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2023年8月号特集

Vol.305 | 都会で行うスローな育児

夏休みだからこそできることがある

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2308/
船津洋『都会で行うスローな育児』(株式会社 児童英語研究所、2023年)


夏休みが勝負!?

夏休みが勝負!? 夏休みですね。子どもたちが、普段の「型にはめられた教育」環境から解放される1ヶ月間です。いや、考えてもみてください。学期中は毎日8時から15時まで、好むと好まざるとに関わらず、誰が作ったか、学習成果が上がるのかも不明なカリキュラムに則って勉強させられるわけです。
 楽しい授業をしてくれる先生もあるかも知れませんが、そのような子どもから見て優秀な先生は、教育村の住人の間では、もしかしたら優秀どころか目の上のたんこぶかも知れません。また、指導要領など見れば、「なぜここまで?」と思うほど、やることが細かく決まっています。しかも言いっぱなしの文科省。先生方のご苦労には頭が下がります。
 そんな3ヶ月半から解放されるのが、夏休みです。

 ところが、親の方では、子どもが居るとゆっくりはしていられない。「毎日子どもがいるなんて大変」なんて声も聞こえてきます。確かに、学期中は朝送り出せばホッとひと息つけますが、夏休み中は、昼ごはんも作らなければいけないし、昼間からグデグデ、ゴロゴロ、ゲームやテレビ三昧の我が子を見れば腹も立ちます。手持ち無沙汰でやることもなく、飽きてしまっている我が子に、「宿題やったの?」と聞き続けるのも腹が立つので、「もう外注でもしようかな」と思うわけです。あるいは働く母親であれば、子どもの面倒をどう見るのか、はてさて何をさせるべきなのか、悩ましいところですね。
 そんな状況を見て、教育産業も黙ってはいません。「すわ、夏休みこそ、差をつけろ」とうたいつつ、夏季講座を開催したり、期間限定の「特別講座」などなど、親を煽るわけです。この点で、母親と教育産業は利害が一致しています。親はお金を払って自由を得る、教育産業はお金をもらって子どもを預かる。
 いやはや結構なことではありませんか。しかし、ですよ。そうやって夏期講習に通っている子は、一向に頭が良くならない。もちろん、「成績は上がる」でしょう。しかし、「頭は良くならない」のです。この違い、分かりますか?

 ここで、ひとつ提案です。せっかくの夏休みです。学校教育やその補助の塾などの、誰が作ったかわからない画一的、疑似学習直線のくびきから我が子を解き放ち、本当の意味で「頭の良い子」に育ててみてはいかがでしょう。
 宿題をやるな、塾に通うな、とは申しません。やりたい方はどんどんやれば良い。しかし、もし、ですよ。学校から、あるいは塾から与えられることをいくらこなしても「根本的に我が子を頭の良い子に育てることはできないのではないか」と疑念を抱く親御さんがいらしたら、ぜひこの先、読み進んでいただきたいと思います。

 ということで、毎度のことですが、僕は「考えればわかる」「まともだと思われる」し「論理的に考えればこうなる」と思われるが、世間の常識とはかけ離れたスタンスで書いていくことにします。ただ、繰り返しますが、「みんなと同じこと」「学校から与えられること」をいくらこなしても、「従順な子」あるいは「与えられたことはできる子」には育つかも知れませんが、「頭の良い子」には育たないことだけは繰り返しておくことにします。

 今回は「地頭力講座」を受けていらっしゃる方に向けての「特別講座」と思っていただいても構いません。もちろん、いつも大盤振る舞いの本誌のことですから、無料で幅広く公開いたします。ただし、地頭力講座を受けていらっしゃる方は、おそらく、読み進めると「ああ、あのことか」「このことだったんだ」と首肯すること間違いなし。一段上からの目線で、今月号をお楽しみください。


東京でもできる優秀な子の育て方

東京でもできる優秀な子の育て方 大学受験を考えれば東京に住むのが一番でしょう。東大の合格者は、東京に住む人が30%、東京以外の関東が30%の合計60%、そして近畿からが10%の合計70%です。つまり、関東圏・近畿圏以外はたったの30%。
 これをみて、「ほら、やっぱり東京でしょ」と思ったあなたに、もうひとつ。京大の地域別合格者を見ると、近畿が50%、関東15%、それ以外が35%。こう見ると近畿も悪くないでしょう。
 それでも、やっぱり首都圏とか都市部でしょ?と思われた方。東海地方の秀才は、圧倒的に70%以上が名大に行く。九州地方の秀才は、圧倒的に60%以上が九大に行くわけです。その他の旧帝大もしかり、地域出身者が地域の旧帝大へ行くわけです。
 東京が1300万人と圧倒的に人口が多く、東京を除く関東が3000万人。近畿は2000万人。合わせれば、首都圏と近畿だけで6500万人、日本の人口の半分以上がここに集中しています。そう考えれば、旧帝大・一工の半分以上が首都圏と近畿に集中していて、そのエリアの住人が、それらの大学へ進むのは当然です。
 しかし、逆に首都圏と近畿以外の旧帝大には、それらの地元の人が進学しています。そう考えると、私学を除けば、東京一極集中とも言えないわけで、地方にいながら旧帝大へと進んでいる学生は、都市部に住んで東大・京大へ行く学生と同じくらいいるわけです。

 つまり、東京にいなくても、都会にいなくても、優秀な子どもを育てているご家庭は山ほどあるわけです。確かに、都会にはさまざまな教育施設もあれば、情報も多い。しかし、もはやインターネットの時代です。ここ20年ほどは、インターネット・リテラシー(ネットリテラシー)さえあれば、住む場所を選ばずに知的な生活を送ることができるようになっています。
 ちなみに、「ネットリテラシー」というと「ネットセイフティー」のことばかり騒がれますし、チャットGPTがどうだこうだ、乗り遅れるな、いや子どもには使わせるな、などと騒がれますが、ネットリテラシーとは、言ってみれば「インターネットをうまく使いこなす認知力」のことです。電車や飛行機のようなものです。便利なものは、なんでも使えばよろしい。
 閑話休題。
 都会では、情報やサービスの多さに圧倒されて、結局何がしたいのかわからない子育てをしているご家庭も少なくありません
 これ、僕は「足し算の教育」と呼んでいます。つまり、色々良さそうなものがあるから、あれこれ手を出してみる、そして、習い事にがんじがらめになって、親も子も疲弊していく。そして、疲れ果てている我が子を見て、(自分がそうしたにもかかわらず)「勉強漬けでかわいそうだ」とばかりに、ご褒美(?)にゲームを与える…。どんどんやることが増えてしまうわけです。一体、何がどうなるかもわからないものに対して、子どもの時間がどんどん奪われていくのです。
 あるいは、小学校、いや幼稚園から子どもを教育のレールを敷いて、「この中学」「この大学」へと進学させるために、一歩も踏み外させないよう子育てをすることもあります。いやはやご苦労様なことです。そうして、東京であれば東大・東工大・一橋でも進学できれば御の字です。大抵は “MARCH” あたりに落ち着くのではないでしょうか。
 “MARCH” も結構なことです。ただ、“MARCH” へ行かせたいなら、幼稚園のうちからプリント漬け・習い事漬けにする必要はないでしょう。頭の良い子に育てておけば、高校受験からでも十二分に手の届く大学です。特に「パルキッズ」卒業生たちは、英語の強みがありますので、もはやMARCHレベルの英語はクリアしていると思っても良いのです。
 さてさて、そのような都会のぎゅうぎゅう詰めの育児がある一方で、もっとゆったりとした教育があります。それが僕の推奨する「引き算の教育」です。以下、もう少し詳しく見ていくことにしましょう。


「引き算の子育て」とは?

「引き算の子育て」とは? 身近に色々なサービスがあれば、手を伸ばしたくなる気持ちも分からないでもありません。普通、必要なものがあるから買い物に出かけます。例えばスーパーに出かけます。必要なものを買い出しに行くわけですが、果たして必要なものだけを買って帰るのかと言えば、そうではありません。店側が「ほら、お得ですよ。これが必要でしょう?」と提示したものまで買って帰ってくることになります。
 台所には、使っていない調味料がありませんか?冷蔵庫の奥には、消費期限切れの食材がありませんか。三度三度の食事のことなら、まぁ、それも仕方がないでしょう。しかし、デパートへ出かける。もちろん必要なものを買いに行くわけです。しかし、そこでも予定の買い物リスト、つまり必要なものに加えて、店側が「ほら、お客さまにはこれが必要なんですよ!」と提示してきたものまで、ショッピングバッグに入っていることも珍しくないでしょう。
 教育もこれと同じ。近所のスーパーやショッピングモール、電車で数駅のデパートよろしく、「ああ、これも必要だった」と買い込んでいるのが、多くのご家庭の現状でしょう。それって、本当に必要なんですか?むしろ、子どもの教育に本当に必要なものとは何なのでしょうか。考えたことがありますか。

 「読み書き算盤」などと言いますが、一昔前までは一人前に文章を読めて、綺麗な字が書けて、四則から始まる論理ができれば事足りたわけです。それで立派な「事務員さん」です。もしくは、それ以外の技術を鍛え、工員さんとか職工など技術の世界へ進むわけです。工員・職工さんなどは、技術と専門知識で勝負ですから、事務員よりよほど安定、それどころか給金が高いのが今の日本でしょう。
 もはや、今日では「読み書き算盤」という基本的な認知能力では、豊かな社会生活を送る資源としては不十分です。文科省が言うように、それ以上の認知能力である「思考力・判断力(・表現力)」が求められる世の中になっているのです。
 計算や正書はコンピュータがやります。ヒトには「読める」「理解する」そして「思考する」能力が求められます。しかし、今の教育は「読める」「理解する」「思考する」能力を育てているのでしょうか?

 何だか分からないものを「これが良さそうだ」とあれこれ足していくのではなく、「読める・理解する・思考する」能力を育てることが重要です。計算問題をひたすら解かせてみても、この能力は身につきません。逆に、これらの能力を身につけていれば、算数・数学、あるいは理科・物理もできるようになります。
 つまり、当面は「読める・理解する・思考する」能力を育てることに集中すれば良いのです。もっと削りましょう。「読む」というのは、これまた理解力が高まり、語彙が豊かになれば、自然と身につく能力です。毎日絵本やお話に触れているだけで、文字など教えなくても、一人で自然と読めるようになるのです。すると、「理解する・思考する」の2つの能力を身につければ良いことになります。
 最近の日本人は、この2つの能力に関して随分とお粗末な印象を受けます。算数や社会、国語の授業も「理解」できれば、塾など必要ないのです。しかし、皆「理解」できない、だから「記憶」するわけです。もともと理解力が低いわけですから、学校に塾を足しても解決しないことが珍しくない。結果、次善の策として「記憶」するしかないのです。それどころか、学校や塾では「理解」させることを諦めて、最初から「記憶」させることも「普通」に行なわれているので、この危機感のなさには閉口です。
 そんな事情により、「地頭力講座」では「語彙力・理解力」を伴った言語能力を身につけさせることを第一として、その後に「論理性」と「倫理観」を身につけさせることを目標としています。つまり、「地頭力講座」を受けて、しかもきちんと実行していれば、「理解力」に関しては、問題はクリアされているわけです。あらまぁ、ラッキー!

 さて、すると残るは「思考力」です。このように、やるべきことを減らしていくのが「引き算の教育」です。


人間は考える葦である

人間は考える葦である 頭の良い人に共通していることがあります。彼らは「考える」のです。仕事が与えられれば、その仕事の意味を考え、成功に導くよう取り組みます。「この仕事の目的は何か」「そもそもなぜこの仕事が生じているのか」と考えます
 これが、そうでない人の場合には、与えられたことしかしません。イベントの運営を任されたら、マニュアルに書いてあることだけ行う、新しい事例が発生しても、とにかく前例主義で処理する。つまり、新しいことはやらない。今日の日本の「ダメ」なところです。
 今、ネットの発達とコロナ禍が相まって、ものすごい勢いで変数としての地理的な制限が軽減されつつあります。もちろん、その反動で物理的な移動を伴う観光産業は活況を呈しています。しかし、この潮流は止まらない。 Zoom飲みやオンライン帰省など、友人親族との触れ合いも多様化しています。そして、極め付けはビジネスの世界。物理的な制約から解放されることで、どれだけの時間とお金のコストが軽減されたことか。インターネットで繋がれることで、ミーティングなども手軽に開催できるようになりました。
 テクノロジーや人々の生活スタイル・仕事のスタイルの変容を考慮すれば、従来のマニュアルや前例主義では解決できない、新しい問題もたくさん生じるでしょう。
 そんな中、頭の良い人が「イベント」を任されれば、その人は「どのように仕掛ければ、今の生活スタイルに合わせて、多くの人に参加してもらえるのか、そして皆が満足してもらえるのか」を考えるはずです。しかし、そうでない人に任せると、マニュアルや前例の枠からはみ出さずに、「恙無くことなきを得ること」に終始するのです。「そもそもなぜこのイベントが行われるのか」などについては「そもそも」考えてもいないのでしょう。

 人間は考える葦である。”L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant (Pascal).” 「人間は(自然界でも最も弱い脚の一本に過ぎないが)、考える葦である(パスカル)」わけです。あるいは時代が少し前後しますが、 “Je pence donc je suis (Decartes).” 「考える、故に我あり(デカルト)」なわけです。
 どういうことか。前者「考える葦」は、すべての葦が考える。また、後者「考える故に我あり」なので、存在する我は押し並べてすべて考えるわけです。つまり、人であれば、もう選択の余地なく「考える」ことはセットになっているのです。現代言語学風に言えば、「ヒトは突然変異で言語を獲得してしまった、そして言語がある故に一人悩む」 とでもなりましょうか。それはそうでしょう。言葉がなければ、深い思考もできないでしょう。悩みようもないわけです。

 繰り返しますが、人として生まれてしまった我々は、考えることもセットされた存在なのです。「思考力」云々言いますが、もともと思考する生き物なのですよ。では、なぜ思考力が弱い人がいるのか。


考えるのは辛いこと

考えるのは辛いこと 人は放っておいても考えてしまいます。特に「考えるな」などと言われれば、余計考えてしまいます。「白いギターを想像するな」と言われれば「白いギター」を思い浮かべ、「失敗を考えるなな」と言われれば「失敗ばかり」が脳裏をよぎることになります。我が子に向かって「あんたはダメねぇ」と言えば「自分はダメだ」が脳裏に浮かび、「勉強ができないからねぇ」と言われれば「勉強ができない」と思い込んでしまう。言葉というのは恐ろしいですね。

 横道にそれましたが、人は考えずにはいられないのです。座禅を組んでみてください。無心になろうとしても、雑念ばかり入り込みます。「考えない」ことなど到底できないのです。しかし、瞑想するとなるとこれも難しい。心を集中して、ひとつのことを考え尽くす。これは、考えないことと同じくらい大変なことです。
 人には経済性の原理が働いています。面倒なこと、体力を使うことは避けようとします。考えることはとても体力を使います。そして、考えることから逃げるために、人は雑談をし、酒を飲み、娯楽小説を読み、テレビを見るのです。これらは、人を思考から遠ざける格好の言い訳です。最近では、それにYouTubeやゲーム、スマホも加わって、人はどんどん考えることから遠ざかっています。
 繰り返しますが、考えるのは辛いこと、体力を使うことです。それを避けるためのツールが、今の世の中には溢れているのです

 平安時代、貴族たちはみんな暇でした。暇で暇で仕方がない。月でも見るしかないわけです。雲で月が隠れれば、ああつまらない。そして、何か考えてしまう。恋する人のことばかり考えてしまう。そして、考えに考え抜いて、呪い殺してしまうこともあるくらい。実は呪い殺すのではなく、呪われている方が、考え過ぎて憔悴しきって死んでしまう。あるいは、怒り狂って、その怒りのガス抜きのツール(テレビやゲームなどの娯楽)がないものだから、本当に気死することもあったでしょう。実に、自分を死に追いやるほど、人は考えることができるわけです。


考えられないとはどういうことか

考えられないとはどういうことか これほど、考えることから離れられない性に生まれついた人間ですが、すでに述べたように、現代人は幸運にも「思考」から逃れる娯楽という術に恵まれています。そして、程度の差こそあれ、どんな人でも思考から逃げることをしています。ほっと一息つくための一杯のコーヒーや、愛煙家であれば一服することもあるでしょう。
 問題は、その一服の頻度と思考の深度です。一服の頻度は思考の深度と “負の相関” があるようにも思えます。つまり、思考の深度が浅いと、年柄年中考えることから一服に逃げる。逆に思考の深度が深いと、これは瞑想になります。時間が経つのも忘れて夢中になって考えている。気付けば「もう夕方か…」なんてこともあるわけです。もちろん、思考の深度が深い人でも、考えに煮詰まることもあります。そんな場合に、気分を変えるのはとても大切なことです。
 しかし、問題は深く考えることでがきないこと、そもそも深く考えるだけの能力や知識を持ち合わせていないことです。解決すべき何らかの課題に関して、いくら考えても結論が出ないことがありませんか。そして「今、結論を出さななくても、ま、いいか」と考えるのを中断、先延ばしする。1ヶ月後にまた同じことをする。1時間考えても結論が出ないから、また先延ばし。気づけば、そのことに関して、1年、2年と何もしないまま、時間ばかりが過ぎている。
 これが、日本のDX化が遅れている原因の最たるものでしょう。そして、当面の手当てだけする。本質を抉り出すことをせずに、表出している事象に対する表面的な手当てだけしておく。そして、糸がどんどん絡んで、問題はどんどん複雑化して、結局、そのまま「将来の知恵」に委ね「当面の手当」だけでやり過ごす。こんなことでは、少子化が進むのも無理はないでしょう。

 もちろん、深い思考ができる方はたくさんいます。アカデミアの世界にも、経営者の中にも、そんな人たちはいます。ただ、そうでない人が多いことと、そうでない人が権力を持ったりすると「面倒だな」ということです。企業のトップや政治家がそのような質であるのは、もはや我々にもどうにもできない。しかし、私たち一人ひとりが「思考」することはできるわけですし、「思考を深める」ことも可能です。それよりも何よりも、せめて我が子は深い「思考」ができるように育てなくてはいけません。
 
 さてさて、それでは思考が深まらない理由は何でしょか。
 これは単純明快です。ひとつに知識がないことが挙げられるでしょう。我が子に深い思考力を与えたいならば、知識を豊かに育てていかなくてはならない。語彙を豊かにしなくてはいけません。この点に関しては「地頭力講座」で実践していただければ良いので、これ以上は触れないことにします。
 しかし、もうひとつ。上でも繰り返し述べていますが、我々大人ばかりでなく、子どもまでも「息抜き」の名の下、各種の娯楽に逃げているケースが少なからず見受けられます。これに関して、最後に考察していきます。


夏休みが勝負

夏休みが勝負 以下の話はどれだけの方が理解できるか不明ですが、少なくとも「地頭力講座」を受けている方なら理解できるはずなので、その読者を想定して書いていきます。

 「暇」がキーワード。夏休みは暇なんです。何しろ学校がないんですから、毎日少なくとも6時間は暇ができます。さて、その暇を何に使うか。これが問題。
 「夏休みにこそ差をつけろ」などと言いますが、これまったくその通り。夏休みを活用すれば、色々なことができるようになります。さまざまな技能を身につけることもできます。
 ちなみに、僕は小学生の頃に昭和歌謡やポピュラー音楽というジャンルでギターを身につけました。アコースティックギターで、あるいはジャカジャカ、あるいはアルペジオで弾き語っていたわけです。
 まぁ、それはそれで楽しかったのですが、高校1年生の初めの頃、友人に誘われてバンドでギターを担当することになりました。そのバンドがロックなわけです。当時のことですから、ご存知ディープパープルなどです。すると、いわゆるフォークギターとは勝手が違います。
 そして夏休み。一念発起というわけではありませんが、当時「これは難しいぞ」と言われたとある楽曲を、暇に飽かせて日がな一日弾き続けました。もう、修行みたいなものです。朝から晩まで、同じ曲しか弾かないわけですから。すると手が勝手に動くようになって、自動演奏のようにその曲が弾けるようになる。他のことをぼんやり考えている間に、気づけば終わっている。気づけはギターを抱いたまま寝ている、なんてこともあるわけです。
 結果、高一の夏休みにその楽曲を弾けるようになったことで、それ以降、大抵の洋楽のギターはこなせるようになりました、とさ。です。

 1ヶ月あれば大抵のことは身につきます。1ヶ月あれば、思考する習慣を身につけることも可能です。1ヶ月で知識を深めることはできないまでも、瞑想することを体験させて、日常的に思考を深める作業に抵抗なく取り組める認知力を身につけることはできます。  さて、それでは具体的にどうすれば良いのでしょうか。


課題を与えてぼんやりする

課題を与えてぼんやりする 簡単です。ぼんやりする時間、暇で暇で仕方ない時間を作り出すのです。
 いまどきは、暇を埋めようとする思考が一般的ですが、その逆をいくわけです。せっかくの夏休み、人と同じことをしても人とは差がつかない。それなら、人と違うことをして差をつける。そう。ぼんやりする時間を与えて、考える癖をつけていくのです。
 なぜ「ぼんやり」なのか。
 子どもは「おもちゃ」を持っていますね。あ、ゲームはダメですよ。あれはエンターテインメントなのでキリがありません。そうではなく、一般的なおもちゃです。ブロックでも良いし、ミニカーでも、電車の模型でも、お人形さんでも構いません。それらで好きに遊ばせる。思う存分遊ばせる。夢中で遊んでいる、ごっこ遊びをしているときに、子どもたちの頭の中は現実社会と目の前の夢の世界との境目なく、遊びに没頭します。
 一見無駄な時間に見えますが、これこそが思考の始まりです。夢想の世界で、彼らの想像力は目まぐるしく世界を広げていくのです
 すると、観察が細かくなります。車の種類、電車の種類、人形の仕組み、物の構造などなど、細かいところに目がいくようになります。そして、さらに没頭して遊ぶ。すると次第に飽きてきます。そして、別のおもちゃへ。この繰り返しです。

 さて、ここからが重要。暇に飽かせて、遊ばせるのですが、何か課題を与えたいですね。つまり、考える「種」。それは、子どもが遊んでいる興味の対象の図鑑でも良いし、好きなものなら何でも良い。電車が好きなら電車の図鑑、植物に興味があれば植物図鑑、されらに関連する絵本やお話があればなおのこと良い。さらに一歩進めて、関連する歴史や人物に関する書物も用意する。そして、子どもが手に取れるところに置いておくわけです。
 これが種。
 そして、おもちゃの世界や図鑑の世界から、一歩、現実の世界へと飛び出させる。つまり、実際に見せるわけです。鉄道博物館でも良いし、恐竜の化石でも良い。このようにして、ひとつの世界、電車や植物、あるいは恐竜などについて考察を深めることができるようになると、この思考術は、他の分野でも使えるようになります。


「種まき」から「水やり」へ

種まきから水やりへ おそらく、本誌をお読みのご家庭に育つようなお子さんなら、もうすでにこの点はクリアされていることでしょう。つまり、ひとつの事柄については、ある程度以上の知識を持っている。いわゆる “〇〇博士” ですね。
 ここから先は、更なる「種まき」が必要となります。同時に「水やり」も大切です。
 「種まき」とは、さまざまな概念を子どもに紹介すること。例えば、星座や化石、社寺仏閣、城などの建造物、古墳をはじめとした遺跡、観光名所や自然公園などなど、何でも良いのでその存在を、背景となる物語を交えて子どもたちに紹介します。
 もちろん、最初はフラッシュカードだけでも良い、物の名前を入れるだけでも入り口にはなります。しかし、子どもたちの想像を掻き立てるには、その背景にある物語を聞かせる必要があります。
 そして、ここまでが「種まき」。その後、「水やり」となります。
 「水やり」は、もうお分かりでしょう。そう、実物を見せること。

 科学のやり方は皆同じ。電車博士に育った子、昆虫博士に育った子は、おもちゃや模型、あるいは図鑑などでその特徴を学びます。最初は全体をひとつとしてみるでしょう。しかし、次第に細かいところに目がいくようになる。例えば、「クワガタはアゴ、カブトムシはツノを使って戦う」とか、「足が何本で節がいくつ」とか、蝉の鳴き声を聞き分けられるとか、電車なら色で見分けるばかりでなく、型までわかるようになるとか、そんな具合です。
 そして、その知識は実物に接することで、さらに深いものとなるのです。

 「種まき」と「水やり」、課題を与えることと、実際に見せること。これは、本来は日頃から行うべきことです。しかし、日常は学校や幼稚園や他の習い事で忙殺されていることが少なくないでしょう。そこで、夏休みを大いに活用するのです。


答えのない問題を自ら問う子に

答えのない問題を自ら問う子に 夏休みを活用するなら、人と違うこと、日常と違うことをしましょう。
 いつもは、「間違えるのはやだなぁ」と感じながらプリント学習に取り組んでいるかもしれません。答えを言いたがらない子どもたちは、間違えるのが嫌だから答えを言わないのです。
 子どもが何か事実と異なる発言をしたときに、安易に「違うよ」と言ったことはありませんか。それは、本当に「違う」のでしょうか。「違う」という前に、なぜそのような発言になったのか、一度心に問うてみると良いかもしれません。ひょっとすると、親が思い込んでいる「正答」ではない、もっと深い「正答」を言っているのかもしれませんし、あるいは何か勘違いをしているのかもしれません。

 子どもの間違い、勘違いは「宝庫」です。それらの発言によって、子どもの成長、あるいは子どもの思考の在り様を推察できるヒントなのです。そんな素敵な宝を「違うよ」のひと言で片付けてしまってはもったい無い。
 それよりも何よりも、「違うよ」のひと言の積み重ねは、子どもからのせっかくの発言を封じることになります。プリントばかりやらされた子が、間違いを指摘されることを嫌い、しまいには問いに対して自分なりの考えを言うことすら躊躇するようになります。
 これは、日本の教育の悪いところですね。イマドキの大学生たちを見ていて、つくづく感じます。日本人学生は発言を恐れる、間違いを恐れるのに対して、外国人学生たちは、堂々と自分なりの考え、あるいは答えを提示するのです。

 間違えるのを恐れる子どもに育ててしまうと、答えることを嫌うばかりか、問われることも嫌います。そして、問われることと、それに対して間違えずに答えることに馴化させられた子どもたちは、自ら問いを立てることをしなくなるのでしょう。言われたことにしか、答えられない。言われたことしかしない。上で述べたような「考えない」人に育っていくのかもしれません。

 さて、今回は、夏休みの有効な過ごし方について、考えて参りました。都会は良きにつけ悪しきにつけ、選択肢が豊富で、魅力に満ちたサービスで溢れかえっています。結果として「いらんものまで買っている」のかもしれません。逆に、田舎では選択肢が少ないので、都会に比べれば子どもたちは伸び伸びと過ごせます。つまり、暇なのです。
 人生において重要なのは「答えのない問い」を立てること、それに対して「自分なりの答え」を見つけ出すことです。そして、より正しいと思われる答えを出すためには、豊富な知識と、それをもとに深く考える習慣が身についていなければなりません。
 そして、深く考える習慣、つまり「思考力」を育てる取り組みが、日常的に行われていない現代の日本の教育環境にいる限り、深い「思考力」を身につけるのは困難であり、その結果、頼りない思考力の子どもが育っているのです。
 そして、人生に役立つような深い思考力を育てることが、日常的な教育現場では叶えられないのであれば、それは家庭で行うしかなく、それも、非日常である夏休みは、そのような特殊な取り組みを開始する時期として最適だと考えます。都会に住んでいても、夏休みを使って、田舎の子育てのような、スローな育児を実践してみてはいかがでしょうか。今年の夏のひとつの提案でした。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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