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2024年5月号特集

Vol.314 | 独自の価値観を持ったもの勝ち

“多様性” の時代の地に足のついた子育て法

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2405/
船津洋『独自の価値観を持ったもの勝ち』(株式会社 児童英語研究所、2024年)


常識がわからなくなった日本人

常識がわからなくなった日本人 幼稚園から環境が変わって小学1年生になると必ず問題になるのが、学校に行くのを嫌がる子の存在です。パターンとしては、親は学校に行くのを嫌がる我が子に対して、どのような態度で接して良いのかわからず、専門家に意見を聞く。すると専門家は、厳しいことを言わず、たとえば「子どもの気持ちに寄り添って」「焦らず時間をかけて」「できることから少しずつ」など、穏やかな解決法を提示するでしょう。それで問題が解決するなら、大変結構なことだと思います。しかし、学校に行きたがらない子は、環境に慣れていない小1ばかりではありません。当面は問題を解決したように見えても、人間関係がうまくいかない子たちは、年齢に関係なく学校を嫌がるようになり、次第に不登校になり、引きこもっていきます。結果として、社会性が未熟なまま成長します。もちろん、そのような受け入れが必要な子もいますが、なぜそのような「弱い」子が育つのでしょう。
 最近では、義務教育の現場ばかりでなく、大学でも様々な問題が起きているようです。私自身、大学に戻って若者と一緒に過ごす中で、「へぇ」と思うことがいくつもあります。例えば、授業中の内職。授業中に内職をすることが、そもそも良いわけはありません。しかし、いわゆる “楽単” と呼ばれる比較的楽な授業の時間中や、課題が追いついていない他の授業がある場合、内職する心理も、まぁ理解できないでもない。若いから時間のやりくりが拙いのは、ある程度仕方がない。しかし、問題は内職の仕方です。後ろの方の目立たない席でこっそりとやるならまだわかります。ところが、堂々と最前列で、事によっては教授の眼の前で内職している学生もいます。失礼千万。そして、当然のことながら、そんな学生は講師によって「何やっているんだ」「私の授業より面白い本のようだがタイトルは何だ?」あるいは「目障りだから出ていきなさい」など注意されます。それで反省すればまだしも、学事に文句を言う学生がいるそうです。
 同様に、居眠りする学生もいる。もっとも、教えることに然程熱心でない教授も、絶望的につまらない授業もあるでしょう。特にぽかぽか陽気の昼下がり、窓際の席にでも陣取ってしまえば、前日の夜ふかし夜遊び、あるいはバイトの疲れから眠くなるのも仕方がないでしょう。しかし、問題は、内職同様です。後ろの方で目立たぬようにウトウトするならまだしも、前の方の席で「本格的に寝ます」と宣言するかのように机に突っ伏している学生もいるわけです。何を考えているのか。もとい、何も考えていないのでしょうし、何も感じないのでしょう。そして、「大胆だなぁ」と思いながら、教授の様子をうかがうと、やはり終いには耐えかねて学生に退室を促す。当然です。すると、これまた学事に駆け込む、なんてことがあるようです。一体大学をなんと思っているのやら。義務教育じゃないんですから、しっかりしてもらわないと困ります。
 ところが、最近では学校ばかりでなく、職場でも似たような問題があるようです。就活も自身の考えでなく、親の意向に左右されながらなんとなく進み、なんとなく内定をもらい、なんとなく出社してみる。すると、学校とは違い、朝から晩まで言われたことをしなくてはいけない。要領よくこなせなければ、叱られたりする。叱られることに耐性のない若者は、それだけで自己否定されたと感じ、会社に行きたくなくなる。そして、母親が会社に怒鳴り込んできたりするようです。また、面と向かって「辞表」を叩きつけるのならまだしも、LINEで「辞めます」と送ったりする始末だそうですね。退職代行サービスなどという理解に窮するビジネスまで登場するに至っては、この社会はもはや末期的に狂っているのかもしれません。

 どこか頼りない若者の姿が、最近目立つようになりました。その背景には一体何があるのでしょうか。結論から言えば、価値観の喪失とあいまった集団心理や、その延長線上に他責思考があると考えられます。簡単に言えば、みんなと一緒が良い、程々で良い、そして、人は自由なはずであり、自分も自分なりにちゃんとやっているのだから、文句を言われる筋合いはない、といった思考回路となります。そこで、今回は、そんな子ども、あるいは大人に育たないためにはどのようなことが必要なのか、宙ぶらりんで人任せではなく、たくましく積極的に自分で人生を切り開いていくような子どもに育てるためには何が必要なのか、そのあたりを考えていくことにします。


最低限のルールさえ「自由」や「個性」で破られてしまう

最低限のルールさえ「自由」とか「個性」で破られてしまう どんな子も最初は家庭で育ちますが、年齢とともに集団生活の場の比重が高くなっていきます。集団生活は、個々が思い思いに振る舞っていては成立しません。その場その場にルールがあり、そこに属する個人は最低限のルールを守るように要求されます。これは、当然のことです。理由もなく級友にちょっかいを出したり、それこそ弱い者をいじめたりするのは論外です。しかも事の真偽は別として、いじめている本人もいじめている自覚がなく「ふざけているだけ」とか「自分ではなく別の子がやった」などと言い訳にもならない言い訳をしている点がニュースで取り上げられたりするのを見ると、集団心理や他責思考に疑問を持たない子どもたちがいるんだな、と感じます。
 子が子なら親も親で、「うちの子は悪くない」「いじめられる子の家庭にも問題がある」などと、まるで他人事のように宣うのを見れば、呆れて空いた口も塞がらないと感じるのは私だけではないでしょう。そんな親は子を守るのみでなく、自らの行動も同様に弁解するのかもしれません。違法行為を注意されれば、「私だけではない」「なぜ他の人を捕まえないのか」などと、自分のことはまるで棚に上げて、警官に食って掛かるような輩も見かけます。そんな大人が子育てをすれば、その子どももそんな大人になるのは仕方がないのではないでしょうか。

 明らかに犯罪であることは別としても、世の中の様々なルールが身勝手に破られることはあります。学校のルールに従えない我が子が注意されれば、やれ「子どもにも自由はある」とか「子どもの権利を尊重せよ」とか「個性を認めよ」などと教育現場に食って掛かる親もいるとか。子どもにも権利はありますが、それは生存の権利など最低限のことです。権利には義務がつきまといますが、なんの義務もない子どもにある権利は、限られていて当然でしょう。自由に関しても同じです。振る舞いには結果としての責任が生じます。自由に振る舞うのは勝手ですが、その振る舞いに関する結果に対しても、責任を取らなくてはいけません。仮に学校に行かない自由があるとすれば、その結果として得られたはずの知性が得られなかったり、身についたはずの社会性が身につかなかったりする結果も受け入れなくてはならないのです。しかし、子どもにそんな責任を取らせるのは残酷です。そこで、親や社会は最低限のルールを設けて、子どもにはそれを守らせる義務があるのです。
 しかし、最近では「多様性」や「自由」「個性」などの言葉ばかり注目されていて、なんとなく醸された空気に、親も社会も翻弄されているように思われてなりません。ここには、ルールや価値観を押し付けて、面倒な目に合うくらいなら「はいはい」とその場を凌いでおくほうが楽、という社会の気分もみられます。こうなると、これは責任放棄以外の何物でもありません。子どもは社会の宝です。そして、その子をしっかりと次の社会を担っていくように育てるのは親や社会の問題なのです。しかし、そのような気迫を持った親は少なく、結果として、子どもの言いなりになり、上で述べたような社会性の欠如、気ままに振る舞う学生や、嫌なことはすぐに投げ出す社会人へとつながっているのでしょう。


子どもは見ている。ルールを破らなければ何をするのも自由という発想

子どもは見ている。ルールを破らなければ何をするのも自由という発想 大人が、周囲を気にせず自由気ままに振る舞う姿は昔から見られます。「旅の恥はかき捨て」などと言いつつ、人目をはばからず大声で話す集団、ゴミのポイ捨て、交通機関での迷惑行為などなど、皆様も目にしたことがあるでしょう。
 このように、法律やその場その場でのルールを守らないのは論外ですが、ルールを破らなければ自由という考え方は思いのほか広く行われているようです。例えば、電車内での化粧。それを禁止するルールなどないでしょう。だから「自由」となるのでしょうね。この点に関して我が社のインターンに意見を聞いて回ったところ、「そんなことはしない」という意見が大半でした。するとしても「リップまで」が常識的なようで、パタパタすることなどは絶対にないようです。それを聞いて一安心したものの、それでは、人目をはばからずそのような行為、つまり違法やルール違反ではないが、周囲に良い心象を与えない行為を平然とする心理はどこから生じるのでしょうか。
 おそらく、そこには厳然とした価値観の不在があると思われます。価値観とは「物事を評価判断する際の基準」です。ついでに価値とは「個人や社会に承認されるべき性質」だそうです。つまり、「社会に認められるような性質に関する自分なりの基準」とでも言えましょう。すると、規則にないからと言って、人を不快にさせるような行動をとることは価値観という概念から逸脱していると考えられます。「人もやっているんだから自分も」または「誰にも迷惑をかけていないでしょう」という考え方は、法律や規則には違反していないかもしれませんが、マナーに違反しているということに思いを馳せられないことを表しているのです。
 ここで言う価値観とは絶対的なものではなく、人それぞれ異なっていて良いものです。社内でも、学内でも、異なった価値観の人たちと付き合っていくのが社会です。価値観が近いと思われる夫婦間や家族間でも、価値観の完全な一致を見ることはありえないでしょう。つまり、価値観が異なるのはまったく問題ではなく自然なことです。重要なのは、相手の価値観を尊重しながら、つまり多様性を認めながら、自分の価値観で物事を判断することです。しかし、そのような価値観、確固たる判断基準を持たずに、その場その場で自由に振る舞う人が、結婚し子を設けて、価値観不在のまま育児をすれば、子どもも自由奔放に育つのは仕方がないと考えざるを得ません。

 昔の人は威厳があった、などと言おうものなら「やれ古臭い」とか「権威主義だ」とか「いま社会に合わない」等と言われますが、本当にそうなのでしょうか。「しつけ」という言葉は「身を美しく」と書きます。言葉の意味は「行儀や作法を教えること」です。規則さえ破らなければ何をやっても構わないとなると、マナー、つまり人を不快にさせない、それどころか「あの人は育ちが良さそうだ」という行儀や作法などには価値を置かないことになります。つまり、人目を気にしない。人目を気にしなくなれば、自分さえ良ければ良いということになり、これまた、違法すれすれの行為を堂々とする人も出てくるでしょう。
 もちろん、開き直ったそんな生き方もあるとは思いますが、できれば、人を不快にさせない、人の気持ちを慮って、思考行動するような子育てができれば、それに越したことはないでしょう。


価値観がないから相対的に判断する

価値観がないから相対的に判断する さて、行儀作法やマナーを身につけて、人に不快感を与えずスマートな立ち居振る舞いができるような人に育てるためには、子どもに歴とした価値観を身につけさせる必要があります。そこには「父性」が必要となります。「母性」と対比しながら見ていくことにしましょう。
 例えば、靴を脱いだら揃えましょうと習慣づけさせるとします。大変結構なことです。食事中には肘をつかないことや、箸の上げ下げなど身ぎれいに躾けるとします。これも大変結構なことです。また、人前で大声を出さないように注意することも結構なことです。最近、都市生活者の中では挨拶が交わされなくなっていますが、集合住宅のエレベータに乗り合わせたら挨拶をする、知人に限らず、挨拶をされたら挨拶を返すなどのことも行われるべきでしょう。また、約束を守る、時間を守るなども基本中の基本です。
 さて、これらの躾ですが、項目がどんどん増えていきませんか?やれ、服を脱いだら脱ぎっぱなしにしない、開けたら閉める、使ったらもとに戻す、点けたら消す、本を床に置かない、話を聞くときは相手の方を向く、借りたものは傷つけずに返す、無断拝借しない、使った椅子は机の下に戻す、言ったことはやる、嘘はつかない、見て見ぬふりをしない…などなど無限とは言いませんが、言い出したらきりがないわけです。これを仮に母性の躾とします(この行に関しては『父性の復権』(林道義著 中公新書)を参考にしているので、詳しくはそちらを参照のこと)。それに対して、父性の躾は原理原則を身につけさせるタイプとなります。美しい行儀作法に関わる原理原則を身につければ、新たな事象に直面しても、それに照らして取るべき態度を決めることができます。これは、ひとつの価値観です。つまり、規則の集合でなく、自分の行いに関する原理原則を身につける。そうすれば、立ち居振る舞いは当然のこと、日常生活における様々な選択にも迷うことは少なくなるでしょう。
 
 今日の社会は、あまりにも選択肢が多すぎます。そんな中、選んでも選びきれず、決断したところでその決断も揺れに揺れるなどということが日常的に起こっているのではないでしょうか。例えば、英語教育ひとつとっても、数多くの選択肢があります。その中から仮に「パルキッズ」を選んだとしましょう。「パルキッズ」を選ぶだけの価値観を持っているなら、それはそれで素晴らしいことなのですが、中には「人が勧めたから」とか「口コミが良いから」など、周囲の判断から「なんとなく良さそう」と決める方もいるでしょう。できれば、人の意見でなく、内容を吟味して選んでいただくのが最善ですが、次善の選択として、人の意見を参考にすることも、決して悪いことではありません。しかし、ここからが問題。学習をスタートしてみたものの、我が子の反応に右往左往して「やっぱり、あちらが良いかしら」「ああ、こうしておけばよかった」などなど、決断したあとに、心が揺れる方も少なくないようです。
 ここには、厳然とした価値観は見られません。「やる」と決めたらやればよろしい。子どもの様子など伺う必要はない。なぜなら、子どもたちには価値の判断ができないのですから。人は動くものを注視するので、子どもにアニメを見せればじっと見ています。それと「英語力」はまったく別物ですが、「やはり楽しいほうが良かったのかしら」と心が揺れてしまうのです。
 これは、英語に限ったことでなく、育児全般、それどころか生活全般にも言えます。現代の社会、特に都市部には無限のサービスがあります。その中で実践できるものは、物理的に限られています。そこで、選択が必要となるのですが、確固たる価値観を持っていなければ、他人の行いに自らの行いを寄せるしかなく、あるいは誰が書いたかわからない口コミ群を参考にする以外ないのです。  さらに言えば、とある取り組みの成功者をイデアに据えて、そこに自らの子育てを重ねてみる。そもそも一人の成功者の背景には、無数の環境的変数があるわけです。しかし、それらを無視して、表面的な「こうしたからこうなった」を盲信して真似てみる。これではうまくいくわけがありません。そして、別のイデア探しを繰り返すことになります。
 我が子を優秀な子に育てたい、と考えない親はいないと思います。しかし、確固たる価値観を持っていなければ、あっちへフラフラ、こっちへフラフラとなり、結果として虻蜂取らずになってしまうのです。少し立ち止まって考えてみれば、子どもを優秀に育てることなど簡単なことであることに気づくはずです。あれこれ習い事をさせなくても優秀な子は育つのです。以下、見ていくことにしましょう。


主体性を持って、忖度しないことの大切さ

主体性を持って、忖度しないことの大切さ 世の中には様々な校則があるようですね。校則は生徒の生活の乱れを未然に防ぐ狙いもあるようで、尤もなものもある反面、ブラック校則と呼ばれるような根拠が定かでないものもあるようです。その中でも男子の頭髪について、ツーブロックが禁止という校則がある高校は少なくないようです。私自身、ツーブロックにしています。髪の量が重くならず、夏は涼しく快適です。むしろ清潔感があって良いと思っています。しかし、何故かツーブック禁止の高校が少なくない。根拠が不明なので見直す動きがあるようですが、とあるニュースを見て驚きました。どうやらツーブロックは就活に不利という理由で禁止にしていたようです。今どき、どんな会社がツーブロック男子生徒を忌避するのか、私にはわかりませんし、どうやらそのニュースソースによれば、企業の採用担当者でツーブロックに対するネガティブな印象を持っている方はなかったようです。
 しかし、なぜ「ツーブロックは就活に不利」などという根も葉もない(?もちろん根も葉もあるかもしれませんが)規則を制定するに至ったのでしょうか。ググってみると、どうやら「ツーブロックに対する評価が分かれるため、リクルートカットが無難」というアドバイスが見つかりました。このあたりを参考にして規則が作られたのかもしれません。それにしても、これはどういうことでしょうか。私などは、仮にツーブロックに対してネガティブな評価をするような採用担当者がいるのであれば、そんな企業は願い下げです。なぜなら、ツーブロックすらNGなどという組織に入社すれば、窮屈極まりないことは容易に想像できるからです。また、リクルートスーツ姿の大学生を見るたびに、「ご苦労さま」と思いますし、最近では女子学生もリクルート姿なのには隔世の感を抱きます。私が学生だった時代には、特に女性は就活にあたって、あるいは入社式にあたって、極めて華やかな姿で臨んでいたのを思い出します。
 時代が変わったのか、新しいトレンドに対応できない古い人事がはびこっているのか知りませんが、いずれにしても「とりあえず無難に」の事なかれ主義の延長線上に、「ひょっとすると」という忖度が働き、就活するもしないにも関わらず、一律にツーブロック禁止、となっているのであれば、これは体制側の思考停止とも言えるでしょう。なぜなら、そんなことは校則に書かずとも、就活する学生に個別にアドバイスすれば済むことですから。

 忖度は、組織の中では必要なメンタルなのか知りませんし、日本の社会においては、政治・経済活動・教育現場など問わず、様々なシーンで見受けられます。福沢諭吉は「他人の心を忖度す可(べか)らざるは固(もと)より論を俟(ま)たず」といったようです。「他人の心を推し量ることは困難で無意味であり、愚かしいことである」という意味です。他人の気持ちを推し量ること自体、決して愚かしいとは思いませんし、社会生活を円滑に進めるうえで、最低限のマナーとして必要だと思います。ただ、それが行き過ぎると、上のような愚かな現状が生じるのでしょう。

 それぞれの個人がそれぞれの価値観を持ち、個人の価値観の違いを尊重しながら我が道を行く社会もありますが、日本はどうもそんな形ではなくなりつつあります。敗戦で価値観が足元から崩れた “つけ” が孫子の代に「過剰な忖度」の形で発露しているのかもしれません。それはそうでしょう。頼るべき価値観が喪失された上で、「多様性、自由、権利」などの言葉遊びを積み重ねていく社会が、中心を失い、行く先も定かでない混沌としたものになることは、言わずとも明らかでしょう。


父性的な育児の不在

父性的な育児の不在 さて、それではしっかりとした価値観を持つには何が必要なのでしょうか。特に我が子に価値観を身につけさせるためには、どのようなことが必要なのでしょう。先出の『父性の復権』によれば、父親、あるいは母親による「父性的な育児」が必要だそうです。40年ほど前に男女雇用機会均等法が制定され、またバブル崩壊以降続く長い不況の中で、女性の社会参加は加速しています。今や働く母親の割合は75%にものぼります。これは至って健全なことです。そして同時に「育メン」という言葉に表されるように、父親の育児参加が求められる社会になっています。これも当然なことでしょう。「24時間働けますか」などという栄養ドリンクのCMも懐かしいし、今考えればバカバカしいほど浮かれていた時代がありました。近年では就労に対する意識も変化し、企業戦士よりも自分の時間を優先した働き方も好まれるようになっています。そんな中、男性が育児参加することは当然のことでしょう。
 かく言う私自身、子どもといる時間を確保するために、そして自由な働き方を求めて三十代半ばで先代から会社を譲り受け代表になりました。結果として、子どもといる時間が増えたと同時に、逆に常に私が家にいるものなので、子どもたち、あるいは彼らの友人たちからは「この親父は何をする人ぞ」と思われたりもしたようです。

 ところで、問題は父親による育児の内容です。同書によれば、最近の父親の育児参加は「父親による母性育児」であって、「父性の育児」ではないと厳しい指摘がなされています。確かに、言われてみればそうです。我が育児が「父性的」であったか「母性的」であったか顧みるに、知らずに父性的育児をしていたようだと、胸をなでおろす次第。
 誤解があるといけないので説明しておきますが、ここで言う父性とは父親を指しません。母性も母親を指したものではありません。母性的育児とは子どもの面倒を見る育児です。食事を与え、清潔にし、包み込むように優しく接する育児です。それに対して父性的育児とは、母親から子どもを切り離し、社会の一員となるべき準備をさせる媒介となるような育児のことです。もちろん、母親の負担を軽減するために、男性による母性的な育児、いわゆる育メンがしているような育児もありです。しかし、男性による母性的な育児もさることながら「父性的な育児」が現在の日本において欠如しているというのです。もちろん、父性 “的” な育児ですので、これは父親によっても良いですし、あるいは母親が行っても良いわけです。重要なのは、父性的な育児を家庭において復活させることなのです。
 こう言うと、父性的な育児はかつての日本には存在したが、今は喪失されているという印象を与えるかもしれません。確かに、かつては行われていた父性的育児を行う男性が減ったのは事実でしょう。しかし同書によれば、そもそも日本では、父親による父性的な育児はあまり行われなかったのではないかと指摘されています。
 近世以降、身分制度が確定すると、武家であれば家督を守るために、武家なりの規律を守る必要があり、それは父から子、あるいは母から子へと伝わっていたことでしょう。同時に自分の身分を守るため、あるいはその身分の証として、身分に見合った立ち居振る舞いが要求されます。そのような振る舞い方、マナーは前提として「するべきこと・しなくてはいけないこと」の表出として成立しています。そして、それらは上で述べたような規則の羅列ではなく原理・原則として子どもに伝えられていたのでしょう。それにより、不測の出来事にもうろたえることなく、淡々と対応できていたものと推測します。そのような、一部の武家の限定された時代には、父性的育児も見られたのでしょうが、それ以外は基本的に母性的育児が中心だったようです。したがって、父性的育児は家を守る必要がある、あいるは社会に守られるのではなく、社会の構成員として立派に振る舞う過程において必要とされていたと言えるでしょう。これは、今の日本の社会で必要とされていることではないでしょうか。
 そして、今日の育児には、不測の出来事に対して、子どもたちが身ぎれいに対応できるような原理・原則をもった価値観を子どもに持たせるような、父性的な育児が欠如している、という現実が見えてきます。そして価値観を持たずに成長していく中で、判断を人に委ね、周囲を眺めながら、その中で競争するという、言い換えれば「口コミ」を当てにして「偏差値」を少しでも上げることが、生きる指針となっている親が少なからずいる、今の日本の社会が形成されてきたものだと考えるのです。


父か母か、少なくともいずれかが権威となるべし

父か母か、少なくともいずれかが権威となるべし 母性的な積み上げ式(つまり躾の項目を足していくような)育児から、親の価値観を事あるごとに見せるよう我が子に接することによって、原理・原則を子ども自らが獲得していく、つまり自ら独自の価値観を構築していかせるような父性的育児をすることが必要であると述べました。それにより、子どもたちは不測の事態、未知の出来事に出会ったときに、周囲の情報ソースに解決を求めるのではなく、彼ら自身の価値観でもって事態を乗り越えていくような主体性をもった人格を身につけることができます。
 もちろん、社会の便利なツール、あらゆるサービスの口コミやレーティング、あるいは一部の成功者による1:Nの成功譚、はたまたいわゆる専門家によるアドバイスなども参考にするのは結構なことです。ただし、玉石混交の情報社会の中で、それらを取捨選択し、あるいはそれらの情報の本質をえぐり出し、自分なりの最適解を見つけ出すことは並大抵のことではありません。そこには、自分なりの価値観という確固たる信念が必要となります。

 最後になりますが、それでは、そういった価値観をどのように子どもに身につけさせるのかを見てみましょう。
 子どもに、親の価値観を見せないことには、何も始まらないことは自明でしょう。しかも、その価値観を「権威」をもって提示し続けることが大切になります。冒頭に、子どもの権利や自由など、大人のそれに比べれば限られており、ましてや価値観を持たないがゆえに確固たる判断ができない子どもに、権利や自由などを全面的に委ねること自体に問題があると述べました。堅苦しい言い回しですが、噛み砕けば「友達のような仲良し親子関係」ではなく「擁護者・指導者と被擁護者・被指導者としての親子関係」を築きあげることが大切です。そして、これは、「今すぐに」着手しなければなりません。  よくあることですが、2歳までは「まだ言ってもわからないから」と子どもの気ままにさせておき、3歳で生意気を言っても「可愛い」と受け入れ、4、5歳になって理屈をひねり出したら「それもそうね」と誤魔化され、6歳になる頃にはすっかり「自分のわがままは誤魔化せば受け入れられる」習慣を身につけさせてしまう。子どもは、大人や社会を「扱い易し」と軽く見るようになるでしょう。そのように育てた上で、言うことを聞かなくなった我が子と衝突してもつまらないので「物わかりの良い親」となり、子どもが大きくなっても「仲の良い友達」だ、などと関係に満足し、中高生になって手に負えなくなって「自分の勝手でしょう」と放り出し、二十歳をすぎれば「あなたの人生よ」と言う。これでは「権威」も何もあったものではなく、子どもには「わがままは通る」「おらが大将」な人格が形成されます。仮にそれがその子の価値観となれば、社会でうまくいかないことは目に見えているでしょう。
 何事も「鉄は熱いうちに打て」です。若いうち、聞き分けが良いうちに、しっかりと育てることが大切です。放置する時間が長くなれば長くなるほど、軌道修正には時間と労力がかかります。「思い立ったが吉日」で、本日から、毅然とした態度で、親が「権威」をもって「価値観」を示す育児をしましょう。そんな育児は、パパにもママにも可能です。常に優しくありながらも、必要なときには毅然とした態度で「ならぬものはなりません」という態度を示しましょう。世の中の育児書になんと書いてあろうが、素性の知れぬ専門家がなんと言おうが「我が家はこうだ」と信念を持って育児をすることが大切です。
 繰り返しますが、その信念の根拠となる価値観は、人それぞれで良いのです。重要なのは、親の価値観を見せることです。もちろん夫婦間の価値観に完全なる一致を見るのが最善ですが、しかし、既述のように事案によっては完全に一致しないこともある。それで良いのです。問題は、価値観がないこと、あるいは親が価値観を持っていても、それを厳として子どもに見せないことです。価値観に正誤はありません。自信を持って、自らの価値観を子どもにさらけ出し、子どもが親の判断の原理原則を推測できるような環境を与えましょう。そのように育てられた子は、自らもしっかりした価値観を持てるようになるでしょう。もちろん、両親間、あるいは親子間の価値観が一致しなくても良いのです。こうして、子どもたちは周囲に流されながら、隣をチラチラ見ながら生きていく人生ではなく、自らの判断で自分の人生を切り開いていけるようになるのです。

 さて、今回は躾や子どもの生きる力に関して、「価値観」という視点から書いてみました。明示はしませんでしたが、上に紹介した『父性の復権』以外にも『ほめると子どもはダメになる』(榎本博明著 新潮新書)『ふにゃふにゃになった日本人』(マークス寿子著 草思社)などを参考にしています。情報が溢れる社会の中で「みんながやっていること」「口コミの良いもの」あるいは「一部の成功例」などを参考にして「やることが増えてがんじがらめになっている親御さん」たちへのひとつのメッセージになれば、と思って書きました。三十年以上に渡る育児、さらには英語教育や知育を通して様々な子どもたちを見てきた経験、加えて世代の違う最近の若者と学生の立場で席を並べている現在の感慨をもとにした、一人の老人によるアドバイスと受け止めていただければ幸いです。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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