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2025年5月号特集

Vol.326 | 認知力?非認知力? 大切なのは…

従順に育てておいて「それじゃダメだ」という社会。非認知能力を問われる22歳からの半生

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2505/
船津洋『認知力?非認知力? 大切なのは…』(株式会社 児童英語研究所、2025年)


認知能力から非認知能力へ

認知能力から非認知能力へ 先月号の『パルキッズ通信』では、私たちの考える「賢く稼げる人に育てる教育」を地頭力講座の分類に沿って書きましたが、「認知能力」つまり知性の部分の、言語力と論理性で紙数が尽きてしまいました。今回は、引き続き「非認知能力」の部分、倫理観とメタ認知能力について考えていきたいと思います。

 簡単に前回のおさらいと補足をしましょう。人間の能力、五感を通して外界の状態を認識する能力には、認知能力と非認知能力があります。ヒトの精神活動には、昔から「知情意」と呼ばれる、知性、感情、意志があります。ちなみにコレ、西周がプラトンやカントの整理の仕方を日本語に訳して、それが定着したようです。「知」とは言わずもがな知性のこと、IQなどで表現される能力です。「情」とは情動で、こちらはEQなどとも言われますね。そして「意」は意志で、最近ではGRIT(グリット、粘り強く目標に向かう力)とか、リジリエンス(困難に凹んでも跳ね返す力)などとも言われます。まぁ、GRITとかリジリエンスなどと改めて新しい概念を創造するまでもなく、「意志」のことです。
 しかし、なんとも理不尽なことではありませんか。小学校から高校までは、誰かが決めたカリキュラムに従い、授業や概念を「理解」できなかったら「記憶」して、先生の言うことに従順に従うことが要求されます。先生も流石に声に出して「従え」とは言わないまでも、フランケンシュタインさながらの妖怪ぬえのような「タスク」が、子どもたちの特性や性格、能力や意思に関係なく与えられます。
 そこにうまく順応できれば、中学受験、高校受験、大学受験での成功者となります。しかし、それもつかの間、後の就活では、やれ「リーダーシップだ」「コミュニケーション能力だ」「主体性だ」と、生まれてこの方、学校でも家でも要求されたことのない能力がいきなり求められるのです。しかも、その能力、つまり非認知能力に含まれる多くの社会的スキルを身につけられるか否かは運否天賦、家庭環境や家庭教育、あるいは育つコミュニティーや本人の性格によるのです。ああ、残酷。
 さて、その非認知能力の話です。生きていくうえで、知性だけではいけません。非認知能力を構成する共感力がなかったり、やる気や粘り強さが不在だったりしては、いくら頭が良くても人としてあまり役に立ちません。しかし反対に、共感力とか意思のような非認知能力が高くても、知性がお粗末では、これまた人の役に立たないどころか、場合によっては迷惑千万でしょう。認知能力と非認知能力の両方を育てていくことで、バランスの良い人格、つまり「他と社会を尊重し慮りながらが、自らの信念を貫く」ような人格が形成されるわけです。

 整理すると「認知能力」の知性、地頭の分類では言語力・論理性と、「非認知能力」の感情・意志、こちらも地頭の分類では倫理観・メタ認知能力をまんべんなく育てていくのが理想です。ただし注意点。これらは、それぞれに育てればよいわけではない。発達には順序があります。基礎の上に建築するのは常識中の常識、でもそれを無視した砂上の楼閣的建築がしばしば行われている。はい、それは今の日本の教育です。
 言語力の中の知覚力(それをそれと認める能力)が低ければ、理解力は役に立ちません。中学生が新聞を読んでも、概念が理解できなければ、理解どころではなく、チンプンカンプン。知覚力が貧弱とはそんな状態です。また、知覚力や理解力など言語力の基礎となる部分が弱い段階で、プログラム教育で論理性を伸ばそうと思っても、それは小手先に過ぎません。
 プログラムは論理の権化、書いた人の頭の中が丸見えです。ああ恥ずかしい。言われたことをやっているうちはこんなものですが、全体像が見えるようになれば、話は別。スッキリとしたプログラムを書くためには、スッキリとした思考、つまり高い論理性が必要です。でもって、そんな知性がプログラム教育で育つと考えるのは、「風呂に入る人は健康なので風呂に入ろう」レベルの論理性。つまり、プログラム教育で論理性を育てる、ということ自体が非論理的と言えるでしょう(ちなみにプログラム自体を教えるプログラム教育は “そう” 悪くはない)。逆に言語力を十二分に育てれば、僅かな取り組みで論理性は深まっていくことは先月号で述べました。
 同時に、強すぎず弱すぎずの「適度に高い倫理観」が、非認知能力の健全な発達には不可欠です。言い換えれば、倫理観欠如で「他人に不利益な悪いことと知りつつ、違法でないからやってしまえ」とか、逆に倫理観過剰で勧善懲悪的な急進的な思想を持つのも問題です。あくまでも「適度な」倫理観が必要なわけです。
 非認知能力のもうひとつは、「メタ認知能力」です。知識を総合する能力です。通常思考は垂直型で行われます。知識を総動員して論理性を担保しつつ、ひとつのことを掘り下げていくやり方です。ただ、こればかりだと新しい発想が生まれてきません。論理的な垂直思考は大切ですが、何かを生み出したり、問題を解決したりするには拡散的・夢想的な水平思考が必要となります。これは総合的な思考、さらには自らを俯瞰する能力とも関係しています。このあたりが自己肯定感に直結します。さらに主体性やコミュニケーション能力とも密接な関係を持つようになります。これらは後述します。


非認知能力の倫理観とメタ認知

非認知能力の倫理観とメタ認知 「非認知能力」を地頭力的に分類すると、倫理観とメタ認知能力となります。「知情意」では「情意」に該当しますが、感情と意思だけではヒトの精神作業を網羅できないので、「非認知能力」のほうがより広範なカバータームとなります。「非認知能力」には自己制御や社会的スキル、動機づけや感情制御、あるいは創造性が挙げられます。「情意」では、このように「非認知能力」のうちの動機付けや想像力などがこぼれてしまうわけです。もっとも、知情意の概念は古代から近代の哲学者によって整えられた考え方ですので、「自己肯定感」「リジリエンス」などの暇が生み出す新興概念は、生きるのに必死な当時の時代のスコープには入っていないでしょう。
 さて、地頭力における倫理観は、これらの自己制御、社会スキル、動機付け、感情制御とは関係していますが、それと同時にメタ認知能力(自分を俯瞰する認知力)もここに大きく影響しています。また、様々な知識も合わせて俯瞰することから、いわゆる「水平思考」つまり想像力にも繋がるので、倫理観に加えてメタ認知能力をも高めることが、非認知力全体の向上に資すると期待できます。

 繰り返しておきますが、本稿(前稿から引き続き)は歴史や文化によって異なる様々な概念、さらには学問分野によって異なる概念範疇が、包含関係、類義関係、あるいはひとつの概念が別の概念の前提になっていたりする、それら雑多(と言っては失礼ですが)な概念を整理整頓するのが目的です。例えば、知性を高めるためには、知覚力が理解力の前提になります。倫理観も健全な判断の前提です。非認知力という概念は、GRITや自己肯定感など複数の概念を包含します。また、自己肯定感は自己効力感と類義ですが、後者が前者の前提になっていたりします。また、GRIT やリジリエンスは知情意の「意」に分類されますが、到底本人の意志のみでは、それらの能力は身につきません。
 それらの概念群を力技で整理整頓しようというのが本稿の目的なので、「なるほど」と膝を打っていただき、少しでもお子様の教育に関する思考の整理に役立てれば幸いです。また、「それは違うだろう」という細かいご指摘はぐっと堪えて、忘れていただき、引き続き思考の整理術をお楽しみいただけることを願っております。

 さて、それでは非認知能力の倫理観、メタ認知能力、及びそこから引き出される能力を見ていくことにいたしましょう。


倫理感

倫理感 地頭力講座では認知能力、知性の部分を「言語・論理」に分けています。すでに述べたように、高い言語力が論理性の前提にないと、論理も何もないので、まずは「言語」その後に「倫理」を持ってきています。同時に、非認知能力の「倫理観・メタ認知能力」は言語・論理のあとに育てるものではなく、これらの知性と、つまり認知能力と一緒に育てていくものと位置付けています。
 さて、非認知能力を高めるのと同時に、なぜ「倫理観・メタ認知能力」なのでしょう。非認知能力には、まず自らを知ること、他者を知ること、そしてそれらを統合すること、自らと社会との関わりの中で、自分がどのように振る舞うべきか、といった要素が含まれます。つまり、最終的には自らの振る舞いの基準になるのが、非認知能力と考えられます。他者との関係の中で自らがどう振る舞うか、他者と関わる社会の構成員として、どのように社会に役立ちながら、自らの幸福を追い求めるか。これは、まさに非認知能力の関与する知的活動です。

 人は一日に35,000回もの判断をしていると指摘する論があります。何を食べるか、何を着るか、どこに住むかに関してどんな判断をしようか、個人の勝手です。本人の責任、まきぞえになる家族以外には無害。
 しかし、例えば、学校ではいじめられている子がいる、職場では仕事の処理が追いつかなくて困っている人がいる、街中では人が倒れている、助けが必要そうな人がいる…。そのような場面に遭遇したときに、どのような判断をするのかは論理性だけでは足りません。倫理観がないといけない。しかも、適度な倫理観でないといけない。倫理観が弱すぎれば見て見ぬふりをするし、強すぎれば余計なお世話になったり、弱者を救わない社会への怒りになったりする。
 高い知性を持っていても、人の気持ちなどまるで意に介さず、自分の研究に没頭するだけの人もいます。高い知性を持っていても、人々を騙す人もいます。高い知性を持っていて法律の知識もありながら、公益を切り捨て自らの利益のために、論理を駆使する人もいます。この人たちには「(健全な)倫理観」がないのです。
 私たちは「倫理観」を大切にしています。認知能力を最大限に発揮するために、非認知能力を最大限に発揮するためには、前提としてある程度以上に高い、適度な倫理観が必要になる、という考えが根底にあります。


適度に高い倫理感

適度に高い倫理感 それでは、倫理観はどう育てるのでしょうか。倫理観とは生育の過程で育まれるものなのでしょうか。学校には道徳の授業がありますが、そのような教育カリキュラムによって身につけさせるものなのでしょうか。
 倫理観に関しては、これは「人間に普遍的である」という考え方があります。そもそも、倫理観とはなんぞやと考える人自体が少ないのかもしれませんが、それを考える人々の中で「時代や文化を超えて人類に共通である」という立場を取る人は、少数派ではありません。
 例えば、困っている人がいれば、それを助けようとするのは、日本人だけでなく、世界中で行われています。そう言えば、以前、大阪の友人との会話の中で、東京の人間は、路で横たわっている人に声をかけないのか、と訝っていました。関西では「大丈夫か」と声をかけるそうです。これ、東京の人が冷たくて、関西の人が温かいわけではないでしょうし、同じ東京の住人や関西の住人でも、声をかける人もいれば、かけない人もいるでしょう。声をかけないのには「論理性」が働いているのでは。つまり、面倒である、トラブルは嫌だ、時間がないなど論理のせめぎ合いに、倫理観が負けてしまっているわけです。
 ただ、基本的な倫理観は人類に普遍であるという事例は、お馴染みの「トロッコ問題」などに現れています。皆同じ判断をするのです。さらに、興味深いことに「トロッコ問題」「橋の上の男問題」「外科医のジレンマ」では、似たような状況に対して、一様に異なる反応を示す傾向があります。つまり、「トロッコ問題」では、5人を救うためにレバーを引いてトロッコを1人の方向へと切り替えることが広く受容されます。しかし、「橋の上問題」では、5人を救うために1人の太った男を橋から突き落とし、トロッコを止めることには、多くの人が反対します。そして、「外科医問題」では、1人の健康な人の臓器を移植して5人を救うことには、賛成する人は殆どいません。このように、とある命題に対して分岐や言語が異なっても人々は同じ反応を示すことから、倫理観は人類共通であるという考え方が行われるわけです。

 こう考えると、善悪・正邪の感覚は世界共通、少なくとも日本人内では共通する倫理観のはずです。つまり、いじめは悪い、盗みも悪い、困っている人は助けてやりたい、と自然にそう思うはずなのです。しかし、「トロッコ問題」と「橋の上問題」でも見られるように、同じ5人を助けることに対して、消極的に1人を犠牲にし5人を生かす「功利主義」と、1人を殺すことをしない「義務論」の間で揺れ動いています。また、「利己主義」のように自らの幸福を重要視する考え方や、マキャベリズムのように「目的のために手段を選ばず」といった考え方もあります。これらも倫理的であるという考え方もありますが、基本的には否定される立場が大勢でしょうし、私も賛同しかねる立場です。
 この意味において、やはり適度な倫理観、自分は社会の一員であり、社会に貢献する責任があり、弱いものは助ける、強いものに屈しないという、日本風には緩やかな「武士道」を考えていただければよいでしょう。「善悪の判断ができ、他者を尊重しながら、自らの幸せを主体的に追い求めることができる」それがここで言うところの「適度に高い倫理観」ということになります。

 それでは、倫理観を育てるために、どんな取り組みが必要なのでしょう。詳しくは「地頭力講座」に譲るとして、簡単にポイントだけお伝えします。ポイントは3つ、「見せる、説明する、考えさせる」です。この3つの前提として、親子の対話があります。親子で自由に対話する習慣のないところで、いきなりこの取り組みはできません。子どもは嫌がるでしょうし、親の価値観の押し付けになります。くれぐれもご注意ください。
 さて、最初の「見せる」は簡単ですね。親が、常に理想とする倫理観に則った行動をすることです。そして、それを子どもに見せてやることが重要です。「説明する」のも簡単です。「ダメなことはダメだ」などと思考停止せずに、なぜダメなのかを説明する。親の取った行動、あるいは友人の行動などについて話し合う際にも、何が良くて何が悪いのかを説明してやることです。そして、「考えさせ」ます。「あなたはどう思う」「自分だったらどう感じる」と考えさせるのです。簡単そうですが、意外と実践していないご家庭が多いのかも。
 このように、丁寧に子どもと向き合って対話する。子どもの考えに耳を傾ける、他者も尊重するような語りかけを受けた子どもは、自分が良ければ良いという利己主義には陥らず、目的とするところの適度に高い倫理観を身につけられるはずです。


メタ認知は思考の余裕から

メタ認知は思考の余裕から 倫理観の次にメタ認知能力です。メタ認知には、大前提として思考に余裕がないといけません。つまり高い知性が必要。そもそも、メタ認知能力とは「自分の考えや行動を客観視し、そして制御する能力」ですから、高い知性は必要不可欠。いかがでしょう。大人でも満足なメタ認知能力を身につけていらっしゃらないケースもあるのでは?
 メタ認知能力は、早い子では3歳くらいからその萌芽が見られます。自分が「こうしたからこうなった」と、まずは自分の行動を客観視できるようになります。その後、行動のみならず思考に関しても「自分はこう考えている」と内省できるようになります。その後、自分の思考パターンから行動、さらには感情についても、少しずつコントロールできるようになります。

 人は一日に35,000回の判断をしているという論があると書きました。そこには口にするもの、移動中など、主に思考がほとんど関与しないような習慣的な判断も含まれます。電車の発車ベルを聞くと走り出す、歩行者信号が点滅しだすと走り出すといった行為は、おそらくその人が自ら築き上げた習慣による判断からくるのでしょう。
 ただし、メタ認知能力が高まると、「なぜ発車ベルが鳴ると自分は走るんだろう」と自分の行動を客観視するようになります。そして、「走るのには意味がない」「逆に走ることは危険であり他人に怪我をさせる恐れがある」ことにも思いを馳せることができるでしょう。ちなみに僕の知り合いが、ホームへのエスカレーターを駆け下りてきたサラリーマン風の男性に突き飛ばされ骨折したことがあります。その男性はそのまま駆け去ったとのことですので、メタ認知能力ばかりでなく倫理観も未熟だと言えます。
 メタ認知能力が高まると、自らの行動、あるいは思考パターンを内省し「なぜ?」「おかしいな」「直すべきだな」と気づきます。歩行者信号の点滅や発車ベルに反応して走り出す自分が、傍目に「良い年して見苦しいな」と気づくことができれば、ベルが鳴っても信号の点滅が始まっても、走ることなく立ち止まることが、より論理的に価値の高いことがわかるでしょう。すると、更に論理的に思考し、「走るくらいなら5分前に行動しよう」との結論(ボーイスカウトの皆様なら当然)にたどり着けるのです。

 このメタ認知能力は、勉強のやり方の振り返りに役立ちます。役立つというか、メタ認知がうまく行っていない子は、取り組み中の眼の前の課題が、何のために存在しているのすらもよく分からないでしょう。そして、我武者羅に問題を解く。単なる時間の無駄です。
 他方、メタ認知能力を働かせる子は、自分の弱点を見つけ、様々な学習方法と参照して、適切な学習方法を選択する。さらには、それに要する時間等を考え、計画も立てることができます。「“できることを頑張る” 手前から思考」ではなく、「”ゴールを想定し予定を立てる”計画的思考」ができるようになります。それができない子は、塾や学校の先生、あるいは親に言われたことをやるのみになります。おそらく、そんな子は思考力も弱く、記憶に頼る学習を進めることになってしまうでしょう。
 スポーツの世界でも、メタ認知能力の差が際立ちます。メタ認知ができる子は、自分のプレーの何が問題か、その改善には何が必要かを意識し、さらには実際のプレー中にすら自分の姿勢をモニタリングするような離れ業も可能です。これは思考に余裕がなければできません。さらには、自らの緊張の度合いもモニターし、それを制御するようなことも可能です。こんな思考の余裕は、大人でも、人によっては難しいのではないでしょうか。メタ認知能力の高い子は、こんなことをしているのです。我武者羅に頑張っているだけの子が、メタ認知能力の高い子に勝てると思いますか?

 さて、メタ認知能力の育て方ですが、こちらも具体的なやり方は「地頭力講座」に譲るとして、ポイントだけ述べることにします。こちらも3つ、「計画、実行、振り返り」です。これらすべて「思考」と「親子の対話」ができることが前提です。倫理観のときと同じように、トピックについて親子で語り合うことになりますが、そのときに、子どもの思考を中心に話を進めなくてはいけません。指導したり、考えを押し付けたりすると、言うことを聞くだけの子になってしまいます。メタ認知どころか、非認知能力全体に悪影響を及ぼします。
 「計画、実行、振り返り」については説明するまでもないでしょう。目標を立て、「計画」する。その際に実行可能かどうかを知性をもって検証する。「実行」するにあたりとても重要なのが、ワーキングメモリです。ワーキングメモリが乏しいと、ひとつのことに夢中になってしまい、気付けばゲームオーバーになります。ワーキングメモリについては、長くなるので、今回は省きます。そして、「振り返り」。これも簡単ですね。考えさせることです。その際に、否定しない、決めつけない、指導しないことが大切です。誘導するのはOKですので、ぜひ誘導中心に会話を進めましょう。


自己肯定感は自己効力感から、自己効力感はメタ認知から

自己肯定感は自己効力感から、自己効力感はメタ認知から さて、メタ認知能力。これが高まると、計画・実行・振り返りが上手になります。これは、何に繋がりますか?計画・実行・振り返りを繰り返せば、着実に目標に近づきます。そして、目標をクリアして、次の目標へ。これは何でしょう。そうです。成功体験です。自己効力感とも言います。つまり、「自分ならできる」と漠然と感じるようになるのです。これは、何においてもです。勉強においてメタ認知ができれば、それは勉強に対する自己効力感です。しかし、この「自分ならできる」感覚は、勉強だけにとどまることがありません。スポーツでも楽器演奏でも、それこそあらゆる技術を「自分ならできる」と感じることができるのです。
 これは、何?そう、これこそが「自己肯定感」です。もちろん、自己効力感が高くても、育つ環境によっては自己肯定感が低いケースもあります。例えば、勉強はすごくできるし、やれば何でもできるが、それに関して親が無関心であれば、自己肯定感は低いままです。ただ、一般に本誌の読者を想定すれば、少なくとも子どもの成長に関心のない親御さんはいないはずなので、これは該当しないでしょう。自己効力感を高めることによって、自己肯定感も高まると考えて差し支えないでしょう。


主体性と自主性・積極性・自律精神の違い・・・ここからが豪華なおまけ♪

主体性と自主性・積極性・自律精神の違い・・・ここからが豪華なおまけ♪ 非認知能力を育てるにあたって、倫理観とメタ認知能力を高めれば良いことは述べてきました。それでは、ここからは主体性に乏しくコミュニケーション能力の低い日本の社会が求めて止まない、これら2つの能力に関して、非認知能力との関係を観察していくことにしましょう。まずは、主体性から。

しゅたい‐せい【主体性】
自分の意志・判断で行動しようとする態度。「―のない人」「―をもって仕事に取り組む」
【デジタル大辞泉】

 主体性は、自主性や自律性などと「何が違うんだろう」「全部一緒みたいな…」と感じる方も少なくないと思いますが、やはり違います。自主性は「人に頼ることなく自分で考え行動する」、自律性は「課題・行動の選択と制御」なので、自主性より少し偉そう。自律性は存在する課題などに取り組む、自主性は人に頼らず自分で考え行動する。そのうえで主体性は、「存在するかしないかわからない課題に対して、人から指摘されるまでもなく、自発的に発見・選択、そして自律的な実行」までも含む概念と考えてよいでしょう。

 「言われてやる」人が大勢を占める中、「言われなくても」「こちらが気づかない課題に」取り組むわけです。そんな人が組織に一人でもいれば、心強いことこの上ない(いや、無能な上司たちにとっては面倒か。そんな会社にいる必要はないですね)。反対に、主体性のない経営者では心細いことこの上ない。また、主体性がなければ研究者にはなれません。演奏家にはなれても、芸術家にはなれないでしょう。例外として事務職につきたいならば、主体性などは持たないほうが良い。日本では「言われたことをやっていて」「そつなくこなせば」何となく人生を送れるわけです。しかし、そんな型にはまらないような子に育てるのであれば、主体性を育てる他ありません。
 主体性のある子の特徴として、「なんだか理由のわからないものに熱中する」「間違いを恐れない」などの特性があります。前者に関しては、関心・研究の対象を自ら選択し、徹底的に取り組むことで、周囲にはそのように映るのでしょう。また、後者についても、主体性のある人は倫理観・メタ認知能力、そして自己肯定感も高いので、「失敗することから学べる」ことを知っているのです。
 このように、自ら選択肢、勇猛果敢に課題に取り組んでいく、当然粘り強く、失敗してもくじけない、そんな性質すら含意するのが「主体性」です。素敵でしょう?そして、そんな主体性については、あえて身につけさせようとする必要はありません。「適度に高い倫理観」並びに「メタ認知能力」を身につける過程で、”おまけ”として主体性が勝手に身についてしまうのが「地頭力講座」です。すごい。


高いコミュ力はどこからくる?

高いコミュ力はどこからくる? 井戸端会議。皆さんお好きでしょう。何を話しているのか、といえば他愛もないこと。いやいや、他愛もないことばかりではなく、ゴシップもあります。自分以外の出来事を非公式にやり取りする、例のアレです。日本人に限らず、言語を持って以来、ヒトは寄れば話が始まる、そんな生き物なのです。
 話をすること。これは本能と考えて良いのですが、さらに掘り下げてみましょう。いくら本能的に這えるからといって、人はあまり這いません。食べることは本能ですが、食べるものは選んだりする。つまり、本能的に与えられている能力でも、何でもかんでも無選択に常に発揮するわけではないわけです。本能的にできてしまうけれど、行動の選択には何か別の動機があるのかも、と考えると、井戸端会議にも別の景色が広がります。
 今日では見ることはできませんが、古来日本では旅の者をもてなし、逗留させる文化がありました。そこでは、旅回りの人を囲んでいろいろな話を聞いたそうです。なぜ旅回りの人の話を聞くのか?それは、新しい情報を仕入れることが喜びだったからでしょう。知るということは、それほど楽しいことなのです。現在も残るお遍路さんのおもてなしは、その名残ともいえるでしょう。
 これは日本に限りません。洋の東西を問わず、旅人を大切にする風習があります。このもてなしは文化から宗教にまで昇華しています。キリスト教でもイスラム教でもヒンズー教でも仏教でも「旅人は神」とか「旅人をもてなすは義務」などなど、未知の世界の未知の情報をもたらす旅人を大切にするのは共通の信仰のようです。つまり、文化から宗教に至るまで、人の「知りたがる」本性を満たす「会話」、またはそれをもたらす旅人を神々しいものと捉えていたのでしょう。
 さらに、もうひとつ。別段、新しい情報をもたらさないご近所さんとの会話はどうでしょう。ご近所さんに限りません。旅先で袖擦り合う人との会話、これも楽しい。別段ゴシップである必要はなく、天気の話でも、地域の話でも何でも良い。他愛がなければ、他愛がないほど、新しい発見があったりして楽しい。そして、それがストレス発散になっている。つまり、話すことはストレス発散になるのです。ストレスが人を殺しますので、会話を楽しむことで、長生きできるかも。

 これってすごいですね。話すということは、人間本性の知的欲求を満たすと同時に、ストレスの発散にもなる。道理で普段からストレスを抱えている女性が話好きであるはずです。
 この「話好き」の本能と、非認知能力のコミュニケーション能力と、どんな関係があるのか。関係大有りです。「コミュニケーション能力」は単なる「話好き」では必要条件を満たせません。コミュニケーション能力とは「相手とうまくコミュニケートする」能力のことです。まるで”コピペ”のように、どの学生に対しても同じ話をする大学教授、マニュアル通りの受け答えをする窓口担当などは、一切コミュニケーション能力を発揮していません。コミュニケーション能力とは、相手に合わせて円滑に情報のやり取りをする能力なので、一方的に、定型で発信するのではまったく足りません。
 そこで、必要になるのが、相手を理解しようとする気持ち、つまり相手を尊重する倫理観、さらには自分がどのように相手に理解されているのかをモニターするメタ認知能力です。つまり、これも前項の「主体性」と同様に、倫理観とメタ認知能力を高めていく中で、自然と獲得される能力なのです。

 すごくない?

 ついでに、確固たる倫理観を持って、人を尊重しながら自分を主張する、相手の考え方を理解したうえで、自分の考えが伝わるように、ペルソナを想定しながら丁寧に論理展開する。このような高いコミュ力を持っている人は、その前段で必要な「自己肯定感」もある、「理解力」「思考力」と倫理観に基づいた判断力もあるでしょう。そんな人たちは、自然とリーダーになるのです。

 さて、最後に「水平思考」の話をしようとしましたが、これも紙数が尽きました。また別の機会に書くことにします。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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