2026年2月号特集
Vol.336 | AI時代を生き抜くために必要なたった一つの能力
記憶から理解へ、論理思考から直感へ
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2602/
船津洋『AI時代を生き抜くために必要なたった一つの能力』(株式会社 児童英語研究所、2026年)
機械からコンピュータ、そして AI に仕事が奪われる時代へ
以下は、十年以上前にオックスフォードのマーティンスクールから出された論文の一節からの抜粋です。
「いまから200年前、イギリスのノッティンガムで、ある出来事が起きました。地域の靴下職人たちが、エリザベス女王に向けて陳情書を提出したのです。『どうか私たちの仕事を機械からお守りください』。靴下編み機の登場によって、彼らの熟練した手仕事は、あっという間に機械に置き換えられました。」(筆者要約)
この時代、人間が機械に奪われたものは職人作業でした。蒸気機関に、ジョン・ケイのシャトルなど、効率化を生む機械は、職人や力仕事の男たちから仕事を奪っていきました。機械の力はあまりに大きく、結局この流れを止めることはできませんでした。そして時代は、この置き換えを止めるどころか、むしろ加速させていくのです。
この機械はただの手仕事の代用から、コンピュータの力を借りながら自動で働く装置に進化しました。オートメーションの登場です。ベルトコンベアが動き、ロボットアームが規則正しく上下する工場を思い浮かべてください。今度は、単純作業や繰り返し作業など、いわゆるブルーカラーの仕事が置き換えられていきました。仕分け、検品、組み立て、溶接、梱包などなど、昔であれば何十人も必要だったラインが、数台のロボットと少人数のオペレーターで動くようになったのです。
その後もコンピュータは工場だけではなく、ものづくり全般に浸透していきます。30年程前には、マッキントッシュの登場によって、楽器演奏、印刷技術、ビデオ撮影から編集まで、コンピュータのオペレータが、熟練の技術者に取って代わっていきました。人間は、職人からオペレーターへと役割を変え、仕事の本質も「熟練した技術」から「ソフトを使いこなすこと」へと移行していきました。
そして、いま私たちがまさに直面しているのが、機械化、コンピュータ化に続く、第三の波です。つまり、AI によるホワイトカラーの置き換えです。産業革命が職人から手仕事を奪い、20世紀のコンピュータの普及によりコンピュータオペレーターがブルーカラーを置き換えたように、次に登場した AI はホワイトカラーの仕事を奪い始めています。文章を書く、要点をまとめる、翻訳する、情報を調べる、計画を立てる、コードを書くなど、こうした、かつて「人間の知的業務」とされていた領域こそが、AIの得意分野なのです。
昭和の時代、ホワイトカラーの仕事は文字書きと計算、つまり、事務作業でした。そして、それに優れた人たちが優秀な人材として重宝されたわけです。つまり、高校以上を出ている、あるいはその集団の中でさらに優秀な学部卒が重宝されたわけです。
未だに日本では、このような人材、つまり良い大学の文系学部を出ているような人たちが大手を振っている社会です。しかし、彼らの仕事のほとんどは、AI で十分に置き換えられてしまうのです。「事務屋が事務を生む」ような現状から抜け出すことが、なかなかできない日本の企業文化の中で、日本は生産性を落とし、事務作業が膨張し、現場を圧迫するようになっています。教育行政を見ても、それは一目瞭然でしょう。
では、そんな時代に、私たちは子どもに何を教えるべきなのでしょうか。記憶の量でしょうか?計算の速さでしょうか?それとも論理的思考でしょうか?残念ながら、これらはすべて AI が圧倒的に得意な領域です。靴下職人が機械に勝てなかったように、印刷技術者がコンピュータに勝てなかったように、対 AI の記憶や論理の競争に勝ち目はありません。
優秀な頭脳は必要ですので、従来的な学歴が不要とは言いません。それどころか、これからは AI を使いこなすような、高い知性が求められる時代なのです。つまり、専門的な知識、あるいは高い知的格闘力を身に備えた、修士や博士がますます重要視されるべき時代なのです。
私たち大人は、次世代を生きる子どもたちに対して、AI にはできず、人間にしかできないことを身につけさせなくてはいけません。そこにこそ、子どもたちが未来を生き抜く力があるのです。では、その人間だけが持つ能力とは何なのでしょうか。ひとつずつ見ていくことにしましょう。
まずは英語から
AI ができること、できないことを論じるには、知能とは何か、認知とは何かという話に踏み込まざるを得ません。その前に、AI 登場以来、囁かれ続けている「英語(外国語)はもういらないのでは」という点について、簡単に触れておくことにします。
AI の登場により、翻訳はもちろんのこと、画像認識も合わせて使えば、海外旅行で使用する程度の英語、あるいは外国語は、インターネットに繋がったスマホ1台で事足りてしまうようになってきています。現に、街を歩いていると、あるいは観光地では、看板やメニューをはじめとした日本語の情報に、スマホをかざしている外国人を見ることが多くなりました。便利な時代になったものです。
結論から言えば、海外旅行やちょっとした文章の翻訳程度であれば、AI で十分です。つまり、ほとんどの日本人にとって(大学院へ進学したり、研究で外国人たちと協業したり、あるいは海外で事業を行ったりする人でなければ)英語は不要です。もっとも、これは、AI 時代が始まる前から同様のことで、大抵の日本人にとっては英語は関係のない言葉です。
しかし、「英語力を身につけていないこと」が、ずいぶん人生の足を引っ張り、あるいは人生の選択肢の幅を狭めていることには、多くの日本人が気づいているでしょう。それで、「我が子に英語を」と考えるのでしょう。
もっとも、日本の大学の受験システムが「英語の点数で行ける大学がほぼ決まる」ようなシステムですので、広く観ずれば大学進学を志す半分以上の学生にとっては英語は必須です。ただ、それは日本の風変わりな受験システムと一括採用システムの話です。AI とはあまり関係ないので、これ以上は立ち入りません。
話を戻して、英語が人生の選択肢を狭くしたり、足を引っ張ったりすることについて、もう少しだけ突っ込むと以下のようになります。
まず第一に、知の世界の入口が英語であることが世界の潮流である点が重要です。旧約聖書の「バベルの塔」の物語では、それまでひとつの言語を話していた人類が、力を合わせて天に届くような塔を作ろうとします。その傲慢さを戒めるために、神は人類が皆バラバラの言語を話すように仕向けました。結果、言葉が通じなくなり、共同作業ができなくなったわけです。今、この逆の流れが進んでいるのです。つまり、それが英語のリンガフランカ化です。研究者やビジネスマンなど、世界を股にかける人たちには、共通言語である英語を操ることが条件です。そして、力を合わせて世界を変えていっているのです。英語ができないということは、それだけで、「バベルの塔」作りに参加できない、ということになります。
第二に精神面では、英語ができないことで、人々の輪、つまりそのようなコミュニティーに参加しても、いわゆる「壁の花」となってしまう点です。世界のリーダーたちが集まる場での、日本のリーダーの様子を見れば分かりますね。英語がわからないと、引っ込み思案にひとりぽつんと座っていたり、記念撮影も端っこにいたり、なんてこともあるようです。共通の言葉を話さない人は、極言すればその場に「いない」のと同じです。
そして第三に、英語が使えないことが、物理的にかなりの制約を人々の行動や判断に課すこととなります。簡単に言えば、インターネットがこれだけ発達している今日、仕事はどこでもできるのです。南国が好きな人は南国に住んで仕事をすれば良い、北国が好きな人も同様です。
もっとも、場所の制約を受ける仕事を選択していれば、そうは行きませんが、専門的な知識や知的格闘力を身につけて、外資系の企業に専門職として雇われたりすれば、比較的、物理的な制約からは解放されます。あるいは、自ら起業してしまえば、それこそ、必要な時だけ必要な場所へ出向けば良いので、どこに住んでも仕事はできます。ハワイが良ければハワイで、ニュージランドが良ければニュージーランドで…、ヨーロッパなりどこなり、自分の好きなところで仕事をすれば良い。そのためには、現地に住むに当たっての言語力が必要です。同時に、現地で採用されるのであれば、それ相当の言語力が必要となります。
このように、英語が人生の進路や判断の足かせや制約となっているのですが、逆に言えば、英語を身につけてしまいさえすれば、上記の知性面、精神面、物理面での人生の選択肢がぐぐっと広がるのです。
さて、英語の話はこのくらいにして、では、AI と人間とはどのような関係を築くべきなのか、そのあたりを「認知・非認知・メタ認知」にからめて説明してまいりましょう。
記憶の時代から、理解の時代へ -科挙と受験戦争が残した古い学力観を手放すとき-
私たちが「学力」と聞いて思い浮かべるものには、漢字を覚えること、英単語を暗記すること、計算を速くこなすことなどがあります。こうしたイメージの多くは、非常に古い時代の価値観をそのまま引きずっているものと言えるでしょう。千年以上前、隋や唐の国で行われていた「科挙」と同じ価値観を未だに持ち続けている、いや、受験戦争に巻き込まれているご家庭においては、知らず知らずのうちに、産業革命前の中世どころか古代の価値観で育児をしているかもしれないわけです。
科挙というのは、膨大な経典を丸暗記し、それをいかに美しく文章として再構成できるかで合否が決まる試験でした。つまり、“記憶力”と“文章表現力”がほぼすべて。これに受かれば、高い地位を得られ、一族の人生が大きく変わります。したがって、人々は幼い頃からひたすら暗記し、模範的な文を書けるよう訓練されたわけです。これは当時としては合理的でした。なぜなら、国家が必要としていたのは、経典の解釈や“事務処理”であり、いわば「正確な情報処理能力」が重宝されたからです。
こう考えると、古代のギリシャ、ローマなどでは、天文学などの地学や数学が、哲学や修辞学と並んで尊ばれたので、儒教の経典の暗記や作文に終始した科挙的な秀才育成は、一旦学問が後退したとも言えます。
この記憶中心の学力観は、明治以降の日本の受験制度にも、姿を変えて受け継がれました。戦後しばらくは、高度経済成長によって、工場・事務・公務など、標準化された仕事が大量に生まれ、そこに勤勉で指示に従える人材が必要でした。だからこそ、「読み書き計算」「暗記型のテスト」「模範解答が存在する世界」が教育の中心になったのです。
しかし、すでに触れたように、産業革命は職人から、20世紀のコンピュータ化はブルーカラーの技術者から職を奪ってきました。同様に、AI はホワイトカラーから記憶と論理の仕事を奪うのです。つまり、科挙の時代から続いてきた「記憶と手順で勝負する世界」は、もはや舞台そのものが消えつつあります。にもかかわらず、学校では依然として「暗記が大事」「テストの点数が大事」という価値観が根強く残っています。ここに、いま私たちが抱える最大の教育ギャップがあるわけです。
記憶やその組み合わせばかりでなく創作性を生み出した人たちが世界を引っ張ってきた
では、過去の偉人たちはどうだったのでしょうか。ダ・ヴィンチ、ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン……。彼らはいずれも、常識にとらわれず、「なぜ?」「どうして?」と問い続ける力を持っていました。重要なのは、彼らが膨大な知識を暗記していることではありません。彼らはその知識の背後にある仕組みを「理解」しようとしていたのです。
リンゴが落ちるのを見て「重力とは何か?」と考える。月の満ち欠けを見て「なぜこうなるのか?」と仮説を立てる。これらは、単なる知識の積み上げではなく、「構造を理解しようとする姿勢」です。
つまり、近代以降の文明を前に進めてきたのは、暗記力や作業力ではなく、理解を起点にした創造だったのです。本来、教育というのは、この「理解」の回路を育てるためのものでした。ところが、大量教育・大量採用の仕組みが主流となるにつれ、「テストで測りやすい力=学力」という誤解が生まれ、理解よりも記憶が重視されてしまったのです。こうして、自然科学や哲学的な心理探求の「思考」を深める作業は切り捨てられてしまったのです。
しかし、AI 時代になると景色はまったく変わります。記憶は AI に任せればよく、計算もAIの方が速く、要約や論理整理も AI が満足なレベルまでこなしてしまう。つまり、これまで「学力の中心」とされてきた領域が、軒並み AI の得意分野に吸収されてしまったのです。では、その中で人間に残る価値は何か。それが、ものごとを「理解」しようとする姿勢です。「理解」する能力だけでなく、「理解」しようとする姿勢が重要なのです。
「なぜそうなるのか?」「どうつながっているのか?」「別の状況に置き換えたらどうか?」「根本の構造は何か?」これら、子供心に抱くような素朴な疑問を、大人になっても持ち続け、その答えを探し続ける、そんな人たちが、物事を理解することができるのです。これは、単に学習した情報を並べるだけでは生まれません。経験、対話、失敗、発見、そしてメタ認知的な気づきが何層も積み重なって、ようやく育っていくのです。これは AI にはできない領域です。
ここでひとつ興味深いデータがあります。小学生の学力を最もよく予測するのは「国語の点数」でも「IQ」でもなく、「授業そのものがどれくらい理解できているか」だという研究があります。さらにその理解の土台は、幼児期の読み聞かせや、家庭での対話の量に強く相関しています。つまり、理解力は環境で決まり、日々の訓練で伸び、そして将来の学力あるいは思考力を左右するということです。
この「理解の回路」は、水平思考、あるいは直感の土台になります。そしてこれは、AI がどう頑張っても代替できない領域です。冒頭の靴下職人や技術者たちは、機械やコンピュータに職を奪われるのを止めることはできませんでした。同じように、私たちは AI に記憶や論理の領域を奪われることを止められません。しかし、だからこそ今、古い学力観、科挙から受験戦争へと続いてきた記憶中心の教育を手放す時期に来ているのです。
AIが得意なこと、AIが苦手なこと。嵩の理解・メタ認知・直感こそ人間だけが持つ武器
暗記や計算といった旧来型の学力が、AI の登場によって大きく意味を変えつつあることはご理解いただけたでしょう。これに続いて、ここでは、AI が具体的にどのような分野を得意とし、逆にどんな領域が苦手なのかを見ていきましょう。これを明確にすることで、子どもたちに何を育てるべきなのかが、はっきりと浮かび上がってきます。
AI が得意なことは、一言でいえば 「大量の情報を高速に処理し、一定のパターンに沿って整理すること」 です。検索、要約、翻訳、分類、推測、統計処理、さらには文章生成やコード作成まで、膨大なデータから最適に見える答えを抜き出すことに長けています。これは、人間が何十年もかけて積み上げてきた知識労働の多くを置き換える能力です。情報収集は AI の方が速くて正確ですし、コンピュータはほぼ無制限に情報を保持しますし、論理的なプロットや文章構成も AI は破綻なく進めます。いわば、人類が頭脳労働と呼んできた仕事の大部分は、すでに AI の射程に入っているわけです。記憶だけの秀才はもういらないのです。
しかし、その一方で、AI が苦手とする「認知」領域があります。その代表格が 「嵩(かさ)の理解」 です。嵩というのは、たとえば、10リットルの水の量を見て「重そう」と瞬時に判断するような、人間の体験に基づく理解のことです。こうした判断は、AIが持つ「体積」「重量」「密度」というデータを超えて、経験と感覚が統合された理解です。
AI はデータを処理できますが、意味としての理解はできません。人間は経験を通して世界を立体的に捉えますが、AI は世界を数値の集合としてしか扱えません。
だから AI は、料理のレシピを生成することはできても、鍋の中身が焦げる臭いを嗅ぎ分けて「火を弱めた方がいい」、「アクが浮いてきたからすくう」と判断することは容易にはできないのです。
AI のふたつ目の大きな弱点が 「非認知」です。人の感情に共感したり、正義感を抱いたり、義憤を覚えたり、周囲と調和しながらコミュニケーション力で周りを動かしていく、そんなことは AI にはできません。また、非認知の自己制御の領域では、モチベーションを保ったり、自己効力感や自己肯定感を感じたりすることは AI にはできません。人に寄り添う、主体性を発揮する、そのような、人が生きていく上でのあたたかみはAIには持てないのです。
そして、3つ目の弱点が「メタ認知」 です。人間は、自分の考えや感情をもう一段上の視点から観察できます。「ちょっと自分、いま焦っているな」「これは表面的な問題を追いかけているだけだな」「別の角度から見てみよう」など、自分の認知を客観視するわけです。このメタ認知があるからこそ、人間は問題を深く理解し、必要に応じて戦略を変え、また自分の間違いを修正できます。
ところが、AI には自分が考えていることを自覚するという機能がありません。
AI が持つのはあくまで統計的関連の推測であり、そこに「自分は今こういう偏りを持っている」と気づき、修正する働きはないのです。というか、必要ない。あるいは、AI がそれをし始めたら、ジャンケンの推測のような無限ループに陥って、エラーを返すでしょう。ところが、人間は、理解が行き詰まったときに「ちょっと休憩しよう」「相手は今こんな気分か」など、非認知やメタ認知を用いた戦略変更、言い換えれば「変な予感」的な判断は直感で行っていますが、AI は与えられた指示通りに動くのが基本です。
ここから派生するのが「水平思考」 の領域です。人間は問題に直面したとき、別の分野からヒントを引っ張ってきたり、例え話で整理したり、まったく違う状況に置き換えて考えたりできます。これは、観察・経験・抽象化をメタ認知するという、認知・非認知情報が統合された高度な思考です。
たとえば、子どもが宿題でつまずいているときに「これは文章題が難しいのではなく、集中力が切れているだけかもしれない」「机の上が散らかっていて認知負荷が上がっているのかもしれない」と推測するのは、人間ならではの構造を見抜く思考です。AI は問題文を解くことはできますが、問題が何から生じているのかを理解することはできません。そこには、文脈・身体感覚・人間関係・感情の揺らぎといった要素が複雑に絡むためです。
そして、人間特有の能力の頂点に位置するのが、認知と非認知、さらにはメタ認知を統合した 「直感」 です。直感というと勘のように聞こえるかもしれませんが、実際には膨大な理解が圧縮され、瞬時の判断として現れる最も高度な思考です。料理人がひと口味見して「あと塩ひとつまみ」と判断する。教師が教室に入った瞬間に「今日はこの子はちょっと様子が違う」と気づく。親が子どもの声の調子を聞いて「なにか悩んでいるな」と察する。こうした直感は、経験・理解・メタ認知の集大成であり、AI には絶対に模倣できない領域です。
つまり、AI が得意なのは、記憶・計算・推論・パターン処理。AI が苦手なのは、意味の理解・メタ認知領域の水平思考や直感です。
この対比が明確になれば、次にすべきことはおのずと決まります。
子どもたちに必要なのは、暗記力ではなく、理解を積み重ねていく回路。そして、その理解が熟成して生まれる直感的な判断力。この、人間だけができる思考の領域を育てることこそ、AI 時代の教育の中核になるのです。
理解はどのように育ち、直感へと昇華するのか
AI が得意なこと・苦手なことを見ながら、人間の認知・非認知・メタ認知を通した「理解」や「直感」がどれほど特別で、そして代替不可能な能力であるかを確認しました。では、この理解や直感は、どのようにして子どもの中に芽生え、成長していくのでしょうか。結論から言えば、それは幼児期の何気ない体験、日常の会話、読み聞かせ、そして言語化の積み重ねから始まります。私たち大人が思っている以上に、理解というのは早い段階から、生活の中で深く育っていくものなのです。また、積極的に理解の幅を広げる、つまり概念を多く持たせることが、ザルの目を細かくするようして、理解力を高めることになります。
子どもたちは、積み木を倒したり、水たまりを跳ねたり、牛乳をこぼしたりするたびに、世界の仕組みを身体で学んでいます。「高く積みすぎると倒れる」「水は広がる」「重いものは動かしにくい」。こうした因果関係の理解は、教科書からではなく体験から生まれます。そして、ここに言語が結びつくと、理解の構造化が始まります。「あ、こぼれたね」「高いと倒れやすいね」「重いね」など、親のひと言が子どもの中で経験に意味を与えます。意味がついた経験は記憶に残り、記憶に残った意味は、新しい経験を理解するときの土台になります。
さらに、親が積極的に子どもの理解の幅を広げることができます。それは読み聞かせです。読み聞かせは、子どもにとって経験の疑似体験装置のようなものです。日常では起こり得ない状況、森の中、海の底、宇宙、人間関係の葛藤、主人公の心の動きなどなど、こうした複雑な世界を、安全な環境の中で体験できます。しかも、絵本には因果関係が明確に描かれています。主人公がこうしたから、こうなった。ここで後悔した。そこで助けられた…。これらが繰り返されることで、子どもの中に物語の構造理解が育ちます。これは将来の読解力・論理力・思考力の母体となる部分です。
ここまでが理解の土台です。そして、この積み重ねがあると、子どもは小学生になる頃には構造を見抜く力を持ち始めます。文章題の構造、友だち関係の構造、授業の話のポイントなどの枠組みのパターンを掴めるようになるのです。人間の理解とは、バラバラの情報を「関係づけて」「束ねて」「構造化する」働きです。AI はデータを処理できますが、構造を意味として掴むことはできません。ここが人間とAI の決定的な違いです。
では、この理解がどのように直感につながっていくのでしょうか。直感とは、理解の反対ではありません。むしろ、認知領域の理解と非認知領域における実体験を元にして、メタ認知を通して得られる現象です。直感は「突然ひらめくもの」と誤解されがちですが、実態は、膨大な理解が圧縮され、瞬時の判断に短縮された思考です。すでに述べたように、ベテラン教師は教室に入った瞬間に異変を察し、料理人はひと口の味見で判断します。親も同じ。子どもの声を聞いただけで、様々なことに気づきます。
直感は「経験の量」ではなく「経験の意味づけの質」で決まります。つまり、体験しただけではだめで、そこに意味づけをしていく。こうして生まれる理解が深い人ほど、直感が鋭いのです。
子どもも同じです。読書体験が豊富な子は、文章題の意図をすぐ掴みます。普段から親と「なぜ?」を考えている子は、新しい状況でも対応が速い。友だちの表情や空気の変化に敏感な子は、社会性の発達が早い。これらはすべて直感的な理解の現れです。
AI は直感を持てません。なぜなら、AIには「理解」がないからです。AI が持っているのは計算された確率であり、意味づけされた経験ではありません。直感は、意味と経験が統合されたときに初めて生まれるので、AI は絶対にこの領域に踏み込めません。
だからこそ、今の時代において最も価値のある教育は、子どもに知識を詰め込むことではなく、理解を育て、そこから直感が芽生える回路を作ることなのです。これには特別な教材が必要なわけではありません。日常の中で「どう思う?」「なんでだろうね」「もし逆だったら?」と問いかけるだけで、子どもの理解は深まっていきます。そして気づけば、それが自然な直感的判断力となって現れてくるのです。
機械やコンピュータが仕事を奪い、そして、AI が論理を奪う時代にあって、最後まで残るのは人間の認知や非認知を通した「理解」、情動を制御する非認知、そしてメタ認知領域の水平思考や直感なのです。これらはいわば、未来を生き抜くための最強の武器です。
理解やメタ認知の機会を奪うもの
来たるべき AI 時代には、さすがの日本企業も、生き残りをかけて効率化を図ることになるでしょう。つまり、一括採用、終身雇用、年功序列は次第に過去のものになります。そんな時代を生きる子どもたちには、認知領域のほんの一部である、知識の記憶に偏重した教育から一歩抜け出し、認知・非認知・メタ認知を全体として育てていくことが重要です。
では、どうすればよいのか。これらの領域は、すでに触れたように、特段偏った教育をしなくても家庭で身につけることができます。親が1日1時間でも、子どものために時間を割いて、対話や読み聞かせをするなど、それこそ日常の生活の中での子どもと接する姿勢を少し変えるだけで達成できてしまいます。
これに関しては「地頭力講座」を参照していただくことにして、その日常の中で、子どもたちの時間を奪うもの、理解力や思考力を育てる時間を奪うことについて、少し触れておくことにしましょう。耳(目?!)が痛いかもしれませんが、お付き合いください。
育児において、世の中には誤った考え方を持つ人が少なくありません。たとえば「自由にさせると自立する」という考え方です。残念ながら、これは正しくありません。自由とは、自分で自分を制御できて初めて成立する領域です。時間を管理し、欲求を調整し、必要なことを選ぶ力がない状態で自由を与えると、多くの子どもはスマホやゲームに没頭し、むしろ自制心を失っていきます。自律とは、自由の先にあるのではなく、自制の積み重ねの先にあるのです。そして自制のトレーニングこそが、理解の階層を支える土台の土台になります。
ちなみに、テレビやゲームを無くして「暇」な時間(我々はこれを「余白」と呼びます)を作り出すと、子どもたちは自然と考えることに慣れて来ます。あるいは、暇をつぶすためのエンターテインメントより、読書やピアノ、プリントや英語学習などの、知的で、実は楽しい取り組みに積極的になるのです。言い換えれば、読書やピアノ、プリントや英語のオンラインレッスンが、エンターテインメントとなりうるのです。そして、息抜きに、漫画を読んだりブロックで遊んだりする。そんな時間の使い方が日常となるのです。テレビやゲーム、SNSにふける子との知性の差は広がるばかりです。
いきなり、これらのエンターテインメントをすべて奪うことは難しいかもしれません。しかし、「1日30分まで」など時間を決める、あるいは「宿題がすべて終わってから」などの条件を決めて、その制約に従うことも大切です。これは言い換えれば、自己制御の訓練、脳の前頭前野を鍛える訓練です。前頭前野は、注意、判断、計画、意思決定、そして直感的判断の最終調整を担う領域です。つまり、自制心を育てることは、「余白」を生じさせることと繋がっていて、それがさらに理解力と直感力を鍛えることへと続いていくのです。
さらに、認知・非認知からの理解と、メタ認知からの直感を家庭で伸ばすために大切なヒントは、親自身が疑問を感じ、思考する姿を子どもに見せることです。「なんでだろうね」「こういう考え方もあるね」「さっきとは違う見方をしてみようか」などなど、こうした親の姿勢が、子どもにとって最大の教材になります。親の思考は、子どもの思考のモデルです。親が問い、考え、迷い、ときに修正する。その姿を見て育つ子どもは、自然と理解の回路を模倣します。AI は正解を示すことはできますが、やり方や考え方を示すことはできません。考え方を伝えられるのは、親や周囲の大人だけです。
理解と直感は、特別な教育ではなく、日常の中で繰り返される小さな思考の積み重ねから生まれます。会話、読み聞かせ、身体的経験、選択、そして「余白」により生じる、思考、内省、自制、そして親の思考態度。これらの環境を整えれば、子どもの中に、AI には絶対に作れない「人間の思考回路」が育ちます。それは、時代がどれだけ変わっても揺るがない生きる力となるのです。
さて、今回は AI 時代にたくましく豊かな人生を切り開く子どもに育てるためには、何が必要なのかを考えてまいりました。AI に代用できることはたくさんありますが、結局は認知・非認知・メタ認知のどの領域においても不完全で、人に取って代わることはできません。しかし、人は人で、AI ができるようなこと、つまり記憶や論理ばかりをトレーニングしていては AI とは勝負になりません。そこで、表面的な記憶よりは、実体験や嵩を含めた本質の理解、さらには非認知力域を合わせてメタ認知することによって得られる直感を育てることが大切であることはおわかりいただけたでしょう。
「認知・非認知・メタ認知」に関しては、拙著『「地頭力」を鍛える子育て』(大和出版)に詳しいので、そちらを参考にしてください。また、AI には処理できない、これらの領域を育てるための講座「地頭力講座」もご活用いただければ幸いです。
【編集後記】
今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
★子どもの教育に悩むたった2つの理由
★「覚える」より「考える」ことを好む子どもに育てる方法
★言語力の差を決定づける幼児期の絵本の与え方
★「パルキッズ」が最適解なワケ
★バイリンガル育児3.0
★英検と中学受験の関係を理解しよう
【注目書籍】『地頭力を鍛える子育て』(大和出版)
子どもが「読めるのに、わからない」状態を家庭から終わらせる——。
言語学者・船津洋が提唱する“地頭力”とは、認知×非認知×メタ認知の三位一体の力。本書では、日常の会話や体験を通じて「理解・思考・判断」を育む具体的な方法を提示。学力だけでなく、生きる力を伸ばす実践書です。

船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。




