです。なぜなら、やらなければ、自分の能力の低さを露呈せずに済むからです。それでもさらに、無理やりやらせれば「自分はダメだ」という点に追い込むことになります。これは、自己肯定感の低さにも繋がっていくのでしょう。

 こんなことを書くと、「それでは子どもを褒めてはいけないのか」「褒めることでやる気が出る子もいるだろう」との反論が聞こえてきます。その点に関しては、次の節でご説明しましょう。


存在を褒めるのではなく、具体的な行動や思考を褒める

存在を褒めるのではなく、具体的な行動や思考を褒める 上で見たような「〇〇ちゃんは~だね」は褒めているのではなく定義であるということはご理解いただけだと思います。念の為定義を載せておきます。

ほ・める【褒める/▽誉める】
1 ) 人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う。たたえる。「勇気ある行動を―・める」「手放しで―・める」「あまり―・めた話ではない」…..(デジタル大辞泉)

 「え?」でしょう。辞書の定義によれば、子どもの性質や状態について「かわいい・賢い」など、何かしら肯定的なことを言うのは「褒める」には当たらないのです。やはり、「かわいい・賢い」は定義しているといえるでしょう。
 そして、上の定義にあるように、褒めるのであれば、「子どものしたことを優れていると評価してたたえる」必要があります。ここでは、「したこと」に「とある考え方をすること」「とある発言」も「したこと」に含めることができるでしょう。でも、「かわいい・賢い」はどう考えても、「したこと」ではないので、これは、褒めているのではなく、定義していると思いましょう。

 さらに「かわいい、賢い」などと定義するのは主観です。しかし、褒めるためには客観的に我が子の行動(思考・発言)を賞賛に値すると判断する必要があります。その上で、褒めることになります。しかし、「褒める」と言うとどうしても「かわいいね、賢いね、優しいね」などの性質・状態についての定義になってしまいがちです。あくまでも「行動」に対する賞賛と心に決めておくことが大切でしょう。また「子どもがとった行動まで」が褒める対象であって、その「成果」に関しては、次の節で述べることにします。
 例えば幼児期なら、自分で登園のお着替えができた、朝ごはんをちゃんと食べられた、プリントに取り組めた、レッスンに取り組めた、習い事の練習を欠かさず行なった、などは「ちゃんとできたね」と褒めてあげて良いと思います。ただ、これらは、すぐに無標になってしまうので、成長とともに褒める要素ではなくなります。それでは何を褒めると良いのでしょうか。
 「褒める」という言葉が、そもそもいろいろな要素を還元しているので、親が褒める気持ちを起こす源泉である、尊敬、感謝、感心に目を向けましょう。例えば、「自分ばかりでなく人のことも考えてくれるので尊敬するわ」「そんな細かいところまで理解しているなんて尊敬する」「優しい言葉がけをありがとう」「お手伝いしてくれてありがとう」あるいは、「頑張ってるね」「毎日練習して偉いわ」と、このように、小さい我が子ながらに、しっかりとした行動(思考・言動)をすることを尊敬し、感謝し、感心する。これをもって褒めるていると考えると良いでしょう。ほら、これで、「かわいい・賢い」などの性質・状態ではなく、行動に目を向けられるようになるでしょう。また、褒めるモチベーションを「性質・状態」に還元することなく「行動」に注目できるようになることを期待します。頑張って‼︎親‼︎
 前節の「定義」のところで触れましたが、「賢い」などと定義すると、年齢相当に賢くあり続けないと、「賢い」定義から逸脱します。すると「逃げ」の手を打つようになります。しかし、「賢いね」の代わりに「毎日コツコツと取り組んで感心するわ」と言われれば、できない問題に行き当たった時にも、逃げることなくがっぷり四つに問題に取り組めるようになるのです。

 ここまでを、まとめると「性質・状態を定義する」ことは、慎重に行いましょう。そして、「行動(思考・言動)に対して尊敬や感謝の意を表す」ことを、褒めることと捉えると良いでしょう。そして、最後となりますが、次に「成果に対して驚き感動する」ことを、褒める代わりに行うと効果絶大です。以下続けます。


結果に対して驚き感動する

結果に対して驚き感動する 性質・状態、行動と話を進めてまいりましたが、性質・状態と行動につきまとうのが成果です。その成果に関しては大いに褒めてあげるとよいのですが、ほら、褒めるというと「性質・状態」の定義に陥りがちなので、本気で成果を誉めたいときには、その誉めたい心が湧き上がる源泉であるところの「驚き」や「感動」を伝えるようにしましょう。
 いかがですか?もう「〇〇ちゃんは賢いね」などという、不用意なことを子どもに言うことはないでしょうし、これからは行動(思考・言動)に対して「〇〇ちゃんは~をするから、偉いなぁ、有難いなぁ、感心するなぁ」と伝えることになるわけです。そのうえで、成果です。何かを成し遂げたときには、大袈裟に「驚き」「感動」する姿を見せてあげましよう。
 試験に合格したとき、何かの賞を取ったとき、あるいは、何事かを達成したとき、ひとつの技術を身につけた時など、「すごい!」「嬉しい!」「涙が出てきた」と驚きと感動を伝えれば良いのです。これは、あくまでも成果に対してであって、その前に淡々と取り組む「〇〇ちゃんには感心するわ」があることは言うまでもないでしょう。

 以上を英検受験に例えると、例えば小学生で英検を受ける場合に「パルキッズのレッスンに毎日取り組んでいて感心するわ」と日々語りかけ、いざ受験となれば「こんなに小さいのに英検受験するなんて尊敬する」と伝え、受験後には「お兄ちゃんお姉ちゃんの中でよく頑張ったね」と尊敬、感謝、感心の心を伝える。そして、合格していれば、「すごい!」と感動すれば良いのです。

 いろいろ面倒なことを書きましたが、今月号を書く動機のひとつに、褒めるという行動を通して、結果として「事実でないことを子どもに刷り込む」定義をしていることが多く、それが子どもの「過信」「根拠のない自信」を増大させ、結果として「自己肥大」から、「苦手なことから逃げる」というメンタルを作るケースが見受けられる点を挙げておきます。
 繰り返しになりますが、間違えた誉め方をして拗らせるくらいなら、褒めることを封印して、褒める代わりに、「褒める」の原動力となっている「行動に対する尊敬、感謝、感心」と「成果に対する驚きと感動」をダイレクトに伝えるようにした方が、子どもに正しくメッセージが伝わるのです。すると、親子関係も円満になり、子どもの自己効力感や自己肯定感も高まります。さらには、主体性をはじめとしたコミュニケーションスキルまで身につけることが期待できるのです。
 先月号に書いた「明日取り組むために今日の取り組みがある」そして、今日の取り組みをうまく行かせるためには、「褒める」のではなく「行動に対する尊敬、感謝、感心」と「成果に対する驚きと感動」をこまめに伝えることが大切です。

 さて、「褒める」を科学して、ご理解・ご実践いただけると思います。そこでひとつだけ、散々正しく褒めた後に「…けど、こうしたら、もっと良い」は付け加えないように。親業は修行ですぞ。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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学校英語の理想と現実
アウトプットとストレスの関係
「バイリンガル」対「モノリンガル」

【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。日本の言語学者。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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