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2024年1月号特集

Vol.310 | 「主体性」の育て方

いつの世でも溌剌な子が人気です

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2401/
船津洋『「主体性」の育て方』(株式会社 児童英語研究所、2024年)


「コミュニケーション能力」と並んで「主体性」が求められる

「コミュニケーション能力」と並んで「主体性」が求められる 採用活動において企業が新卒学生に求める能力は、さまざまなメディアで報じられていますが、その中で常に「コミュニケーション能力」に並んで上位にあるのが「主体性」(あるいは「自主性」「自律性」または「積極的な行動力」など)です。では、その「主体性」とは一体なんでしょう。

 しゅたい‐せい【主体性】 : 自分の意志・判断で行動しようとする態度。
「―のない人」「―をもって仕事に取り組む」 …デジタル大辞泉

 なるほど、やることを「自分で決めて、行動するぞ」という人材が、会社では求められているわけですね。それはそうでしょう。会社は、学校じゃないんですからね。「言われたことをやる」のは当たり前で、 “言われたこと以上” ができて、ようやく「お!」となるわけです。就活のグループ面接でも「状況の理解力」から「問題を発見する能力」、さらには「責任感」をもって「問題を解決する能力」を発揮できるか、つまり「主体性」を観察されることになります。
 社会で役に立つ人になるためには、上で述べたような状況の理解力や問題解決策を打ち出せるだけの思考力がまず必要です。また、一人ではできることも限られてしまうので、責任をもって物事を成し遂げるには、人を動かすリーダーシップを含めたコミュニケーション能力が必要となります。それらの能力を統合する力として「主体性」が必要となるわけです。

 ところで、主体性を持った人というのは一体たくさんいるのでしょうか。それとも珍しい存在なのでしょうか。

 「主体性」のひとつの表れとして「起業」が挙げられます。事業が軌道に乗ってくれば話は別ですが、起業するにあたっては、もし「みんなで仲良く」「責任を分担しながら」などと呑気なことをやっていたら、あっという間に限られた原資を使い果たして、廃業となってしまうでしょう。そもそも「自分で考え」「自分の判断」で「自らリスクと責任を取る」姿勢がなければ、起業できないでしょう。
 ところで、我が国において、起業する人は極めて少数派のようです。中小企業白書によれば、起業する人は年間12万人程度です。学年人口に置き換えれば10%ですが、複数起業する強者が多いので、おそらくユニーク数はその半分の5%くらいでしょう。この数字は2000年初頭から現在にかけて減少傾向にあります。これも考えものです。今日、30年前とは比べ物にならないほどIT技術が進んでいるわけです。豊富な原資がなくても、才能とアイデア、さらには主体性があれば、いくらでも起業できる環境が整っています。それにも関わらず、起業家は減少傾向とは、なんとも情けない。
 世界に目を向けてみても、どうも我が国の起業家精神は振るわないようです。2017年の中小企業白書では、2000年以降、開業率において欧米の半分以下で推移しています。起業数とGDPの伸び率には相関があるようですので、日本経済停滞の一因には、起業する志を持って、それを実行に移す人が欧米に比べて少ないことも関係しているのでしょう。

 さてそれでは、なぜ、起業するような「主体性」を持った人が、世界標準に比べて日本では少ないのでしょうか。


空気を読みすぎて、がんじがらめに

空気を読みすぎて、がんじがらめに 発達障害に関する記事を読んでいて、少し驚いたことがあります。発達障害の子どもたちの傾向として挙げられている「こだわりが強い」「コミュニケーションが苦手」「注意の欠如」などに混じって、なんと「空気が読めない」という項目があるのです。
 空気…、確かに見えませんね。見えないものを読まなければいけない、なんとも特殊な社会です。そして、そんな中、件の彼らは見えないものを知覚する能力が欠如しているらしいのです。この「空気」云々の記事を読んで、本誌でも過去に何度か触れたことのある山本七平先生の著書(山本七平『「空気」の研究』文春文庫)を思い出しました。とある遺跡発掘現場で髑髏が出てくる。続々と出てくる髑髏が発掘の邪魔になるので、これらを日本人とユダヤ人の関係者が次々と移動するわけです。するとユダヤ人の方はなんともないのに、日本人の方は少し心がおかしくなってきて、仕舞いには病人のようになってしまった。しかし、この作業が終わるとケロっと治ってしまった。どうやら日本人には「お祓い」が必要だったようだ、というお話。
 骨などというものは単なる物質です。しかし日本人は、そこに、なにやら魂のようなものを感じてしまうのでしょう。何もないのに、何かを感じる。これも「空気」の一種でしょう。
 さて、空気とはなんでしょうか。

 くう‐き【空気】: 2 その場の雰囲気。
「職場の―になじむ」「険悪な―が流れる」「自由な―を吸う」

 だそうです。ついでに雰囲気も調べると…

 ふんい‐き〔フンヰ‐〕【雰囲気】: 2 その場やそこにいる人たちが自然に作り出している気分。
また、ある人が周囲に感じさせる特別な気分。ムード。
「家庭的な―の店」「職場の―を壊す」「―のある俳優」 …デジタル大辞泉

 なんだか、分かったような分からないような、もやもや感(つまり「空気」?)が残ります。
 因みに、私ごとで恐縮ですが、私は高校時代から大学にかけて留学していたせいか、あまり空気を読(め)まない方で、骨は骨と感じるタイプ。「そこにはだれもいません」という、つまらない人間です。すると、場の空気とかも読まず、どちらかと言えば、大切なのは時間と効率、あと論理。従って、ぐだぐだした会議が苦手。長くなると「いい加減にしましょう」とか言う始末。もちろん、今では気も長くなって短気は起こしませんが、若かった頃は本音をズバズバ言ってしまう。周りからは「空気の読めないやつ」「面倒くさいやつ」と思われていたこと必定でしょう。
 しかし、自分で思い付いて、あるいは人から教えてもらった情報から、自ら考えて「これが正しい」と思われる判断をして、それを実行に移してきたわけです。人にとやかく言われる筋合いはないでしょう。と、ほら、このあたり、今でも「空気が読めない」輩である本性は変わっていないようです。反省。

 しかし、大抵の勤め人たちはそうはいかない。みんなが僕みたいに自由に振る舞っていれば、それはそれは、みんな自由で楽しい国になると思います。しかし、受け皿である社会の方が、なかなかそれを許してくれないわけです。派遣問題から、個人事業主が増えたのは結構なことですが、個人事業主のような、税金や社会保障料を取りにくい存在を嫌がるお役所がある。会社員になることを暗に勧められているような税制です。そして、その制度の狙い通り、ニッポンの社会人たちは、ほとんどが会社員。彼らにとっては、その会社が半ば棲み家なわけです。自ら好んで、そこからはみ出るような真似はしないのが普通でしょう。
 日本人は、幼稚園を出れば、みんな揃って小学校に上がる。小学校では、そのルールに従っていれば、次には中学校に上がる。そこでもはみ出さないようにしつつ高校へ上がる。そして、とある人はそのまま社会に出るし、またある人は大学を経てから社会に出る。そして、多くの人は早期退職か定年、あるいは再雇用後の定年で「追い出されるまで」どこかに居続ける(属し続ける)わけです。それが、多くの日本人の生きる道なのです。


「和を以て貴しと為す」

結局は「英語」 聖徳太子の十七条の憲法の一が「和を以て」云々ですね。普通「仲良くして争わないようにね」と解釈されます。なんといっても我が国最古の「憲法」の冒頭の一句ですからインパクトがあります(二条以降はよく知りませんけれど…)。また、そんな太古の道徳規律など、関心がない限りは正確に読むこともしないでしょう。結果、広く「まぁまぁ、仲良くやろうな」との理解になっているようです。
 それで大概間違いはないのですが、上の句には以下のような続きがあります。曰く「いろんな人がいて、理解し合えるものは少ない。そこで対立が起きるは必定、上のものが穏やかで、下のものと良好な関係を作れば、協調し合うことができる。結果、道理は通じ物事は成し遂げられる」と、多様性の中で生きる道を説いているではありませんか。
 つまり、対立は起きることが前提です。その上で、年長者が広い心で若者を受け入れ、協調し合えば話は通じるだろう、ということです。
 「和を以て貴しと為す」は、黙従を良しとしているのではありません。議論せずにただ仲良くすること、自分の意見を引っ込めることを推奨しているわけでもありません。もちろん、最近一部で流行っているような行きすぎた主張をするのでもない。淡々と我が道を行きつつ、他人を尊重する。自我があって非我があることを理解した上で人と接する。つまりは、多様性の世の中で如何に人と折り合いをつけて生きていくかを説いていたわけです。

 日本は、ハイコンテキスト文化であると言われます。「沈黙は金」であったり「言わぬが花」だったりします。主体のないところから醸し出された空気を、黙って読み取ってそれに従うことが求められます。そして、それに従わない人間は「変なやつ」と弾き出される。「多様性だ」と叫ばれますが、それは「他所のはなし」であって、「うち」のコミュニティーではそんなものは認められない、あるいは認めたくないな、という空気が漂っているのです。
 確かに、いかなるコミュニティーにおいても軽口は慎むべきです。しかし、空気の重圧が強くなれば、軽口どころか、間違ったことに対して意見することすらしなくなってしまう。こうして、皆が黙ることで、誰の意見でもないヌエのような実態のない法律・規則に自縄自縛となっているのが、今のこの国の姿のように思えます。


正常性バイアスと同調性バイアスが危険

英検の何が変わる? 人は社会性の生き物です。支え合って生きています。みんなで仲良く生きていく方が、楽ですし、楽しいし効率も良い。しかし、支え合うには、個々人が自立していることが前提です。自立できていないものたちが群れるだけでは、支え合うどころか、危険です。以下、無条件で群れることの危険について少し触れます。
 防災や危機管理にしばしば用いられる「正常性バイアス」と「同調性バイアス」という心理学用語があります。正常性バイアスとは、異変が起きたとき、あるいは問題が生じたときに「これは正常の範囲内である、だから私は大丈夫」と思考することです。そして「同調性バイアス」とは、目の前の状況を見て「私もみんなと同じようにしていれば良い」と判断することです。これによって何が起きるのでしょうか。
 しばしば引き合いに出されるのが、東日本大震災時の判断の別れです。とあるコミュニティーでは大地震の後に、「少し大きい揺れだったが大丈夫だろう」と正常性バイアスで思考し、「周囲も何も言わないし、逃げる人もいないから大丈夫だね」「騒ぐのもみっともないし…」と同調性バイアスで状況判断が行われ、結果人々はその場に留まります。そして、十分な時間が経ち、津波が見えてから逃げる。いや、津波が来てからも、その光景をビデオに収め続けることすらあります。
 他方、とあるコミュニティーでは「事前訓練」を活かして、ぐらぐらと一揺れするやいなや「すわ、本番だ」とばかりに避難を開始します。考えるまでもありません。そのために避難の手順書を作り、避難訓練をしてきたのですから、本番では迷わず「逃げる」が正常な判断です。そして、静かに粛々と避難場所へと向かいます。これを見た周囲の人は、「お、避難か!」と正常性バイアスや同調性バイアスのくびきから解き放たれ、避難を開始する。そして多くの人の命が救われます。

 この「正しい判断」も無に帰すこともしばしば。正常性バイアスや同調性バイアスが働いている群れの中で、仮に1人が「津波が来るぞ、逃げろ!」と叫び回ったとしましょう。これは目を覚ます千載一遇のチャンスです。しかし、正常性バイアスや同調性バイアスの虜になっている人たちの中で、誰かが「そんなことはない」「あいつは大袈裟だ」と言えば、周りも「そうだねぇ」と同調してしまい、避難の機会を失ってしまうのです。

 この正常性バイアスと同調性バイアスは、有事に限って発揮されるものではありません。平時にもバンバン発揮されています。例えば、勤務先の会社の経営が怪しくなれば、そこに勤める社員はそれこそ「空気」を察知します。しかし、「一時的なことだろう」「うちの会社は大丈夫だろう」「もし何かあっても私は大丈夫だろう」と正常性バイアスが働き、「みんなも何も言わないし」「誰も行動するわけでもない」ので、「しばらくは様子を見よう」と判断します。そして、ある日、気がつけば会社がなくなっている、なんてことも折につけ耳にします。

 ひとつ繰り返しておきますが、空気とはあくまで雰囲気なので、それに縛られる必要などありません。しかし、日本のコミュニティーに育ち、空気に敏感になることで、思考停止している人は少なくありません。そんな人たちは、主体性という概念の対岸の住人でしょう。もちろん、それは悪い生き方ではありません。羨ましいほど平穏な生き方です。平時であれば「寄らば大樹の陰」でまったく問題ないでしょう。
 しかし、年功序列や終身雇用は幻になりつつある今、昭和バブルの「日本すごいぞ!」の空気に支配された思考で「この会社は大丈夫」だから「私は大丈夫」が、本当に「大丈夫」なのかの判断力が求められています。そして「優秀な奴から辞めていく」と言われるように、「主体性を持った人たち」は危険を察知したり、あるいは会社に残ることが合理的でないと判断したりすれば、転職するなり起業するなりと自分のキャリアを構築していきます。
 「主体性」があれば、人生の至る所に生き方の岐路が生まれます。つまり、それは「チャンス」です。逆に、主体性なく生きていると生き方の岐路が生まれる機会も少なく、仮に目の前にそれが現れたとしても、合理的な判断ができずに、ずるずると「とりあえず様子見」で、気づけば老境に差し掛かっている、などということもあります。


子が子なら親も親

筆記が倍になる ずんずん我が道をいくか、現状維持を貫くか、それは人それぞれで結構なことです。ただし、社会は主体性を持った人間、つまり前者を求めていることをお忘れなく。この傾向は、今後さらに強くなるでしょうから、我々大人は逃げ切れたとしても、子どもたちは逃げ切れるとは考えない方が懸命でしょう。
 ところで、繰り返し述べているように、日本人は協調性が強く、横眼で隣人の様子を眺めながら、安心したり焦ってみたりする可憐さをもっています。はてさて、いかにして、そのような可憐な個性が形作られるのでしょうか。ここには間違いなく、日本中の各コミュニティーが「空気」という媒体を通じて、協調的で周囲と歩幅を合わせようとする個性の形成に関与しています。したがって、我が子を日本で生育する限り、放っておけばどんな子でも空気を読んで、和を以て貴しと為すようになるのでしょう。つまり、協調性は、放っておいても育つと考えられます。しかし、そんな中で「我が道をゆく」主体性を持った人間を育てるのは、大変なことです。
 そう考えると、日本の「学校制度」や「地域コミュニティー」「自治体」「企業文化」などの合作によって、主体的な人格形成が阻害されているようにも思えるかもしれません。しかし、少し待ってください。その考え方自体が、主体的ではありません。実は主体的な人格の育成を阻む最初の一歩は、家庭、親の接し方にあるのです。

 「親ガチャ」という言葉が気になって、その初出を 「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)」や「中納言」で検索しましたが、ヒットしませんでした。そこで、ChatGPTに聞いてみると「生まれつきの環境は選べないことをガチャガチャゲームに例えたネットスラング」で「2017年ころ」に登場したようです。
 さて、この親ガチャですが、「主体性」のある人からは縁遠い概念でしょう。主体性がある人は自分の人生は自分で切り開いていきますので、親に対しては産んでくれたこと、ここまで育ててくれたことに対する感謝の気持ちは持てども、他の家庭環境と比較して「親は選べない」などという不遜な感慨は浮かびすらしないことでしょう。では、なぜ「親ガチャ」などといういじけたメンタルが生じるのでしょうか。考えるに「親ガチャ」を感じるメンタルの根底には「他者との比較」があると思われます。

 さて、「比べる」と言うは易しですが、実践しようとなると、なかなかに骨が折れます。例えば、AちゃんとB君を比べようとしたら、まずは変数を排除しなくてはいけません。性別や年齢は変数ですし、発育に差がつく生まれ月も変数でしょう。さらに、体重や身長、身体能力など身体的な変数や、語彙年齢や理解力など国語力の変数、また、楽器や習字を習っているか・いないかといった文化的・精神的な豊かさも変数をなします。さらには、兄弟の有無、親の学歴や性格によって変化する気質や性格も変数でしょう。
 しかし、一般に比べるとなると、それらの変数はまったく無視して「試験の点数」や「成績」で比べます。そもそも成績とは勉強ができるか否かを正確に測定していませんし、頭の回転の良さもまったく考慮に入っていません。単に、どこの誰かが難易順に一本の線に並べた教科内容に関して、そこでの出来の良し悪しを見ているに過ぎません。
 また、あるいはイデア(現実には存在しない「理想像」)を想定して、そこへ到達できている割合を見ることもありますが、こちらにしても同じこと。さまざまな要因は無視して、イデアの特徴的な部分のみ取り出して、その点と我が子を比べるわけです。
 お気づきでしょう。この過程では、子どもの個性は一切検証の対象には含まれていません。誰が決めたか分からない、しかも子どもの能力すら正確に測定することができない「試験」や「成績」、あるいは有りもしないイデアとの比較で、子どもを判断することになるのです。
 複雑な要因の組み合わせである、育ったイデアの一面だけをみて、我が子のそれと比較する。「親ガチャ」と言う子も子なら、大切な我が子を他者と比較する親も親なのです。

 比べるのは人間の本性です。しかし、母性がそれに負けてはいけない。唯一無二の我が子を見て、無条件に認めてやることが大切で、もしその本能を失いかけている自分がいれば、慌てて反省するべきでしょう。
 しかし、現実には、多くの子どもたちが「勉強」(あるいは親の場合には、その経済力や学歴などの環境の良し悪し)という一本の線の上で比較され、自分の価値を決め(られ)て生きいくわけです。そうして社会に出て、どうやら世の中は「勉強」だけではない、それ以外の価値が大切であるということにようやく気づくのです。

 一本の線上に整列させられて、評価され、比べられ続けた子どもたちがどうなるか。今、目の前にある今の子どもたちの姿がそれなのでしょう。つまり、問いに間違えると「自分はダメだとの評価につながる」と恐れ、目立たぬように黙っている。質問されれば、答えるが、そうでなければ身を潜める。主体性とは程遠い子どもたちの人格が、形作られる結果と相成るわけです。


主体性を育てる

パルキッズたちの英検筆記問題対策 さて、ここまで、主体性は一部の人しか持ち合わせておらず、日本という国自体が、主体性が育ちにくい社会構造を持っていると述べてきました。また、多くの人たちが仲良く暮らしている中、主体性を持った人たちはズンズンと我が道を切り開いていくとも述べました。このように書くと、主体性を持っている人たちはみんなと “仲良くできない” ような印象を受けるかもしれません。果たして、そうなのでしょうか。主体性と協調性は、同居できない概念なのでしょうか。少し整理してみましょう。
 まず、みんなで仲良くするのは、当たり前に大切なことです。同時に、主体性を持たないとなかなか人生を切り開けないことも現実です。結論から言えば、この両者、協調性と主体性は同居できるのです。むしろ、主体性に含まれる「自分で考え・判断し行動しようとする」精神の動機となるのは、「自分だけ良ければいい」という自己中心な考え方ではなく、世のため人のため「自分がなんとかしなくてはいけない」という一種の社会に対する責任感のようなものです。つまり、主体性の根っこには「社会あっての自分」という、そもそも他己と自己の一体化がある。したがって、人と調和しながら主体性を発揮するのは、極めて自然なことなのです。
 おそらく育児で目指すべきは、そんな子に我が子を育てることでしょう。
 
 それでは、以下、どのようにして主体性を育てるのかを見ていくことにしましょう。


自分で判断する子に

エッセイの書き方 主体性の真髄は「自分で判断すること」です。それも、人に言われてそうするのではなく、自分の意思がその主体にあることが重要。人に言われる前にということは、当然、自発性の精神です。

 じはつ‐せい【自発性】 : 他からの影響・強制などではなく、
自己の内部の原因によって行われること。「―を損なう」 …デジタル大辞泉

 そして、その判断自体を自らの力で黙々と淡々と行う精神、つまり自主性も関わってきます。

 じしゅ‐せい 【自主性】〔名〕 : 他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることの
できる性質。 …日本国語大辞典

 さて、道徳の時間に、社会生活における善悪やあるべき姿などを、さまざまなシーンを通して考えさせられた記憶があります。と、ここまで書いて10年ほど前に話題となった「Gregory’s iPhone Contract」を思い出しました。これは、13歳の少年へのクリスマスプレゼントとしてiPhoneを贈る際に、母親が提示した使用契約書で、「18の約束」からなっています。当時、一種の美談として取り上げられていました。
 スマートフォンは色々なことに使えます。インターネットに繋がっていてブラウザもあるので、ありとあらゆるものをブラウズすることができます。それに加えて、アプリという便利機能やエンタメ機能も無限にあります。そこで、ゲームやスマホ依存にならないように、あるいはトラブルに巻き込まれないように、という親心から、件の契約書が生まれたわけです。
 規則というのは「あれダメ、これダメ、こうしろ、ああしろ」のリストです。上の契約書は、18の約束リストからなっています。もちろん、この子はそれを守ったことでしょう。しかし、規則は、その性質として無限に増えていきます。なぜなら、規則に明記されてはいないが、問題となる行動を選択する人が必ずいるからです。すると、それを制限するために、新たな規則を設けることになります。
 例えば、件の契約書では「食事中の使用制限」に関しては触れていません。おそらく、食事中にスマホをいじらないことなどは、言うまでも無いことなので提示されていないのかもしれませんが、契約の当事者からすれば、「え?この18個だけじゃないの?」ともなりかねません。
 私は当時、この契約書やそれを美談として報道する姿勢を見て、「へぇ、世の中こんな感じなんだ」と思ったものです。というのも、我が家ではすでに、倅たちが中学に入ると同時にスマホを与えていましたし、使用に関しては特に制約も設けていませんでした。「それはすでにあなたの物なので、ご自由にお使いください」という姿勢です。もちろん、料金を払うのは親ですので、子どもが何に使っているかは分かります。しかし、変な請求が来たことはありませんし、それで勉強が疎かになることもありませんでしたし、年柄年中スマホを眺めて親をイラつかせることもありませんでした。
 基本的に我が家では「親(他人)が嫌がること、あるいは親(他人)に迷惑がかかるような面倒は起こさない」ことが、我が家の子として生きる道でしたので、その制約の上で、彼らは自分で判断すれば良かったわけです。先述のスマホのルールに関しては、そもそも、最初から18個の規則を覚えることも大変なのに加えて、何事かあれば、規則は無限に増えるかもしれません。それらを覚えるとなると、効率が悪いことは言うまでもありません。作る方も大変でしょう。それよりもなによりも、子どもたちが自分で考えて判断するよう育てておきさえすれば、規則など不要なのです。
 これは、スマホに限ったことではありません。お金の貸し借り、悪友との悪戯、いじめの問題など、規則を作り始めたらキリがありません。「やらないことリスト」を作るのではなく、子どもたちが生まれながらに持っている倫理観の芽を大きく育ててやれば、大抵のことは自分で判断ができるようになります。そして、そんな子たちは、常に自分で、物事の善悪や行動すべきか否かを判断し、自分が判断に迷うようなことは、自然と親にアドバイスを求めるようになるのです。


どうやって主体性は育つのか?

Ethos, Pathos, Logosの活用 それでは、どのようにして、自分で考えて自分で判断して、接極的に行動する主体性を持った子を育てることができるのでしょうか。それには、主体性を持っている子どもたちの様子を眺めてみることが一番でしょう。
 幸い私は、大学に戻って色々な若者に出会う機会に恵まれ、また、弊社のインターンとして毎年20名程度の大学生を受け入れていることから、若者たちの思考や行動パターンに触れる機会にはこと欠きません。そんな彼らの中で、主体性のある子たちの特徴を挙げてみることにします。
 まず、何といっても「物怖じしない」ことが挙げられます。大抵の学生たちは、大人を前にするとおとなしく、形式的になってしまい、会話が弾むことがありません。また、学生の方から質問したり、話題を振ったりすることは滅多にありません。しかし、主体性のある学生はそうではなく、社会人同士の談話のように、雑談や、世間話ができます。また、そのような学生たちは質問をすると、よく考えた上で答えを出します。その際に、答えが正しいか間違っているかは、彼らにとってはあまり問題ではないようで、それよりも、お題について考えることを楽しんでいるようにも見えます。
 大人と物怖じせずに話ができ、こちらの話にあまり思考せず同調し、また反射的に答えを出すお調子者もいますが、そんな彼らとはひと味違うのが、主体性のある学生たちの「物怖じしなさ」でしょう。
 次に彼らの特徴として挙げられるのは、周りを気にせず「自分で判断する」点でしょう。大抵の学生たちは、隣の様子を見ています。我が社はイベント好きな会社で、しばしば皆で集まって何か取り組みをします。冬のスキーや春の釣り、バーベキューなどもそのうちのひとつです。新入生は大抵秋口から、各種イベントに参加する機会を与えられます。なかなか、全員、と言うわけにもいかないので、会社に対する貢献度が高い学生、あるいは将来性のある学生から声をかけています。すると、声をかけられてもなかなか反応しない学生がいます。「他に誰か参加するのかな?」と様子を見ているのです。
 他方、主体性のある学生は違います。誘いをかけると「楽しそう」「勉強になりそう」と判断して、スケジュール帳を見ます。そして、空いていれば「行きます」と即決。空いていなくても「調整させてください」と答える。もちろん、我々が企画するイベントですから、楽しいのはもちろんのこと、人生の勉強になることも必定。そこをさっと見抜いて、参加を申し込む。隣の様子を見ることなく、主語は常に「私」であることが、主体性のある学生の反応です。

 そして、最後ですが、主体性のある学生はどこか自信に満ちて堂々としている。なにやら風格があるのです。おそらく、小さい頃から、さまざまなことを経験し、失敗し、成功し、技術を身につけ、知識を身につけてきたのでしょうね。そのような成功体験から「自分はできる」という自信を持っているのではないでしょうか。
 そのような自信に満ちた学生の特徴は、新しいこと積極的に取り組むことです。周囲の子が「新しいこと」に対して、やったことがないから、できないと思う、今回はやめておく、などさまざまな理由をつけは「様子見」を決め込むのに対し、主体性のある子たちは常に一歩踏み出す姿勢があります。もはや、前のめりと言っても過言ではありません。それくらい、前向きなのです。
 当然、最初からうまくいかないことも織り込み済みです。ひょっとすると、失敗するかもしれないこともわかっています。その上で、それらを乗り越えた先に技術や知識の習得があることを、彼らは知っているのです。つまり、一歩踏み出すことで、自分がバージョンアップすることを彼らは知っているのです。こうして、経験豊かな子とそうでない子、知識の豊富な子とそうでない子、やる子とやらない子、できる子とできない子の差は、どんどん広がっていくのでしょう。

 主体性のある子は「物怖じせず」「自分で判断して」「積極的に一歩踏み出す」こんな傾向を持っているようです。こんな子たちと一緒に過ごす時間を持っている私は、なんと幸せ者なんでしょう。


継続させることと比べないこと

エッセイの種類ごとの書き方 さて、それでは、そのような子どもにはどうやって育つのか、最後に、その辺を見ていくことにしましょう。
 上で述べたような主体性は、子どもが勝手に身につけるものではありません。親が細心の注意を払いながら、日々の生活を送ることで、ようやく子どもたちが主体性を身につけることに至ります。ここでは、親の取るべき姿勢を2つ挙げておくことにします。
 ひとつには、とにかく与えることと継続させること。そして、比べないこと。これらはすでに『パルキッズ通信2023年11月号』で書いているので、詳しくはそちらをご覧いただくとして、今回はこの2つを「主体性」の角度から観察してみましょう。

 まず、「とにかく与えて、継続させる」から見て参りましょう。
 天才でない限り、初めてやってみてうまくいく、なんてことはありません。普通は、失敗して、悔しい思いをして、それでも続けることで、ひとつずつハードルをクリアし、結果としてひとつの技術なり知識なりを身につけます。この過程がとても大切です。
 まずは、さまざまな体験を親がさせないことには何も始まりません。スキーでもピアノでも、「やる」という雰囲気(「空気」ですね)を作り上げ、注意深く実践させます。うまくいかないとつまらないので、根気が続きません。従って、子どもには多くを求めずに少しずつ、嫌がらない範囲で与えていきます。そして、その経験を継続させることが大切です。
 小説や論文などのエッセイを書くときの注意点として、ひとつのパラグラフの存在意義は「次のパラグラフを読ませること」の一言に尽きます。すべての技術も同じです。今、この練習に取り組ませる目的は、次の練習に意欲的に取り組ませること、に尽きるのです。そうして、練習や学習が継続することで、知らず知らずのうちに、子どもたちは技術や知識を身につけていきます。
 この点は「地頭力講座」に詳しいのですが、ひとつコツを伝えるとすれば「お金をケチらないこと」でしょう。本当に何かを身につけさせたいと思ったら、優秀なインストラクターを個別でつける。これが、子どもが嫌がらずに、継続させることができる最善の方法であることが多いのです。

 ちなみに、楽しませながら取り組ませる、子どもを煽てながら取り組ませる、という考え方もあるようですが、これはあべこべです。身につける過程では、楽しい必要はありません。そうではなく、少しずつ技術を身につけることで、その技術を楽しめるようになるのです。だから、次のレベルに進みたいと感じるようになり、練習が継続することに繋がります。
 楽しいからできるようになるのではなく、できるから楽しい。幾何学の問題も、スキーも、できるから楽しい。問題を解くことが楽しい。自分の能力を試すことが楽しい。ひとつずつ課題をクリアすることが楽しい。そして…、未知の課題を解くことが楽しくなる頃には、主体的になっているわけです。

 さて、次の「比べないこと」ですが、これは、上ですでに述べていますね。また『パルキッズ通信2023年11月号』でも詳しく述べているのでそちらをご参照ください。他の子と比べない、イデアと比べない。成績だけで子どもを見ない。とあることの出来・不出来で子どもを見ないのです。我が子を「完璧な存在」として、人と比べることなく受け入れる。これが大切です。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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