10万組の親子が実践した幼児・小学生向け「超効率」英語学習教材のパルキッズです。


カートを見る
ログイン
パルキッズCLUB

パルキッズ通信 特集 | , , , ,

ヘッダー

2022年5月号特集

Vol.290 |「バイリンガル」対「モノリンガル」

CALPレベルの国語力の有無がキーワード

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2205/
船津洋『「バイリンガル」対「モノリンガル」』(株式会社 児童英語研究所、2022年)


断然バイリンガルの勝ち!?

断然バイリンガルの勝ち 言語能力の側面から見れば、ひとつの言語しか理解できない「モノリンガル」より「バイリンガル」の方が優れていることに異議を唱える人はいないでしょう。例えば、日本語しか聞き取ったり理解したり話したりできない人よりは、日英バイリンガルの方がより多くの情報、つまり日本語の情報だけでなく英語の情報も知覚でき、日本語のみでなく英語でも産出できるのですから、バイリンガルの方が優れていそうです。

 しかし、これは極めて表面的な見方に過ぎません。バイリンガルである以上、彼らは日本語も英語も聞き取れるし、話すこともできることには違いはありません。しかし、バイリンガルにもピンからキリまであります。バイリンガルだからといって、彼らの理解力や思考力、あるいは表現力のすべてが、モノリンガルより優れているとは限りません。
 バイリンガルの中には “優秀” であるどころか、日本語も英語も「生活言語」レベルしか身につけてない人もたくさんいるのです。「ダブルリミテッド」とか「セミリンガル」等と揶揄される彼らは、日本語と英語の両方において極基本的かつ日常的な言語使用はできます。平たく言えば、普通の高校ならなんとか普通に卒業するくらいの能力(大した言語能力は必要ない)は身につけています。ただし彼らは、日本語においても英語においても、大学で(特に専門的な学問を)勉強できるような知性に欠けているのです。

 上に「生活言語」という言葉を使いましたが、「生活言語」と対で語られる「学習言語」と併せてここで簡単に説明しておくことにしましょう。
 まず「生活言語(Basic Interpersonal Communication Skills: BICS)」とは「具象的内容且つ友人や家族との会話など日常生活の使用に耐えうる言語能力」のことで、第二言語学習者でも1、2年で習得できる言語能力のことだそうです。これに対して「学習言語(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP)」とは「抽象的内容で教科書の理解や議論に耐えうる言語能力」のこととされています。
 これだけだと何のことかよく分からないので、ざっと言い換えると英検準1級の上位とか1級以上の英語力があれば、英語を読んだり聞いたり、話したり書いたりする能力において CALP をクリアしていると考えて良いでしょう。

 さて、上で述べたように「普通に高校を卒業できる」程度の言語力が「生活言語」に含まれるとすること、つまり高校を卒業することが必ずしも「学習言語」レベルの言語の運用力を身につけることと同義ではないとすることを、訝る方もいらっしゃるかも知れません。
 しかし、日本人の高校生の国語力を考えると、なかなかに彼らが「学習言語」レベルの日本語を身につけているとは言い切れない現実があります。つまり、仮に英検のカウンターパートとして「(日本人のための)日本語検定」なるものがあるとすれば、多くの高校生は1級をクリアできないことでしょう。この点に関しては後述することにします。

 さて、バイリンガルの方がモノリンガルより優れていそうだけれども、ダブルリミテッドなどの例を見るとモノリンガルの方がバイリンガルより優れているように思えてきます。具体的にどうなのでしょうか。
 今回は、バイリンガル対モノリンガル、言語運用力に関してどっちが優秀なのか、という点について掘り下げていこうと思います。


“英語より国語” 論の愚

英語より国語論の愚 従来から、ダブルリミテッドやセミリンガルという概念を引き合いに出して、バイリンガルをおとしめる論調は少なくありません。もちろん、すでに述べているように、せっかくのバイリンガルでも、両言語とも BICS(生活言語)レベルに留まってしまい、日本語でも英語でもアカデミックな学習に耐えられない知性の持ち主もいます。
 そのような人たちが存在することが、「英語より国語だ」という論調が醸される土壌なのかも知れません。それ故に、過去にもこの手の発言をした知識人は少なくありません。名前を挙げるのは野暮なのでここでは差し控えておくことにします。

 しかしながら、もともと英語にコンプレックスのある日本人です。中には「可愛さ余って憎さ百倍」なのか、「自分と同じ日本人のくせに英語ができるなんてけしからん」という心情からか、この「英語より国語」論に共感する人も少なくないようです。
 そしてそんな方々からは、小学校での英語教育前倒し論、あるいは受験改革や教育改革などで「英語に手厚くすべきだ」という議論が登場する度に「英語より国語だ」という意見が、未だに聞かれる始末です。まるで英語が悪者、「英語なんかしているから国語がダメになるんだ」とでも言いたそうです。

 もっとも、確かに日本人の国語力は低い。しかし、それは「英語の勉強ばかりしているから」ではありません。国語力を上げたいのであれば、英語を非難する前に、国語教育をなんとかした方が良いと考えるのが健全でしょう。

 また、セミリンガル問題に関しては、日本の英語教育はセミリンガルやダブルリミテッドを産み出したりはしていません。中高の英語教育、あるいは小学校の英語教育によって、セミリンガルやダブルリミテッドになる子などいないのです。彼らは、日常会話レベルの生活言語としての英語習得を目指した教育と、それによって等閑にされた国語教育の賜物なのです。
 しかし、ですよ。そもそもセミリンガルやダブルリミテッドとて、バイリンガルであることには変わりません。生活英語なら聞いて理解し話すことができるのです。つまり言うまでもないことですが、日本の学校英語教育ではセミリンガルを育てることすら達成できていません。

 しかし、すでに述べたように一部のセミリンガルの存在があることで、国語力と英語力が天秤にかけられてしまい、そのような天秤思考に陥る人たちが往々にして「英語より国語」という結論に至るのです。
 ちなみに、そのような人の多くに共通している英語観として「発音など、どうでも良い」という点が挙げられます。要するに、セミリンガルのように発音ばかりきれいで、理解や思考に欠けるような英語力ではなく、少しくらい発音が悪くても内容が伴っている方が余程ましだという考え方です。
 もちろん、この考え方に異論はありません。

 しかし、だからといってこのような方々が「発音など、どうでも良い」の次に口にする「英語は中学からで十分」「やる気があればできるようになる」というのには納得しかねます。そもそも、このような発言をする方々は、研究者や留学経験者あるいは海外の大学で教えている…など、かなりのインテリです。彼らは優れた大学に行き、その後留学するなどの、一般人には到底真似のできない環境で英語を身につけた方々です。
 その辺を十分に差し引いてから、このような方々の意見を拝聴するように心がけたいものですね。

 さて、それでは、世に多く存在する CALP(学習言語)を備えたバイリンガルたち。つまりバイリンガルという大きなカテゴリーから、セミリンガルやダブルリミテッドを引いた上で残った、日本語や英語、あるいは日英両言語において CALP を持っているバイリンガルたちは、モノリンガルに比べて言語能力や認知能力において優れているのでしょうか。


学習言語レベルの運用力を備えたバイリンガルたちって?

学習言語レベルの運用力を備えたバイリンガルたちって? 同レベルの日本語力を身につけているバイリンガルとモノリンガルがいれば、言語能力において、バイリンガルの方がモノリンガルより優れていることは言うまでもありません。
 日本から英語圏への留学生は、日本語で CALP(学習言語)をクリアしていて、さらに英語を身につけることになります。もちろん留学生の英語の運用力、つまりリスニングやスピーキングはネイティブには敵いません。しかし、留学生は英語においては BICS(生活言語)レベルですが、日本語では CALP レベルの言語力を持っているわけです。従って、日本語の思考の助けを得ながら、現地の子たちと肩を並べて学習することができます。

 先に高校生の日本語の CALP を疑う発言をしましたが、留学するためには、少なくとも日本において英検2級など、ある程度以上の英語力を持っていることが必要となります。ある程度以上に成績優秀でないと、留学は難しいでしょう。つまり彼らには、日本語の CALP はあると考えられます。
 さらに留学生たちは、1年ほどで英検準1級の上位から英検1級程度の英語力を身につけます。つまり、日本語も英語も、学習言語レベルの運用力を身につけることとなります。

 また、大学までは国内で学び、大学あるいは大学院で留学するケースも珍しくありません。そのような人たちは、もともと日本語に秀で、加えて英語を読んで理解する能力も身につけています。そんな彼らが留学すれば、英語のリスニングもできるようになりますし、議論もできる立派なバイリンガルになります。高校での留学生とは発音が異なるのが、表面的な違いと言えば違いかも知れません。

 帰国子女はどうでしょう。多くの帰国子女は、家庭内あるいは現地の日本語学校において、手厚い国語教育を受けます(もちろんそうでないご家庭もあります)。従って、学習言語としての日本語を身につけられる子が大半です。同時に、現地で英語なり現地語で学習するわけですから、現地語も学習言語レベルをクリアすることになります。”L2 : Second Language、第二言語” としての英語のリスニングや発音も、留学生とは比べものにならないほど高い能力を有します。

 また日本人でありながら、L2 の英語教育が中心に行われているインターナショナルスクールなどで、CALP としての英語を身につける子も少なくありません。彼らは日本語の母語話者ですが、L2 である英語がドミナント(主)な言語となります。つまり、日本語は BICS で、英語は CALP に到達しているわけです。

 いずれのケースにしても、彼らは学習言語を十二分に身につけているので “立派な”(?)バイリンガルと呼べるでしょう。そんな彼らは、言語能力において、どのようにモノリンガルに優れているのでしょうか。


バイリンガルは「言語の違い、誰の話すことばか」等の言語情報に敏感

バイリンガルは「言語の違い、誰の話すことばか」等の言語情報に敏感 バイリンガルとモノリンガルの言語能力の差に関しては、様々な研究が行われています。最近では言語能力を通り越して、両者間の認知力の差の研究も行われています。例えば、バイリンガルとモノリンガルでは、情報処理の正確さやその速度に違いがあるのか、といった研究です。
 研究の種類や方法、あるいは何を対象としているのかにも因りますが、言語能力に限って言えば、バイリンガルに軍配が上がる傾向があるようです。例えば、バイリンガルは言語間の違いや、どんな人がどんなことばを話すのか、あるいは話される内容といった、言語情報に敏感な傾向があるようです。
 そのあたり、幾つか例を挙げてみていきましょう。


音素、音節、統語構造など

音素、音節、統語構造など まず言語の違いに敏感です。日本語と英語は、言語間の距離が最も遠いと言われていて、音素も違うし、音節構造も違います。また、統語構造も異なります。そんな中、バイリンガルたちは、日本語と英語の両方の音素、音節構造、統語構造(音素に関しては日本語に存在しない /f, v, θ ,ð/ など、音節は日本語の開音節性に対する英語の閉音節性、統語構造は日本語のSOVに対する英語のSVOなど)を身につけます。また、当然のことながら、バイリンガルはそれぞれの言語を訳すことなく直観的に理解できます。

 さて、それらの知識、あるいは能力のないモノリンガルたちが外国語と接すると、どんなことが起きるのでしょうか。たとえば、次のようなことが起こります。
 [meli kilikimaka]
 仮名で書けば「メリ キリキマカ」です。これは、とある英語をハワイ語の発音に直した音です。言い換えれば、とある英語の表現を耳にしたハワイ人(といっても純粋なモノリンガルハワイアンはいませんが…)は、その英語の表現を上記の様に聞き取って、上記のように発音することとなります。
 ハワイ語は日本語と同様に5つの母音がありますが、子音が極端に少なく共鳴音の[m, n, w, l] や声門音の [h, ʔ] 以外の子音には [p k]しかありません。つまり、[t, d, s, z, b, y] (タ行、ダ行、サ行、ザ行、バ行、ヤ行)などは存在しないのです。さらに、ハワイ語は日本語と同様に開音節言語(子音のみでは発音できない)なので、英語のように子音連続や子音で終わることができません。
 そんなハワイ語話者には、12月25日の祝日に際して英語話者たちが口にする ‘Merry Christmas「メリークリスマス」’ は [meli kilikimaka] としか聞こえないのです。そしてそのように聞こえてしまうのですから当然、口にしても「メリ キリキマカ」となるわけです。
 変な話だとお思いかも知れませんが、日本人が ‘that’ を/zatto/(ザット), ‘vest’ を/besuto/(ベスト)と聞き取ったり口にしたりするのと同じことです。

 このように、モノリンガルたちが自分の母語のインベントリー(目録)の範囲でしか外国語を聞き取ったり口にしたりできないのに対し、日英バイリンガルたちは日本語に加えて英語の音素や音節などの知識があるので、英語の音を聞き取って再現することができるのです。完全にバイリンガルの勝ちでしょう。


コードスイッチング

コードスイッチング バイリンガルの子どもたちは、誰がどんな言葉を話すのかに敏感に反応します。パルキッズ・ユーザーの皆様なら体験されていると思いますが、主人公「としお」の話すことばを「英語である」と理解する前から、つまり「英語」という概念を身につける前から、子どもたちは「としおのことば」あるいは「ママのことば」と言ったりします。英語と日本語が、別のことばであることを知っているのです。
 また、バイリンガルの子どもたちは、英語を話す外国人に対してはもちろんのこと、英語圏以外の外国人に対しても距離感が薄れ親近感があります。彼らは、違うことばを話す人がいるのは「当然である」と知っているのです。このような子どもたちは、外国人に対しても物怖じすることなく日本語で話しかけたり、頑張って分かる範囲の英語で話しかけたりします。

 文化的な側面では、例えば、靴を脱がずに座敷に上がろうとするなどの外国人の振る舞いに対して寛容な傾向が見られるようです。さらに面白いことに、外国人に対して並行的なものの見方をするので、多くの日本人に見られるような「英語を話すのは格好良い」といった感慨を持たない傾向にもあるようです。
 グローバル化を叫びながら、島国根性宜しく遅々として意識改革ができないモノリンガルに対して、バイリンガルは一足先に国際社会に通用する精神を育んでいるとも言えるでしょう。

 また、当然のことながら、相手をみて使用する言語を変える「コードスイッチング」も行われます。そんな中で、日本人に対して日本語で話しながら、英単語を英語の発音(’pizza, waffle, nugget…’ )で口にしたり、逆にわざわざ日本語の音韻構造に変換して([piza, waɸɸuru, nagetto…])カタカナ英語で言ったりすることもできます。
 このように、(たとえば)日英語の違いを知ることで、それらを話す相手に対して使い分けることができるばかりでなく、同じ語を英語のまま口にしたり、日本語風に口にしたりすることの両方ができます。言語学者顔負けの言語能力を発揮するのです。
 この点でも、バイリンガルはモノリンガルに勝っています。


内容に敏感

内容に敏感 十数年前に、京大の板倉昭二博士などが海外の大学と共同で、バイリンガルとモノリンガルに関わる研究を発表されてニュースになったのを覚えている方もいらっしゃるかも知れません。この研究では、言語の知覚や産出以外の部分、コンテクストの理解力に焦点が当てられています。
 日英バイリンガルと日本語モノリンガル、さらには独伊バイリンガルと伊モノリンガルの4〜7歳の幼児たちが実験に参加しました。その中で子どもたちは、パペットを使った単純なスキットを見せられます。その会話では「イヌがどこにいる?」に対して「庭にいるよ」とか「お空にいたよ」などのやりとりが行われます。
 結果として、バイリンガルの子どもたちの方が「お空にいたよ」という返答に対して「ん?」と違和感を抱く傾向にあることが分かりました。察するに、バイリンガルの子どもたちの方が、言語に対する経験が豊富であるために、理解力に優れており、結果として言語表現に敏感に反応するのでしょう。

 このように、バイリンガルは2つの言語を直観的に使いこなすだけではなく、理解力においてもモノリンガルよりも感度が優れているのです。


「ダブルリミテッド」もバイリンガル?

「ダブルリミテッド」もバイリンガル? さて、ダブルリミテッドとかセミリンガルと呼ばれる人たちが存在することを述べましたし、その人たちの特徴として、彼らが身につけたいずれの言語においても CALP(学習言語)に届いていないことも書きました。彼らは学習言語を持っていないので、言語能力に制限があるわけです。
 そして「それ見たことか」「英語なんかやるからそんなことになるんだ」と言いたくなる人たちの心理も述べて参りました。
 しかし他方で、留学生や帰国子女たちは、母語と L2(第二言語)のどちらかのみではなく、その両方の言語において CALP レベルに届いていることも分かりました。彼らは、彼らが身につけている言語群を使いこなせるばかりでなく、モノリンガルに比べてコンテクスト(文脈)の理解力が高く言語に敏感であることも分かりました。

 少しまとめてみましょう。

 まず、言語能力が押し並べて高い「バイリンガル」がいます。しかし、その質を見てみると両言語共に BICS(生活言語)に留まっている人たちがいます。そして、それらを「セミリンガル」などと呼ぶわけです。
 逆に「バイリンガル」であって、その言語のどちらかあるいは両方において CALP レベルをクリアしていれば、「セミリンガル」という注意付きでない「立派(?)」な「バイリンガル」ということが分かりました。

 それでは、今回のテーマである「モノリンガル」との比較を見てみましょう。
 どうやら、バイリンガルでも BICS なら、逆にモノリンガルの方が好まれるようですが、CALP のバイリンガルなら、文句のつけようがなくバイリンガルであることが良いことに異論はないでしょう。つまり、

 バイリンガル(いずれもBICS)<モノリンガル<バイリンガル(CALPクリア)

 という図式が成立しそうです。と、ここまでは良いのですが、問題はさらに根深いのです。バイリンガルでも、セミリンガルとなってはモノリンガルに劣るので、モノリンガルであることの方が安全なような気もします。
 しかし、どうやらモノリンガルだからといって安全ではないのようなのです。彼らの中には、CALP をクリアしていないケースも珍しくないようです。


モノリンガルなら必ず CALP(学習言語)は担保されているのか?

モノリンガルなら必ず CALP(学習言語)は担保されているのか? 「英語より国語」とか「英語などやっているから国語力が云々」など、英語力と国語力を天秤にかける思考法があり、根拠は「BICS 止まりのバイリンガル」の存在であることは繰り返し述べています。冷静に見れば当然のことですが、「CALP をクリアしているバイリンガル」には誰も文句をつけていないのです。それどころか、彼らには文句のつけようがないでしょう。
 しかし、BICS止まりのバイリンガルに対しても「モノリンガルの方がましだ」と言い切れるのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。そもそも根本的な疑問が見逃されているのです。

 「果たして日本の子どもたちはCALPレベルの国語を身につけているのか?」

 どうなのでしょうか。日本の中学生、あるいは高校生は、既述したところの(仮定の)日本語検定で1級を取れるだけの日本語力があるのでしょうか。

 まず、比較対象として日本人の英語力に目を向けてみましょう。大学入試センター試験の英語の平均点は6割です。かつては、英語では英検準1級を持っていればセンターで満点とみなされたこともあります。高校生で英検準1級レベルの英語力を持っている割合は0.5%、2級で1.7%、準2級を入れるとようやく20%程になります。残りは3級以下ということです。これだけ見ると、日本人の高校3年生の英語力の平均は、高く見積もっても英検3級以下、と言えそうです。
 つまり、英語において CALP をクリアしている(英検準1級レベル以上の)学生は0.5%です。
 さて、問題は国語です。国語の平均点も年度によって前後しますが6割くらいで推移しています。英語は外国語ですし、国語は母語ですから、大学入試問題の国語と英語をその点数で直接比較することはできません。なぜなら、英語の問題の方が極めて簡単で、国語の問題の方が断然難しいと考えることも可能です。

 確かに、英語よりは日本語の方において運用能力が高いことは間違いないでしょう。日常的に日本語を使えるわけですから、その点は間違いありません。しかし、そんなモノリンガルの彼らは、果たして日本語における CALP をクリアしているのでしょうか。そして、クリアしているならば、彼らのうちのどのくらいの割合がCALPレベルの国語を身につけているのでしょうか。


「教科書が読めない子どもたち」

「教科書が読めない子どもたち」 幼児は、分からない漢字を飛ばし読みします。4歳児が「たばこはご遠慮下さい」の漢字を省いて読むと「たばこはごさい」となります。幼児が読めない漢字を飛ばすのは仕方がありませんが、年齢が上がるにつれて漢字も読めるようになります。しかし、それらの意味が分からないとき、理解力の低い子どもたちは「分からない」と自覚することなく、分かる範囲内で理解しようとするのです。

 これに関しては少し前のベストセラーになった『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著・東洋経済新報社)が参考になると思います。以下、一部本文からの引用です。

 「Alex は男性にも女性にも使われる名前で、女性の名前 Alexandra の愛称でもあるが、男性の名前 Alexander の愛称でもある。」

 この文の解釈に関して、空欄に入る適切な選択肢を選ぶ問題が出されます。

 「Alexandra の愛称は( )である。」① Alex ② Alexander ③ 男性 ④ 女性

 答えは言うまでもなく「① Alex」です。
 問題は、この問いに対する中高生の正答率です。中学生の平均正答率は38%で、高校生は65%でした。中学生では、3人に1人しかこの問いに正答できません。高校生となると正答率はぐっと上がりますが、それでも、高校生の3人に1人はこの問いに正答できないのです。加えて、大学受験の年の高3生の平均正答率は、高校生平均より低い57%だったのですから、呆れて物が言えません。
 なぜこんな簡単な文が理解できないのでしょう。その答えは誤答にあるようです。驚くべきは中高生共に、ざっと3人に1人は「④女性」を選択していたのです。

 この命題と設問を式に直すと以下のようになります。

 「男性にも女性にも使われる名前 = ? = Alexandraの愛称 = Aleanderの愛称」

 つまり「?= Alex」となります。仮に「愛称」という言葉を理解できなかった場合でも、上のように文の構造を理解できていれば、①の答えは導き出せます。しかし、文の構造を理解できず、未知語である「愛称」を、まるで幼児の飛ばし読みのように、うやむやにして問いを読むと、

 「Alexandraの○○ = ?」となり、そこから「Alexandra = 女性」となるのかも知れません。

 ここから、まず彼らの語彙が満足に豊かではないことが伺えます。中学生で「愛称」が理解できない子がいるのはまだ頷きようもありますが、高校生で「愛称」が理解できないのはその人の語彙に問題があると考えざるを得ないでしょう。
 「愛称」の英訳である ‘nickname’ の frequency(語を頻出順に ‘the, be動詞, and, a, of, to, in, for, have…’ の順に並べたリストのこと)は “COCA : Corpus of Contemporary American English、現代アメリカ英語コーパス” によれば 6455位です。 英検では準2級とか2級レベルで出てくる単語です。
 つまり、「愛称」が理解できない日本人の中高生の語彙力は、”CEFR : Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment、外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠、セファール” に参照すると、せいぜいA2とかB1レベルのようです。参考に、それらがどんな言語力なのか簡単に記しておきます。

 A2レベル: 「日常的な会話や行動といった簡素で直接的な情報交換を要するコミュニケートができる。自身では会話に参加できるほどの理解は無いまでも、短い社交辞令程度は交わせる。」 
 B1レベル: 「経験、出来事、夢、希望、大望などを表現するために、文章を紡ぐことができる。計画や意見に関して簡潔な説明をすることができる。本を朗読したり、本や映画の筋を話したり、感想を述べることができる。」

 留学生が身につける英検準1級レベルの英語は、CEFR で B2 相当です。ちなみにそちらも載せておくことにします。

 B2レベル: 「自分の関心事に関係した幅広い題材に関して、明確で詳細にわたる文章を書ける。情報伝達のための文章、または特定のポイントに関して賛否を説明するエッセイやリポートを書ける。」

 つまり、上記の問いに答えられない日本人の中高生の国語の語彙は、留学生が身につける英語レベルよりも乏しいことになります。

 語彙が貧弱なだけはありません。未知語があっても、文の仕組みを理解すれば「未知語が文の中でどんな役割を果たしているのか」は理解できます。そうすれば、未知語の意味も推測できるわけです。しかし、文の構造を理解しようとせず、幼児のように未知語を飛ばして ”ワンチャン”(ひょっとして⁉︎で)答えに飛びついてしまう。これはまるで小学生並みの行動ではありませんか。

 また、同書における著者の心情が、以下のように述べられている部分があります。

 同義判定(同じか違うか)の問題に関する中学生の正答率が57%であることを「深刻」とした著者に対して、ある新聞記者が「100点満点で57点ということは悪くないのでは?」と仰ったとか。

 二択では、コイン投げでも50%当たります。当該の記者は、それを「100点満点の57点」としか理解できないのです。この問題が「深刻」であるのかすら判断できない人たちがいる。これは、新聞に記事を書くような立派な社会人の国語力の話です。お粗末にも程があります。
 ちなみに、同書には日本の子どもたちの理解力に関する「もっと恐ろしい現実」が、他にもたくさん例示されています。この国の未来に思いを馳せると、読んでいてぞっとしますが、お子さまの将来を憂える読者賢者にはご一読お勧めします。

 さて、こう考えると、果たして日本人の国語力は CALP(学習言語)をクリアしているのか、はなはだ疑問なのです。そうであれば、ダブルリミテッドやセミリンガルなどと、BICSレベルのバイリンガルたちを揶揄している場合ではありません。彼らは、少なくとも2カ国語を知覚できるのですから。
 果たして、母語である日本語においてすら BICS(生活言語)の域を抜けられずにいるモノリンガルの子どもたちは何と名付けられるべきなのでしょう。


日本語から国語へ

日本語から国語へ 我々は、ここ数年「日本語力」と「国語力」を分けて考えるようになりました。
 日本語力とは、基本的な日本語の知覚・産出回路を指すと定義しています。今回の流れで言えば、BICS(生活言語)のことと考えて差し支えありません。つまり、2歳とか3歳で身につく、日本語を正確に聞き取ったり、相手が分かるような発音で話したり、さらには日本語の語順や格助詞、照応形の使い方などを身につける段階です。
 その後に、子どもたちは BICS レベルの日本語力を CALP(学習言語)レベルの国語力へと昇華させていきます。語彙を豊かにして、同時に理解力を高めていき、ある程度は専門的な議論を論理性を持って展開できるレベルの国語力です。前出の CEFR に参照すれば、B2レベルです。

 国語力を日本語力から切り分けた理由は簡単です。私自身が大学に戻り(ある程度以上は賢いと思われる大学の)若い学生たちと接触するに連れて、彼らの言語能力に疑問を持ったからです。私のクラスは、洋行帰りや帰国子女ばかりだったので、皆流暢に英語を話します。しかし、議論を始めると、上手くかみ合わないことが少なくないのです。
 こちらの言っていることに頷くので、理解しているのかと思いきや、どうやらそうでもないらしい。あるいは彼らの議論の筋道の立て方を見ていると、教科書やどこぞの記事の「コピペ」の匂いがプンプンする。果たして、彼らは件の議論の問題点を正しく理解できているのか?そして自分の意見を持っているのか?といった点に疑問を抱いたのです。
 もちろん、彼らは「バイリンガル」です。当然のことながら日本語なり英語、あるいは両方の言語において CALP をクリアしていると考えられている学生たちです。それでも、彼らの理解力や思考力に心細さを感じてしまうのです。

 そこで、単に言葉を使えるというBICSを「日本語」、知的格闘に耐えうるCALPを「国語」と定義して、それを英語にも当てはめて考えるようになりました。それが、「パルキッズ」では「読解力の育成」を重要視する所以です。


「国語力」が「学力」の基本

「国語力」が「学力」の基 少し話がそれましたが、話を国語力に戻しましょう。
 『パルキッズ通信2022年3月号』で、国語力が学力すべての基本であることを説明しました。ここでは詳細は省きますが、国語ができないと社会科の教科書を理解できない。さらに国語ができないことで算数で躓き、小学校の算数で躓けば、中学の数学で取り戻すことは極めて困難である。また、中学の数学ができないようでは物理はお手上げとなるわけです。
 つまり、理解力が低い。結果として、理解できないものは「記憶する」しかなくなるわけです。これほど効率の悪い学習はありません。しかし、国語力が低く、理解力の乏しい子たちは、丸暗記する以外に勉強の仕方がないのです。

 これを「詰め込み」と言わず何と言いましょう。

 小学校の国語では漢字の書き取りばかり、算数では筆算ばかりやらされた記憶があります。字がきれいなことや筆算が速いことは大変結構なことですが、基本となる国語の理解力を伸ばすことをせずに、いくら漢字をたくさん知っていてもどうにもなりません。いくら与えられた計算を早くこなす能力が身についても、文章題はまるで理解できないのでは、計算機に負けてしまいます。

 そして、どうやら、国語力の低い子が最近増えているような気すらします。

 責任論に関しては議論を呼ぶので差し控えますが、「理解力」を伸ばす、あるいは「語彙」を豊かにする教育が等閑にされているのではないかと考えます。
 これらの教育は、小学校に入ってから行われるべきものではなく、本来は小学校に入る前にある程度以上は整えられておくべきものでしょう。これら「理解力」と「語彙」を伴った「国語力」を身につけずに、小学校に上がる子がいるのです。そして、その反対に高い「国語力」を身につけて小学校に入る子もいるわけです。

 小学校に入る段階で、すでに学力が二極化しているのです。

 理解力が低い子は授業が分かりません。すると小1問題も発生するでしょう。
 また、筆算や漢字の書き取りばかりで理解力を伸ばすことができない子は、論理語(接続詞、助詞など)が理解できず、結果として、目の前の文を眺めながら目に入ってくる(知っている)単語を適当に並べ替えて、自分なりに勝手な解釈を産み出す以外ないのかも知れません。(これは、英語が分からない日本人の英語の理解の仕方と通底します。)
 小学校に入ってからも、国語力(つまり「理解力」と「語彙」)が低いことに焦点が当てられないまま、淡々と授業は進み、結果として「記憶」に頼らざるを得ない子が量産されているのかも知れません。
 そして、3年生になって中学受験だと慌てて塾へ放り込む。その段階では、幼児期に国語力を育てられ、豊かな語彙と高い理解力を持っている子との学力格差は、埋めがたいものとなっているのです。

▶︎幼児期に国語力を伸ばす親のための講座「地頭力講座」についてポッドキャストで解説中


国語力を伸ばす取り組みを行っていますか?

国語力を伸ばす取り組みを行っていますか? 幼児期に国語力を伸ばす方法は、いくらでもあります。しかも、幼児期は比較的自由ですし、インプットに割ける時間も豊かです。幼児のうちに良質のインプットを大量に施すことが、子どもたちの国語力を育てるために必要なのです。

 世の中には、様々な習い事があります。それらに取り組むことは大変結構なことです。しかし、大切なことが等閑になっていませんか。

 読者の皆様は、お子さまの国語力を伸ばす取り組みを行っていますか。

 自信を持って「イエス」と答えられる方が多いことを祈るばかりです。そして、高い国語力、つまり早い段階で CALP(学習言語)を獲得していることを前提に、英語の BICS(生活言語)と CALP を育てる「パルキッズ」に取り組めば、セミリンガルとかダブルリミテッドという問題は起こるはずもなく、皆が立派なバイリンガルに育つのです。

 さらに、国語力が担保されているのであれば、国算社理の4教科で悩むこともなく、理解力が高いので塾に行かずとも教科書くらいは軽々とこなすことができます。そして、「パルキッズ」で英語力が育っているので、英語にすら時間を割かれることがありません。
 高校受験にしても、大学受験にしても、らくらくとクリアすることができるでしょう。

 繰り返しますが、幼児期に高い国語力を育てること。これが大切です。過去の『パルキッズ通信』にも、国語力を伸ばす様々なヒントや具体例が豊富に残っています。また、我々も英語ばかりでなく、国語力を伸ばす教材も次々と開発しています。私どものノウハウを上手く活用していただいて、効率よく「国語力」を伸ばしていただけることを願っております。

▶︎幼児期に国語力を伸ばす親のための講座「地頭力講座」の詳細はこちら


【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


アマゾンで本を購入する


次の記事「効果的な子どもの叱り方」


まずは資料請求
今なら3つの特典つき

プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

この記事をシェアする

関連記事