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2023年4月号特集

Vol.301 | アウトプットのないインプット

インプットの本質は栄養

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2304/
船津洋『アウトプットのないインプット』(株式会社 児童英語研究所、2023年)


①インプットとアウトプットの本質

全てのインプットは全てアウトプットされるか?

全てのインプットは全てアウトプットされるか? 英語教育をしていると「インプット」とか「アウトプット」という表現を頻繁に見聞きします。よくあるパターンは、「1年間インプットしたけどアウトプットがない」などと感じてしまい、「よし、それではアウトプットさせるためにはどうすれば良いのか」と考えるようになります。そして、「そうだ、子どもに興味を持たせれば良いのだ」となり、そんなマーケットの心理に応えた結果、きゃらきゃらと賑やかな声や、動くものを見つめてしまう子どもの特性を利用したカラフルなアニメーション、あるいは子どもたちの好きなキャラクターを登場させるなど、あの手この手で子どもたちの関心を引こうとする教材が世に溢れます。そして、自らが生み出した幻のようなニーズに応えて世に生み出された教材を比較検討して、「子どもが楽しそうだから」という理由で教材を選択する方も少なくないでしょう。

 立ち止まって考えてみれば、この論理はそもそも求めているアウトプットとは無関係なのですが、「風が吹けば桶屋が…」のようなロジックで「アウトプットがない」ので「賑やかな教材にする」というのが、日本の子ども向け英語教育の現在の主流のようです。
 この根底にあるのは、子どもが関心を持たないことには「インプット」ができないという “間違った” 考え方です。しかし、言語学者の親を持つような家庭でない限り、その間違いには気づかないでしょう。そして、論理の筋すら通っていない理屈の上に構築された「楽しんでいれば身につく」体の経済システムに乗っかってしまうのです。

 さて、そもそもの問題は「インプットすればアウトプットがある」と考えることです。果たして、どうなのでしょうか。インプットしたものは、アウトプットされるのでしょうか。
 例えば、皆さん本をお読みになるでしょう。1年間で読んだ本をすべて覚えていますでしょうか。一度読んだきりの本を、すべて思い出して暗唱できるでしょうか。本でなくても構いません。本誌をお読みの向きでテレビを見る人は、もはや少数派でしょうけれども、YouTubeやオンデマンドの映画などの娯楽を視聴する方は少なくないでしょう。どうでしょう、1年間に視聴したコンテンツを、すべてアウトプットできるでしょうか。また、本や娯楽だけでなく、仕事で、あるいは家族で交わした会話をすべてアウトプットできますか?
 本もテレビなどの娯楽も、仕事の場や家族間で交わされる会話も、言ってみればすべてが情報の「インプット」です。「インプットされたものはアウトプットできる」と想定しているのであれば、上に述べたような内容はすべてアウトプットできるはずではないでしょうか。

 「いやいや、そんなのは詭弁だ」とおっしゃる向きもあるかもしれません。しかし、それも誤ったものの見方です。それでは、学生時代を思い出してください。そこで習う内容は、すべてある種の情報の「インプット」です。すべてを「アウトプット」できるのであれば、いや、すべてとは言わずエッセンスだけでも「アウトプット」できるのであれば、高校入試や大学入試など余裕でしょう。

 しかし、現実は違います。

 「インプット」したからといって「アウトプット」があるわけではないのです。人間は、インプットされた情報の中で、理解できたものや特に印象に残った概念やその名前を記憶できるに過ぎません。アウトプット情報の本質は、それらの情報をしっかりと理解できているか、あるいはどうにか名前だけ聞き知っているという理由でしかアウトプットできないのです。


②言葉(OS)と知識(アプリ)のインプット

言語のインプットと知識のインプットの違い

「言語のインプットと知識のインプットの違い さて、お気付きかも知れませんが、上では言語(「英語」)のインプットと、情報や技術のインプットをごちゃ混ぜのまま述べてきました。しかし「言語のインプット」と「情報や技術のインプット」は本質的に異なります。

 これには少し説明が必要です。

 人間の頭脳は、コンピュータと似ています。コンピュータには基本システムと応用システムがあって、基本システムはコンピュータ自体を動かすシステムです。そして、応用システムは健全に機能するコンピュータ上(つまり高性能の “OS:Operating System、基本ソフト” を備えた高速プロセッサや記憶媒体のあるパソコン)で、さまざまなことをさせるためのシステムのようなものです。
 言葉の体系、例えば日本語とか英語などは OS の働きをします。
 OS とは、コンピュータという計算機と人間の中間に位置して、人間の指示するコマンドをコンピュータに理解できるように置き換える、さらにはコンピュータで計算した結果を人間が理解できる言葉に置き換える通訳のような存在です。

 他方のアプリやソフトとは、スキーなどの運動ができたり、計算や統計ができたりするような、人間が持つさまざまな技能や知識のストックのようなものです。その技術を習得すれば、アプリをインストールするようなイメージでその技術を運用できる脳を持つことになります。
 この考え方を進めると「言語」が OS に相当します。そして OS が機能する前提で、さまざまなソフトウェアやアプリケーションに例えられるような技術や知識の体系を、インストールさながらに習得していくことになります。

 つまり、言語を育てることは OS を育てること、言語のインプットは OS を育てるインプットということになります。そして、さまざまな技能や知識を豊かにしていくことは、豊富なアプリを身につけさせるようなインプットということになります。
 さらに、国語教育や英語教育は「言語のインプット」であり、さまざまな情報や技術のインプットは「知識のインプット」と言えます。
 このように考えると、学校で数学を学ぶのと英語を学ぶのでは、本質的にやっていることが異なることになります。つまり数学などはアプリケーションを育てていることになる一方、英語を身につけさせるのは OS を育てていることになるわけです。


顕在化するのは氷山の一角

顕在化するのは氷山の一角 さて、それではそれら「言語のインプット」と「知識のインプット」は、どのようにアウトプットされるのでしょうか。
 言語のインプットに関しては、日本語の発達を見れば一目瞭然です。ちなみに、世の中は広いもので「アウトプットから言語を発達させる」という考え方も一部で行われているようですが、どう論理をこねくり回したところで、アウトプットから言語を身につけるのは理にかなわず、インプットからのみ言語は習得される(また、習得後に “限り” アウトプットを通して言語能力が上昇する可能性がある)ことは疑いようがありません。従って、以降そのスタンスで見ていくことにします。

 「言語のインプット」は、胎児期にローパスフィルターを通して音韻知識のインプットが始まり、出生時から音声知識のインプットも始まります。子どもたちは生後10ヶ月頃には、母語の音韻並びに音素の知識を概ね身につけます。同時に「バブバブ」などと発声練習も行います。
 そして、1才になる頃には意味のある語の発話があり、1歳台後半の語彙爆発を経て、2歳頃には基本語彙を身につけ日常的な文脈ならば大体理解できるようになります。そして3歳頃にかけて簡単な言葉のやり取りならできるようになります。

 さて、ここまで、親をはじめとした周囲の人間から、大量の言語のインプットが行われています。そしてその一部が、アウトプットされているように見えます。(実は、そうではないことは後に述べることになります。)
 アウトプットの内容に目を向けると、おそらく3歳時点で1000語程度の子が大半を占めるでしょう。もちろん、インプットが豊富なご家庭では3歳ですでに4000語理解できる子もいます。つまり、3歳にして小学校低学年児並みの理解力があることになります。
 言い換えれば、一般的には、3年間一方的にインプットして、ようやく1000語程度のアウトプットを見るに過ぎないのです。

 では、ついでに、「知識のインプット」の方も確認しておくことにしましょう。
 知識のインプットは、まずその概念を代表する語の記憶から始まります。例えば、「戦国時代」「明治維新」「日米和親条約」などがそれです。もちろん、歴史に限らず「関数」「確率」「統計」、あるいは「パスカルの原理」「アルキメデスの法則」なども記憶することになります。
 ただ、それらの情報は「タイトル(名前)」を記憶しているだけでは何の役にも立ちません。概念の名目に加えて、その概念の理解があってはじめて意味をなします。必要なのは、その概念を表す言葉を覚えるのと同時に、その内容を理解することです。余談ですが、このあたり、日本の学校教育の現場では、概念の名前の記憶ばかりで内容理解に至っていない子が少なくないようです。

 運動の技術なども、これらの知識と同様です。知識との違いは、言語化の困難な体の動かし方をマスターすることが求められることでしょう。技能のマスターは「理解」させるというよりは「体が覚えるまでインプットする」必要があります。

 つまり、言語のインプットも知識のインプットも、大量のインプットがあってはじめて、さまざまなレベルにおいての習得がなされ、評価の対象となりうるわけです。
 極言すれば、英語も、日本語並みに聞き取り直感的に理解できるようになってはじめて意味のあるアウトプットがなされ、そのアウトプットによって、その人の英語のレベルが判断されることは可能でしょう。しかし、習得もままならない段階で、その段階のアウトプットを見て、一体何が評価できるのかは、僕などには到底理解できない世界の話です。


③OSとしての言語の常時アップグレードが重要

浅いインプットと深いインプット

浅いインプットと深いインプット さて、前段の「知識のインプット」のところで、まずは、とあるイベントや概念を代表する名前を覚えると同時に、その概念を理解することが重要であると述べました。しかし、一般的には、まずイベントや概念の名前のみ覚えることのみが行われています。歴史の年表や元素記号の記憶などがそれです。
 これらは、内容を伴わない表面的な記憶となります。極めて「浅いインプット」の産物です。 
 「深いインプット」では、繰り返し良質のインプットが行われることで、概念の「理解」、あるいは技術の「習得」がなされることになります。すると、もはや記憶に頼る必要がなくなるわけです。記憶に頼るようなインプットは浅いインプット、理解を伴うようなインプットは深いインプットと、分けて考えれば大筋間違いないでしょう。
 理解を伴う深いインプットは、栄養となり、身体そのものになるわけですが、浅いインプットは儚い記憶にとどまり、いつしか消えてなくなってしまうのです。

 さて、知識のインプットに関して、例えば、試験対策などで「浅いインプット」が行われ、単なる一時的な記憶としてさまざまな概念の名前を覚えることが行われます。これらはまるで役に立たないとは言いません。しかし、「言語のインプット」の場合には「浅いインプット」によるフレーズの記憶などは、あまり役に立ちません。いくら単語やフレーズを記憶しても、英語の体系が育っていないのであれば、英語を聞き取ることもできるようにならず、直感的な理解力の涵養にもつながらないのです。
 言語の体系を育てるためには、「深いインプット」が必要です。この場合には「理解」とか「記憶」あるいは「技術の習得」を目的にするというよりは、言語という体系そのものを構築するための「栄養」としてのインプットと考えるとわかりやすいでしょう。

 フレーズをいくらオウム返しにアウトプットしても、それは単なるコピーであって、そのフレーズを、体系を構築するための栄養として消化しているのではありません。単語を1万語覚えても、使えるフレーズを1000覚えても、それは単なる記憶であり、言語を身につけるのとはまったく別次元の「浅いインプット」の取り組みに過ぎないのです。言語を身につけるには、記憶ではなく、大量の「深いインプット」が必要なのです。

 言語を身につけるということは、「インプットした内容の一部がアウトプットされること」と考える人も少なくないようですが、本質はそうではありません。言語のインプットは、脳内で消化され「言語の体系」を形作りる「栄養」となるのです。
 そして、そこから生じる言語のアウトプットは、言語のインプットのオウム返しではなく、コンテンツに合わせて自分の意図を表すために音を複雑に組み合わせた「オリジナルの表現」なのです。
 言語に関しては、「インプットされた内容の一部がアウトプットされるのではない」ことに留意することが必要です。


OSとしての言語の体系はアップグレードし続ける必要がある

OSとしての言語の体系はアップグレードし続ける必要がある さて、言語のインプットについて、少し掘り下げて考えてみることにしましょう。
 人にとっての言語は、情報をインプットするためのインターフェイスである OS のようなものであることは述べました。そして、この OS としての言語のレベルは人それぞれなのです。
 幼児期には、基礎的なシステムを身につけて身の回りのことが理解できるようになり、思考したことを表現するようになります。しかし、それはあくまでも幼児レベルです。語彙も乏しいので、少し複雑なことや、抽象的な概念は理解できませんし、もちろん、難しいことを思考することもできません。
 その原始的な OS を、幼児期を過ぎると、小学校では「国語」としてグレードアップしていくことになります。もっとも、なかなかそれもうまくいかずに、理解力が低いまま中学校、高校へと進学する子が増えているのが現在の日本です。

 理解力が低い子、あるいは健全な思考力が低い子などは、OS のアップグレードがどこかの段階で止まってしまうか、緩慢になってしまっているのです。逆に理解力の高い子は、OSをどんどんグレードアップしていて、複雑な内容でもスッと理解できたり、論理性の高い思考力を持つことになるのです。
 つまり、OS の良し悪しは、知覚できる情報量を左右するのです。例えば、物理の教科書を読んで、スッと理解できるような高性能の OS を持っていれば、世の中を相当クリアに知覚できることでしょう。しかし、OS の性能が低ければ、教科書を何度読んでも、先生が何度説明しても、一向に理解できない、そんな状態が続くことになります。
 言い換えれば、OSの良し悪しが、その人が受容できるインプットの量を決定づけます。経済学でも物理学でも、何でも構いません。同じ授業を受けていて、スッと理解できる学生がいる一方で、まったく理解できない学生もいます。これは、その学生がインプットをどれだけ消化・理解できるか、その学生の持つ OS に依存していると言うこともできるのです。
 もちろん、OS だけでなく、その学生が身につけているソフトウエアやアプリの量や質も、新しい情報のインプットに対する理解力に影響します。しかし、新しい情報を理解するために、最も力を入れてアップグレードし続けなくてはならないのは基本的な OS、つまり母語をはじめとする言語力です。
 そして、その言語力は、良質の情報の大量インプットでのみ、アップグレードし続けることが可能なのです。


④アプリのインストール

知識のインプット、アプリのインストール

知識のインプット、アプリのインストール さて、ここまでは主に、人の脳というコンピュータの OS を司る「言語力」を育てることと、言語力をアップグレードさせ続けることで、インプットされた情報の処理能力、つまり理解力や思考力を高められる点について考えてきました。OS の処理能力次第で、同じインプット情報に対する処理量が異なる、つまり言語力次第で、100のインプットに対し即座に120%理解できるのか、5%しか理解できないのかの違いが生じるのです。

 それでは、ここからは知識のインプットの側面を見ていくことにします。こちらは OS に対するアプリやソフトのような存在で、たくさんインストールされていれば、それだけ多くの異なる作業を担当することができるようになります。  いくら優れた OS が備わっていても、アプリやソフトが入っていなければ、せっかくの高性能コンピュータと OS も宝の持ち腐れとなります。

 …少し脱線しますが、最近「地頭力講座」の受講生が増えているので、簡単に説明しておくことにします。地頭力講座で身につけていく3つのポイントのひとつ目である「言語力」は OS に相当します。そして、数学や理科を担当する「論理性」や、主体性やコミュニケーション能力を担当する「倫理観」は、ヒトの脳のコンピュータアプリとしては極めて重要な「豊かな人生を送るために必要な人間力」とでも呼べるアプリ・ソフト群と当てはめれば、スッとご理解いただけると思います。

 さて、知識のインプット、つまりアプリやソフトのインストールに必要なさまざまな情報や概念、あるいは技術のインプットですが、これは2段階に分かれています。
 まず最初のステップが「記憶」です。上で述べたような歴史年表や原子番号の記憶、あるいは数学や物理のさまざまな原理や法則を、名前や概要とともに記憶することも、この段階の作業です。上では「浅いインプット」として紹介しました。この「記憶」の段階でストップしてしまうと、単なる試験対策の「暗記」となります。
 次のステップは、概念の「理解」あるいは技術の「習得」です。上では「深いインプット」として述べた点です。こちらは、例えば、年表で覚えた出来事をその当時の時代背景を元に「なぜそんなことが起きたのか?」などと疑問を抱き、自ら得心いくまで調べたり、あるいは優秀な教師に恵まれれば、そのように学生をインスパイアして、ヒントを与えながら、そのイベントの内容全体を理解させるようなやり方です。これには、大量の良質のインプットが必要となることはいうまでもないでしょう。

 ちなみに、「言語のインプット」は、これら「知識のインプット」とは本質的に異なります。言語のインプットには「記憶」、あるいは「理解」の段階がありません。記憶したものの総体が言語を体系づけるのでなく、インプットされる言語情報がそのまま「栄養」となり、言語の体系を育てていくことになります。
 最近の言語学では、言語の習得は段階を経るのではなく、インプットによってある言語の体系のパラメータが設定されれば、その段階でその言語の習得が完了したことになる、とされるようです。つまり、言語とは徐々に身につくものではなく、閾値を超えるとその段階で習得完了となるそうです。もちろん、その後も語彙を豊かにし、理解力を高めつつ、習得した言語体系をブラッシュアップし続けていくことはいうまでもありません。

 このように、言語のインプットは「栄養」で、知識のインプットは「記憶」と「理解」のためにあるわけで、両者は本質的に異なります。国語や英語は、「勉強」あるいは「教科」という括りでは、理科・社会・体育・音楽と同日に語られ、記憶して練習すれば身につくと考えられているようですが、実はそう簡単ではないことは、ご理解いただけたでしょう。


第一段階:量が勝負の「知識への扉」

第一段階:量が勝負の「知識への扉」 それでは、「知識のインプット」の第一段階から少し詳しく説明していくことにします。
 第一段階は、繰り返しますが「記憶」の段階です。習得のターゲットとなる「概念」が、存在することを知るところからスタートします。そもそも、さまざまな概念があることを知らなければ、習得の糸口すら掴めません。まずはその存在を知ることが大切です。
 「ドップラー効果」「オームの法則」「ベルヌーイの定理」あるいは、日本史の古代・中世・近世などのさまざまな出来事、公民であれば「憲法」「人権」「三権分立」などなど、数学も然り、化学も然り、世の中はさまざまな概念で成り立っています。その入り口が、まずその「概念の存在を知ること」であり、その存在を知ることが「知識への扉」となるのです。

 「知識への扉」は、学問に限ったことではありません。あらゆる「技術の習得への扉」でもあります。
 例えば、3歳児にとって、「自分で乗りこなす乗り物」といえば三輪車でしょう。自転車などは、誰かが押してくれたり漕いでくれたりするところに、受動的に乗って移動するための手段です。従って、それらには座っていれば用が足りるわけで、能動的に(母の真似をするのは別として)自ら押したり、操縦したりする対象ではないでしょう。
 しかし、自転車と異なり、三輪車は自ら乗りこなす技術を習得するための対象です。どこかで誰かが三輪車に乗っている姿を見れば、親に「あれ」といい、親は「三輪車ね、乗りたいの?」となり、そこに「三輪車」という概念が存在することを知るわけです。まずは、「三輪車」や「それに乗っている子を見た」という知識がある。そして、そこにモチベーションが生まれれば、その知識は「技術習得への扉」となり、「僕(私)も乗ってみる」となるわけです。

 三輪車も馬鹿にしたものではなく、なかなかに難しい。前に進まず、後ろに進んでしまったりする。でも、子どもたちは、自らの身体運動とそれに対する三輪車の反応を繰り替えしインプットし続けることで、いつしか乗りこなせるようになるのです。
 そして、三輪車を乗りこなせるようになると、次に三輪車よりも速く移動する「ストライダー」に乗っている誰かが目に留まるかもしれません。このように、自分が習得したい技術の存在を、自ら見付けられるようになるわけです。
 さらに、ストライダーを乗りこなせるようになれば、自然と「自転車」の存在が気になるようになります。今までは、母親の後ろにチョコンと座っていれば事足りる交通手段のひとつだった自転車が、いつしか自分が「乗りこなしたい」と思う対象として意識に上がってきます。自らの習得対象技術として、視野に入ってくるのです。
 さらにさらに、中高生になれば、ひょっとすると「オートバイに乗りたい」と思うようになるかもしれません。このように、自らの知識・技術のレベルによって、「次」のレベルの概念が文字通り次々と「見える」ようになるのです。その概念を知ることが「知識・技術習得への扉」となります。
 スキー、ピアノ、水泳などの技術、街中に溢れる標識や日本のこと、世界のことなど、あらゆる学問への扉となる「概念の存在を知ること」は、その知識の習得への入り口であり、その扉は際限なく増やすことが可能なのです。
 しかし、それらすべてを習得することは到底不可能です。そこで取捨選択しながら、第二段階の「理解・習得」へと歩みを進めることになります。

 まずは子どもたちの、いや子どもに限らず大人である我々の世界をも広げてくれる「知識への扉」を増やすことが、すべての始まりです。この点に関しては「量が勝負」。惜しむことなく大量に与えていきましょう。ピアノでもバイオリンでも、絵画でも工芸でも、スポーツや身体運動に関しても、そしてあらゆる学問についても、「扉」を用意してやるのは親の役割です。そして、その後に必要となるのが、高い質を伴ったインプットとなります。


第二段階:質が勝負の「知識の習得」

第二段階:質が勝負の「知識の習得」 第二段階の「知識の習得」の目標は、知識の幅を広げることではなく、ある知識や技術を習得することにあります。「知識への扉」のステージでは、質より量が勝負でしたが、いざ知識や技術を習得させる段階では、反対に量より質が重要となります。
 自明のことですが、間違った情報をインプットしてしまえば、知識や技術の習得は叶いません。教科書にも大量の間違いがあったりするようですが、それでは、知識の習得にはなりません。あくまでも「正しい情報」をインプットしなくてはいけないのです。
 また、当然のことながら、正しくない方法で繰り返し練習するのも意味がありません。そんなことをいくら繰り返しても、時間の無駄(失敗から学ぶという反面教師的にはそうとも限りませんが)に過ぎず、知識や技術の習得には至りません。ゴルフでもスキーでも、ピアノでも絵画でも、自己流は厳禁です。先人たちの知恵の総体が、すでにあるわけですから、それを自分で一から始めるような愚は避けるべきでしょう。つまり「求める技術」を「習得するに導く」指導者・アドバイザーを「選ぶこと」が必要になるわけです。
 世間には、子どもを通わせるための、多様な教室や習い事があります。しかし、そもそも、そこに通う理由は何なのかを考え、どんな技術を、どのくらいの期間で身につけさせるのかを明確にしているような教室なり指導者を選び、正しい方法で、また最短距離で、目標とする知識や技術の習得を目指すことが大切です。その思考を面倒がって省いてしまうと、幼児期や児童期の大切な時間を「とりあえず」取り組ませいてる「なにか」に費やし、結局は「なにが」身についたのか「わからない」状態になるでしょう。ああ、お金と時間がもったいない。

 インプットの質に関しても、もうひとつ重要なポイントがあります。それは、

「消化できる内容をインプットする」こと。

 食事にせよ知識にせよ、インプットされたものが食物であれば消化、概念であれば理解されて「栄養」や「知識・技術の習得」などの身の一部となることが重要です。そのためには、学習者のレベルに合わせた、適切なインプットが必要となります。
 本人の理解の範疇をはるかに越えた概念を、「理解」を無視してパターンとして記憶させることは、ここまで述べてきた論理に参照すれば、単になる「記憶」の部類に過ぎません。つまり、覚えてはいるけれども「身になっていない」わけです。
 身体に例えれば、消化できないものは、いくらインプットされても排出されるばかりで、一向に身にならない。ほのかに記憶に残っているかもしれないが、いざ実践にはあまり役立たない、そんな応用の効かない知識に留まります。せっかくの知識ですから、単なる記憶や表面的なパターンの習得ではなく、本人がその概念を理解できるところまで育ててやるのがこの第二段階となります。


⑤インプットはインプット、ターゲット知識をマスターするまでインプット

教えるのではなく習得させる

教えるのではなく習得させる 「知識のインプット」に際して重要なのは「教える」のではなく、第一段階では「知る機会を与える」こと、第二段階では「自ら習得するインプットを与える」ことです。

 教えるのは厳禁。教えると、こんなことが起こります。

 まず理解できない我が子を見て、親はイライラする。すると「教えたくなる」、そして我慢できなくなって「説明」し始めるわけです。子どもは、そもそも理解できないのです。前段で述べたところの、理解できないものを教えようとすると、子どもたちは単に記憶するか、パターンを学習します。これでは身にならない。それどころか、子どもたちは「理解する」ことをやめてしまって、ムキになっている親の顔色を伺いながら「記憶する」ことで、その場を凌ごうとするようになります。

 どうですか?どなたにも一度や二度、身に覚えのあることではないでしょうか。


間違えていなければやらせる

間違えていなければやらせる ひとつの知識を理解するには、さまざまな過程があります。例えば、一般的には「記憶」が中心に行われる掛け算の仕組みを理解するには、いろいろな考え方があります。
 「それぞれ5個のいちごが乗っている皿が3つあるとき、イチゴの数は?」という設問に対して、「ごさんじゅうご」とやっても、逆に「さんごじゅうご」(こちらにはバツをくれる先生もいます)とやっても答えは同じです。いずれにしても、これらは記憶の活用です。
 これに対して「5足す5足す5で15」と、足し算で答えを出す人もいるでしょう。また、「5、10、15」と五飛びで答えを導く人もいるかもしれません。例えば、同じいちごの皿が9皿ある場合には「50引く5」と引き算で答えを出す人もいるでしょう。いずれにしても「5が3つ(あるいは9つ)」の答えを導き出していることに変わりはありません。
 この答えに辿り着くのに、どのような思考を経ても問題ないのです。そのような思考を繰り返しながら「掛け算」という概念を「理解」していくわけです。記憶した「掛け算九九」から、数字の増え方のパターンを「理解」していくようなやり方もあるかもしれません。最終的な理解に到達する過程では、どんな思考が行われても良いのです。「このやり方でないといけません」と決めつけずに、自由に考えさせることが大切です。

 例えば、技能の例としてスキーを挙げれば、こちらも「間違えていない限り自由に」やらせる、つまり子ども自身にインプットさせるのが、その子に最も適した指導法です。ひとつの技術を身につけるのにも、それぞれ子どもの個性があり、両足が綺麗に揃うが内足にも乗ってしまう子がいれば、なかなか足は揃わないが外足の使い方が上手な子もいるでしょう。後者に「ボーゲンをするな」と言ってもなかなかそうはいきません。しかし、インプットによって本人の技術が向上する中で、いつしか内足を畳むことに気づくようになるのです。

 学校英語の規範文法(学校文法)のように、知識や技術の細切れを、誰が決めたかよくわからない難易順に一列に並べて、その順番で習得させようと躍起になるよりは、間違えていない限りは、子どもの好きなようにさせて、いつしか自らその技術をマスターするように仕向けるのが、最も自然な習得方法なのです。


 さて、今回はインプットとアウトプットの関係―直接的には関係していない、つまりインプットしたものがアウトプットされるのではない両者の関係―を見て参りました。その後、脳というコンピュータの OS を担う「言語のインプット」と、ソフトウェアの役割を担う「知識のインプット」の違いを見てきました。さらに、知識のインプットについては、「知識への扉」となる量のインプットと「知識の習得」の糧となる質のインプットの二段階があることを見て参りました。

 最後に、ひとつ疑問を投げかけておくことにしましょう。以上の話をベースに考えると、子どもの「絵本」は買うべきでしょうか、それとも借りるべきでしょうか。また「絵本」を買うことにおけるメリット・デメリット、さらには借りることにおけるメリットとデメリットは何でしょう。ぜひ、思考実験してみてください。答えは「英語子育て大百科」にて解説することにしましょう。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
地頭の良い子の育て方
「できない子」を「できる子」に変える方法
子どもの教育に悩むたった2つの理由
完・船津流「育児論」
小学生向け英検準1級対策

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特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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