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2025年10月号特集

Vol.331 | 「地頭力」を鍛える子育て

賢い子を「家庭」で育てる3つの「認知」

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2510/
船津洋『「地頭力」を鍛える子育て』(株式会社 児童英語研究所、2025年)


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経験に昇華しない体験はただの思い出…

経験に昇華しない体験はただの思い出… 子育て世代の皆さまにとって、最近よく聞く「体験格差」や、古くから言われる「学力二極化」いった言葉は気になるところでしょう。もっとも、体験格差の例として、千葉県のとある遊園地へ行ったことがあるかどうかの話を持ち出す専門家やメディアの論調には笑止千万ですが、体験格差も学力二極化も、確実に存在することは間違いありません。まず、この辺を切り口に話を進めましよう。

 最近色々なところで “切り売り” されている「体験」とは、そもそも一体何でしょう。体験はお金で買えるのでしょうか。おそらく “買える” というのが前提なのでしょう。「体験格差」という背景には「所得格差がある」という前提が言外に横たわっています。つまり「とある体験ができない貧困家庭がある」ということ。これって、社会の不満のガス抜きで、メディアご用達の「すごいぞ日本!」の別バージョンなのでしょう。まぁ、そんな貯まる不満のガス抜きに使われるようになってしまった「体験」ですが、繰り返します、そもそも体験って何でしょう?

 「体験」とは、哲学・教育学・心理学、あるいは機械学習の世界において、「生の知覚データ」のことだそうです。そのままでは、ただ何かに “触れただけ” ということ。それが内省などのメタ認知を通して咀嚼され普遍化されて「経験」となるそうです。つまり、いくらお金を積んでも、本人の気づきや思考のプロセスがなければ、せっかくの「体験」も、「そんなことあったかな」程度の単なる「思い出」に終わるのが関の山。ああ、あの遊園地に行ったっけ…みたいな。
 以下、「体験」が「経験」となる例です。

 小4の夏、キャンプ体験に出かけました。そこで、飯盒炊爨(すいさん)やキャンプファイヤー、ハイキングをしました。これは素晴らしい機会です。しかし、せっかくの機会も受動的に時間が過ぎればただの体験止まり。つまり、キャンプに行って「あー、たしか、何かしたな」と、そこまで。飯盒炊爨は「面倒くさかったけどご飯ができた」、キャンプファイヤーは「歌や踊りで楽しくて、火は熱かった」、山歩きは「なんだか疲れたなぁ」でおしまい。
 この体験を元に内省すると、例えばこんなふうにレベルアップ。単に火を付けるだけでなく、薪の組み方を考えないと簡単に火は入らないことを学ぶ。歌や踊りを教えてくれたお兄さんお姉さんたちは、みんな丁寧で親切だったので嬉しかったと感じ、私も人にはそのように人に接しようと考える。また、山歩きは疲れたけど、みんなで励ましあっているうちに少しずつ元気が出てきて最後まで歩けた!私にもできた!と、こうなれば、これは単なる「受動的な体験」ではなく、「能動的な経験」です。

 つまり、“体験” はお金で買えるけれど、それを “経験” に昇華できるか否かは本人の思考力次第なのです。

 学力においても、お金をかければ、いくらでも授業は “体験” できますが、それが受動的であれば学力には繋がりません。学力向上には、内発的な学習が必要です。塾も予備校も結構なことですが、それらの箱は “そもそもの頭の良さ” を育ててはくれません。今ある知能に効率よく学力を積み上げる “機会” の提供が関の山なのです。もちろん、地頭の良い子が、優れた先生と巡り会えれば、それはそれはドラマになるような、びっくりするような学力の向上もあるかもしれませんが、ウチの子にはそんなめぐり合わせは「無いに近い」と考えておくのが無難でしょう。


親の心意気が二極化の始まり

親の心意気が二極化の始まり 昔から知性は二極化していました。ただ、素朴な二極化。たまたま親が世界の在りように関心があり、思慮深く、学ぶ姿勢を持っていれば、その子どもたちは自然と学ぶようになります。なぜなら、暇だから。昔は、親のマネをするくらいしか他にやることがなかったのです。そして、そんな子たちは、友達との遊びにも早々に飽きてしまって、思考という哲学の世界の住人となり、様々な事象を黙々と科学するようになります。
 今日の二極化は、それとはまったく様子が異なります。 “知性” が二極化しているのではなく、「受験」に向けた「偏差値」獲得のレースの中で、それを志す親とそうでない親を持つ子どもの “学力” が二極化しています。知性全体の話ではなく、受験に向けた学力限定の話なので、勉強はできるけど、ほかの点では残念だ、などということもあるようです。
 そんな偏った二極化の渦に、子育て世代が巻き込まれているのですが、親が同調性バイアスの虜になっている自分をメタ認知して、ふと立ち止まることができれば、別の世界も見えてきます。そう。わざわざお金を払って〇〇体験をさせなくても、育て方次第で、日常の生活の中から、子どもたちは様々な学びができることに気づくのです。しかし、そのこと、つまり子どもが自ら学習するように育てることに、親が「無知」であり、「無関心」であり、さらに結果として「放置」することによって、現代日本の歪んだ学力格差はあり続けます。もっとも、みんながそれで幸せなら、それで結構なことなの “かも” しれませんが…。

 親の無知・無関心に関わる二極化の代表例は英語力ですね。”英語を身につけるだけ” であれば、『パルキッズ通信2025年8月号』で述べたような「メタ言語力」を育てれば達成できてしまいます。インターナショナルスクール(インター)や留学のような特殊な経験は必要ありません。しかし、国語力が英語力に影響する核心に横たわる「メタ言語」などという概念を知らなければ、留学させるか、インターへ行かせるくらいしか選択肢がないのでしょう。もちろん、インターに通えば英語圏の授業について行ける程度の英語力は身につきます。
 しかし、です。英語に大金をつぎ込むことによって得られるのは「頭の良さ」ではなく、「ありふれた英語力」だけです。日本人ならば、頭の良い人もそうでない人も日本語を使っていますが、それと同じことです。頭が良いか悪いか、つまり十分に高い認知力があるか否かと、英語で授業を受けられる程度の英語力を身につけることは、まるで別の次元の話です。

 大切なのは、賢く育てることです。”CEFR : Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment、外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠、セファール” のB1レベル(日本人中学生の日本語レベル)のバイリンガルでも、賢くなければ、オウムみたいなものです。しかし、なかなかこんな単純なことに気づかない人も多いようで「英語ができればどうにかなる」という信念をもった集合は、未だにたくさんあるようです。
 つまり、親が何をすべきか、どうすべきかを、今ひとつ分からないまま、英語をはじめとした体験にお金を費やしているようなのです。

 親と子の心がけひとつ、いや2つで、お金をかけずとも、賢い子に育てられるのですが、残念なことに、そのやり方を知らない方があまりにも多い。我が子を優秀に育てるにおいて必要なのは「親の知識」と、それによって育まれる「子どものやる気」です。この2つが揃ったときに、子どもはあらゆる環境で、あらゆる事象において、常に「学びのスイッチ」の入った状態になれるのです。
 そして、親の与える環境から、子どもが自然と学び始める「スイッチ」を入れるための “親の考え方” の確固たる柱を形作ることが、我々の考える「地頭力」のありようです。お金は、まぁ、少しは必要ですが、大した額ではありません。あとは、親が賢く子どもを育てるために、親自らが何をすべきかを知るだけなのです。

 「地頭力」の育て方は本稿の最後に取っておくとして、その前に、まずは皆さまとお子さまがどんな環境に置かれているのかを正確に理解しておくことにします。英語を含めた習い事問題、中学受験問題、部活や高校受験・大学受験に関すること、さらには就活まで、これからお子さまの前に様々な状況が起こります。そこに直面して慌てないように、うろたえないように、二極化と格差について、より正確に理解するために、現在進行中の格差を少し紹介しておくことにしましょう。


地方と都会、教育する家庭、しない家庭

地方と都会、教育する家庭、しない家庭 さて、すでに『パルキッズ通信2021年5月号』で紹介しているので、ご存じの方はこの節は飛ばしてくださって結構です。
 児童英語研究所では、2021年に『首都圏在住で小学生のお子さまに英語教育を実施している母親を対象にした「子どもの英語力」に関する意識調査』を実施いたしました。

 対象は「小学生の子に英語教育を実施している首都圏在住の保護者」なので、地方とは事情が異なりますが、地方からも難関大を目指す点においては、皆同じ土俵になります。高校受験・大学受験に英語が果たす役割も同じです。地方の場合には都市部に比べて「密度が低いだけ」と考えて差し支えないでしょう。詳細は上述のパルキッズ通信に委ねて、概要は以下のとおり。
 目立ったのは、英語教育の目標が「英会話」もさることながら、「英検受験」であると答えたご家庭が34%と3分の1を上回った点です。同時に驚かされるのは英検の取得級です。「英検なし」が60%であった一方、英検を取得済みの子が4割にのぼりました。その中で「英検5級・4級」は16%に対して、「英検3級以上」は24%で、ざっと全体の4人に1人を占めていました。
 つまり、英語力の低いと思われる英検なしの6割と、英検3級以上の2割5分のグループに二極化しており、そこに薄く5・4級の中間層が挟まれている形です。さらに英語力の高いグループの中で、7人弱に1人の15%は驚くべきことに「準2級以上」を持っているのです。
 今回のサンプルは、首都圏在住で英語教育に関心のあるご家庭に限定されているので、育児世代全体の傾向を表してはいません。そこで、英検協会からの発表などを参考に、独自に分析した結果、小学生で英検3級以上の保持者は全国平均で2.5%、首都圏では同5%と導き出されました。首都圏では、小学校の1学級に1人や2人は英検3級以上の保持者がいるという姿が浮かび上がってきました。

 今回は英語に限ったデータですが、まずは首都圏と地方の格差、同時に英語教育に熱心であるか否かの二重の格差が見えてくるのです。なぜ小学生のうちに、英語力に格差が生まれるのでしょう。理由は簡単です。中学受験をする予定の有無を尋ねたところ、45.1%の半数弱が「ある」と答えています。さらに中学受験予定組に「中学受験のために、いつ英語教育を中断するか」を問うたところ、3人に2人までは「英語教育を中断しない」と答えています。全体の75%が英検の目標級が2級以上で、彼らはすでに高校入試や大学入試を見据えていることが分かります。

 英語だけではありません。『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著 東洋経済新報社)で提示されている正答率などのデータを見ると、英語力ばかりでなく国語力も密かに二極化していることは間違いありません。しかし問題は、国語力の二極化が発覚しにくい点にあります。我が子の国語力(認知力)が高いのか低いのかが、日常の会話や生活からは見えてこないのです。英語に関しては、英検などである程度、英語力全体の能力がわかりますが、国語のカウンターパートの漢検では、国語力の一部しか見えません。
 そして、認知力が低い状態の我が子に気づかないまま塾などに通わせているケースが、かなりのボリュームを占めているものと想像されるのです。これが、上で述べた「塾に通わせても賢さの改善にはならない」と筆者が考える根拠のひとつです。
 また、反対に遺伝的に高い知性を持っている子も、日本の教育システムの中で「思考」からの「理解」ではなく、単なる「記憶」の教育に飲み込まれていき、せっかくの知性を弱めてしまう可能性も見過ごせません。


「認知」以外でも二極化は進んでいる

「認知」以外でも二極化は進んでいる ところで、二極化は英語や国語などの認知領域だけに限定されません。スポーツの世界にも認知力の高低が影響します。
 ウィンターシーズンも中盤から終わりになると、アルペンスキーをはじめとした様々な競技大会が行われるようになります。そこで、出場選手や表彰式を見ていると「ああ、ここでもか」との感慨に覆われます。
 スキーの大会なので、上信越や東北、北海道からの選手が多いのかと思いきや、そうでもないのです。選手の登録情報のリーフレットを見ると、選手名の横に書いてある出身地の欄には「東京」あるいは「横浜」が並びます。
 参加者名簿だけではありません。表彰台も同じです。上位の入賞者は、ほとんど東京などの関東勢が占めます。現に、会場入りすると、子どもたちは「あ、何々君だ」と1年振り、あるいはシーズン中の別の大会振りの再会に喜んでいるのです。もはや競技会場は競技をやっている子たちの社交場のようです。
 スポ根、ガムシャラ、為せば成る、やる気と根性で立ち向かう体ではどうにもならない。認知力をフル活用して、効率良く学んでいる子たちは、言っておきますが、なかなか手強いのですぞ。
 全国野球大会で、野球一筋のイガグリアタマの高校球児たちが、長髪で勉強も遊びも上手な都会の高校生を相手に負けてしまうこともあるのです。昨今、部活でのいじめが問題になっていますが、学業優秀な都会のアスリーツの間では、どれほどのいじめが起きているのでしょうか。少し話がそれましたが、このように、もはや根性論ではどうにもならないのです。認知力の差とはなんと残酷なものではありませんか。


やはり東京か…。その結果、受験で疲弊する都内の子たち

やはり東京か…。その結果、受験で疲弊する都内の子たち 我が子の教育を考え、もし国内で教育環境を自由に選択できるのならば、おそらく多くの方が東京を選ぶのではないでしょうか。東大の合格者数は、東京が30%、東京以外の関東が30%の合計60%、加えて近畿からが10%の合計70%です。つまり、関東圏・近畿圏などの都市部以外からの東大進学者は30%ほど。また、京大の地域別合格者数を見ると、近畿が50%、関東の15%の合計65%で、それ以外が35%です。こう見ると、近畿圏も悪くなさそうです。
 「それ見たことか、やはり首都圏か」と思われた方のために、少し付け加えることにしましょう。東海地方の秀才は、70%以上が名大に行きます。九州地方の秀才も、60%以上が九大に行くわけです。その他の旧帝大もしかり、地域出身者が地域の旧帝大へ行きます。東京都が1300万人と圧倒的に人口が多く、東京を除く関東が人口3000万人。近畿は2000万人。合わせれば、関東と近畿だけで6500万人、日本の人口の半分以上がここに集中しています。そう考えれば、旧帝一工の半分以上の学生が、首都圏と近畿出身者に集中しているのは当然といえば、当然のことです。つまり、私学を除けば、東京一極集中とも言えないわけで、地方にいながら旧帝大へと進んでいる学生は、都市部に住んで東大・京大へ行く学生と同じくらいいるわけです。

 つまり、まったく東京でなくても良いわけです。地方でも、優秀な子はいくらでも育つのです。住む場所、地域の教育環境ではなく、家庭での教育環境が、子どもの優秀さを決定づけているのです。


「認知・非認知・メタ認知」に集中投入で時間と心の「余白」を作る

「認知・非認知・メタ認知」に集中投入で時間と心の「余白」を作る 筆者はこれを勝手に「引き算の教育」と呼んでいますが、賢く育てるためには「ミニマリズム」が大切であり、それによって生まれる時間と心の「余白」が、子どもを賢く育てるにおいて重要な役割を果たします。今の社会は、詰め込み型のライフスタイルが過剰で、親も子も疲れ切っています。今の子どもたちには、何もせずに、星や昆虫、花や歴史について “ぼんやり” と思いを馳せる時間的な「余白」が足りないのです。やれ日本はイノベーションが生まれないだのと言われますが、こんなライフスタイルでは、科学者も哲学者も生まれようがないでしょう。

 幼稚園や小学校から子どもをレールに乗せて、目当ての大学へ進ませるために、少しでも偏差値の高い中学へ進学させようとする。子どもは夕食を済ませてた後も塾通い、家に帰ってからも勉強です。とても大切なことですが、特に幼児・小学生には「睡眠」が、彼らの健全なる身体と精神の発育には欠かすことができません。その重要な「睡眠」とトレードオフしてまで、同じような計算問題の反復や、歴史や公式を「記憶」させているのです。高校生でも同じです。十分な睡眠が取れない状態での我武者羅な勉強は、かえってコスパが悪いのです。

 そして、そこまでして東大・東工大・一橋にでも進学できれば御の字です。そうでなくても、大抵は “早慶” か “MARCH” あたりに落ち着くのではないでしょうか。”早慶、MARCH” も大変結構なことです。ただ、もし“MARCH” へ行かせたいならば、幼稚園児のうちからプリント漬け・習い事漬けにする必要はないでしょう。それらの大学は、地頭の良い子に育てておけば、高校受験からでも十二分に手が届くのです。

 さて、そのような灰色(?と筆者が思っているだけで、当人たちにとってはバラ色⁈)の教育がある一方で、まばゆいばかりに明るくゆったりとした教育があります。やるべきことはやる。同時にたっぷりと「余白」をもたせる。それが筆者の推奨する「地頭力」を育てる教育です。
 上で述べたように、田舎育ちで旧帝一工へ進学する人も大勢います。親の年収も同様です。パワーカップルでなく、あるいは専業主婦家庭でなく、ごく普通の共働きのご家庭で、優れた子育てはできるのです。東大の子の親の5割以上が年収1,000万以上と聞くと「やはりお金か」と諦める人もいるかも知れませんが、この思考をメタ認知すれば、「ん?待てよ。東大へ進学させているご家庭の半分は、年収1,000万未満ではないか!」ということに気づけるのです。
 さらに加えるならば、都内でも塾にも通わせることなく中学受験もせずに公立トップ校から東大へ進む子もたくさんいます。また、高校3年の春や夏まで部活三昧で、部活引退後に本格的に受験勉強を開始、そして旧帝大や難関大に合格する子も星の数ほどいるのです。詰め込み式で合格した東大生からは「本当に頭の良いやつは勉強してない」という話まで漏れ聞こえてくる始末です。本当の頭の良さとは、いかに勉強をしたかではなく、地頭の良さなのです。

 「本当に頭が良い」と言われる彼らは、まったく勉強をしていないのではありません。逆に、休憩中すら常に頭が働いています。頭は使えば使うほどよく働きます。そして、彼らは優れた認知力、非認知力とメタ認知力を持つようになります。もちろん、認知領域の「理解力」も高い。加えて「余白」があるので、「思考」する余裕がある。このように高い認知力があれば、教科書などは一読で理解できます。日本史の教科書、図録、あるいは関連する文献を読んで「一体、鎌倉幕府は何をしようとしていたのか」「武家諸法度は意外とゆるいなぁ」などと考えられるのです。
 前節で紹介した都会のアスリートも同様です。彼らはゲレンデにいる時間の長さは “ゆきんこ” たちには及ばないかもしれませんが、その分「考え」ているのでしょう。自分の滑りやプレーを振り返ってみたり、イメージトレーニングしたりするのです。また、いくら優秀なコーチについても、受動的に言われたことをこなすだけの子に成長は見込めません。しかし、自分で「考える」ことができるように育てておけば、それが地方であろうが都会であろうが、関係なく優秀な子に育つのです。

 「考える子」に育てればよいのですが、これは簡単ではない。単純に「考えなさい」と言うだけでは足りません。それどころか、下手をすれば親子関係に傷を残してしまいます。そうではなくて、自然と考えるように導くことが大切です。まず、高い論理的思考力を育てるためには、その前提として高い理解力が必要となります。そして、高い理解力は、豊富な情報量による高い知覚力に支えられているのです。逆に言えば、高い知覚力が高い理解力を育て、高い理解力が「考える子」を育てるのです。


「理解力」が低いからトータルの認知力が伸びない

「理解力」が低いからトータルの認知力が伸びない「英語より国語」という議論がありますが、さすがの文科省も国語の授業時間を減らしてまで、英語をねじ込んだわけではありません。日本人の国語力に問題があるのならば、それは英語を勉強させているからではなく、国語科のシステムの問題でしょう。  国語力に関して、行政からも研究機関からも、そして公・私教育機関から見過ごされている点があります。本誌では、過去にも何度か「教科書が読めない子ども」について触れてきましたが、この子たちには、決定的に理解力が欠如しているのです。これを「読解力不足」と結論づけてしまうと、何事もうまくいきません。「読力」と「理解力」を分けて考えるような、科学的な思考が必要なのです。
 文科省の指導要領では、「知識及び技能の習得」「思考力・判断力・表現力等の育成」、そして「学びに向かう力・人間性等の涵養」を目指すと謳っています。頭の良い彼らにとっては、「理解すること」など当たり前過ぎて、そもそも「理解できない人がいる」こと自体が “理解できない” のでしょう。その、ぽっかり忘れ去られている理解力が、今の子どもたちの国語力そのものを映し出しているのです。

 国語力、つまり認知力が未熟なことが見過ごされてしまう子どもたちは、なぜそうなってしまうのでしょう。
 簡単な仕組みです。彼らには「読力」は身についています。だから、文章をスラスラ読めます。これは見た目には「ああ、読めているな」となります。しかし、彼らには「理解力」が欠如している。つまり、読めるけれど、読んだ内容がわからない状態にいるのです。極端な言い方をすれば、ChatGPT (AIチャットサービス)のようなもので、こちらの言葉に対応して、それらしく話しますし、なんとなくパラフレーズもする、しかし実はまったく理解していないかもしれないのです。
 彼らは日本語の音韻知識を身につけています。音の連続から単語を切り出すこと(文節)もできるし、文章構造も理解できます。また、音素や音節構造、そして、日本語の韻律も身につけているので、表面的には日本語を聞き取れているし、日本人らしく日本語を話しているのです。つまり、日本語の音を聞き取ったり、ナチュラルに音声化することもできる。周囲から見れば普通の人でしかなく、まさか「この人は私の言っていることを理解していない」だなんて想像だにしないでしょう。こんな恐ろしいことはないでしょう。

 そして、そのような認知力が未熟な子たちは、日頃のテスト対策として「記憶」という作業に頼る以外に道がないのです。国語がうまく行かないので、社会科もよくわからない。また、算数も文章題になるとお手上げで、理科もまったく理解できない。気の毒でなりません。
 逆に、認知力が高ければ国語科は問題ない。社会科もできる。そして、算数と理科もできるという関係性も、様々なデータから分かっています。ちなみに、体育や音楽、あるいは美術の成績は、国語力はあまり関係ないようです。いずれにしても、このようにして国語を普通に理解できる子たちが、どんどん成績を伸ばします。彼らは与えられた課題を正確に理解できるのです。

 このように思考のベースとなる国語力、言い換えれば各種受験に必要な認知力、並びに就活期以降、社会に出てから必要とされる非認知力を総合的に伸ばそうというのが、我々の主張する「地頭力」の目指すところです。


しりとりとなぞなぞ

しりとりとなぞなぞ さてさて、お待ちかね。ここからが皆さんの求める賢い子を育てるための「ノウハウ」です。「地頭力を鍛える子育て」と聞くと、特殊な取り組みをしなくてはいけないだろうとか、お月謝を払って習い事に通わせるかと、お考えになるかもしれません。そして、「どの習い事が良いか」とググることになるかもしれません。

 ひとつお伝えしましょう。そこを堂々巡りしている限り、求めている答えには到達できません。

 昔から賢い子はいました。古代のギリシャにもローマにも、そして日本にも、優秀な人間は大勢いました。日本で本格的に学校教育が始まったのは、明治の終わりごろですし、当時は塾や教材などありません。書籍なども容易に手に入れることができなかった、ましてやテレビやラジオ、インターネットもない頃から、無数の賢い子が生まれては死んでいったのです。

 それでは、彼らはどうして賢くなれたのでしょうか。どうして、今よりも恵まれない環境なのにも関わらず、賢く育っていったのでしょう。

 すでに、増やすのではなく、減らすことで「余白」を作ることが大切と述べました。そして、そんな素朴な生活の中にこそ学習のヒントはあるのです。いくつかの例をご紹介しましょう。
 認知力の中の「語彙」を豊かにするためには「しりとり」といった単純な遊びが効いてきます。自分の知らない語を、他者の発言から学べるわけです。また、リピートはご法度なので、すでに場に上がっている語を記憶しておかなくてはいけません。これは「認知力」の中の「思考力」、あるいは「理解力」の処理能力を左右する「ワーキングメモリ」のトレーニングになります。
 ワーキングメモリに関しては、「神経衰弱」もそのトレーニングになります。一度正体を表した後、再び裏返された札には何が描かれていたのかを、記憶し続けなくてはいけません。これは、かなりワーキングメモリに負荷をかけます。
 また、日常的な「計算」も有効です。100から7、あるいは13ずつ引いていって余りを出す。素数を次々と倍にしていく。なんだか認知症の予防法みたいですが、これでもワーキングメモリに負荷をかけられます。街で見かける車のナンバープレートから、様々な運輸支局の所在地(地名)を読めるようになりますし、プレートの数字から10を作るように四則の計算をするのも、認知、メタ認知、ワーキングメモリのトレーニングになります。また、「囲碁」や「将棋」は論理性のトレーニングにもなります。これは直感的にわかることでしょう。
 さらに、「なぞなぞ」も遊びといってばかにしてはいけません。なぞなぞを解くには、様々な知識が必要となります。しかし、一般になぞなぞは、知識ではなく、いかに自らの固定的な視点から離れて、多角的にものを見ることができるかという点が問われています。つまり、「メタ認知」のトレーニングにもなるのです。
 都道府県名を五十音順で言えますか?もちろん、都道府県名程度は小学低学年のうちに知っていなくてはいけません。それを北から順に言ってみる。南から順に言ってみる。これは認知とワーキングメモリのトレーニングです。さらに県庁所在地でも、同様な取り組みができます。各都道府県の旧国名や主要な都市くらいは知っておいたほうが良いでしょうし、さらに、その土地の名産物、あるいは特定の作物や特産品の生産量トップ3くらいも知っておくと、認知の幅が広がるでしょう。
 非認知領域では、「イソップ寓話」などは倫理観の涵養にもなります。寓話の内容について、家族で語り合ったりすることは、認知領域の語彙力、理解力さらには論理性と、思考習慣のトレーニングにもなり、さらに他者からの意見はメタ認知の気付きにもなります。これは、イソップを使用せずとも、時事ニュースなども思考実験の好教材たり得ます。

 このような、一見他愛もないこと、日常に溢れていることが、子どもたちの認知力、非認知力、並びにメタ認知力を高め、結果として賢い子に育てていくのです。


「分かる力」「感じる力」「気づく力」のトリニティ

「分かる力」「感じる力」「気づく力」のトリニティ 小見出しのタイトル通り、地頭力は3つの領域で成り立ちます。ひとつ目は基本中の基本の認知力です。認知力とは「分かる力」です。ふたつ目は非認知力で「感じる力」、そして最後はメタ認知の「気づく力」です。おわかりでしょうか?ミニマリズム的に、やることを減らしていくと、この3つに収斂されるということです。この3つの育成にバランスよく取り組むように心がければ良い。簡単でしょう。

 それでは、本稿の締めくくりにそれら教育ミニマリズムのトリニティをさらっと説明することにしましょう。

 認知力とは、世界を「知覚」して「理解」する、さらには「論理的思考」を行う過程の全般を指します。そして、非認知力とは、共感力など認知以外の範疇で、倫理観、自己制御、社会性、モチベーションなどがその下位範疇に含まれます。メタ認知力は、非認知との交差が多く、自己制御、社会性、モチベーションなどが重複しますが、メタ認知力を高めることで、水平思考といった創造力が生まれることになります。つまり「認知・非認知・メタ認知」の以上です。
 文科省の指導要領の「知識・技能」さらには「思考力・判断力・表現力」の「表現力」以外は、すべて認知力がベースとなります。「知識」は認知力の中の知覚、「技能」も認知力とメタ認知の交差です、「思考力」はおそらく自閉的思考ではなく論理的思考のことを指しているはずなので認知力です。また「判断力・表現力」には非認知力やメタ認知力が干渉します。こう見ると、文科省の目指す点は、我らがトリニティが網羅しています。さらには指導要領ではほぼ等閑視されている「思考力」が含まれている点、我が「地頭力」は教育ミニマリズムを名乗る資格はあるでしょう。

 さらに、順に軽く触れていきます。


認知力「分かる力」

認知力「分かる力」 我々は、認知力を「分かる力」と位置づけています。自分が何に直面しているのかを知覚して、それが何を意味するのかを理解して、論理的に思考して、何らかの結論を導き出す能力です。知覚力を高めるためには、まず豊富な知識が必要です。眼の前に危機が迫っていても、それを知覚できなければ命に関わります。
 例えば、火災。山間部のトンネル内の火災などで、ある人が煙の逃げる方向、つまり標高の高い方に向かって走り出したとします。正しく状況を認知できなければ、その人の動きを見て同調性バイアスが効き始め、その人と共に上へ上へと逃げるかもしれません。さらに、それを見た人も同じで、この人数が多くなればバンドワゴン効果が生じ、もう思考停止。「赤信号みんなで渡れば怖くない」状態になります。
 他方、この状況を正しく認知できれば、煙は高い方へと向かうので、自分は低い方へと逃げようと考えます。どちらが助かる確率が高いのかは言うまでもありませんね。

 賢明なる読書の皆さまなら、言語によって虹の色の数が異なることを御存知かもしれません。日本などでは、一般に7色と言われますが、これはユニバーサルではありません。ベトナム語では6色、中国語では5色とも言われます。また、少ないところでは、オーストラリアの先住民の言葉では明るい色と暗い色の2色、ミクロネシアでは赤系と青系の2色だったりするようです。
 日本語には、色の名前が豊かで「桜色、牡丹色、紺碧、琥珀色…」などなど、数百から千ほどもあるそうです。エスキモーの言葉では、雪に関する言葉が50以上もあるそうですし、日本語では雨に関する言葉が500もあるそうです。これを知らなければ、単なる「赤、青、雨、雪」ですが、微妙な違いを知っていることで、眼の前の世界がより鮮やかになるのです。
 これは、言語の優劣を言っているのではありません。知覚が、概念の有無に左右されることの証左として提示しています。つまり、知識によって同じ対象が異なって見えるのです。
 このように、まず知覚できることが重要です。場合によっては、先の煙のケースのように、命に関わるかもしれません。これだけではありません。卑近なところでは、道路のあるゆる標識。免許を持つていない人は、これらの標識の意味を知りません。したがって、自転車や、最近よく見る電動式キックボードが、赤信号にも関わらず停止線を超えて、さらに人が横断している横断歩道を超えて停止するのも仕方がないのでしょう。危険極まりないのですが…。


非認知力「感じる力」

非認知力「感じる力」 続いて、非認知力です。これは「感じる力」で、思考などの脳の認知以外の行動、感情、態度や性格などが非認知に分類されます。「気が利く」「優しい」「ムードメーカー」などといった評価を受ける能力です。また、非認知力は、ただ単に気が効いたり優しかったり、場の雰囲気を良くするだけではなく、それ以外にも自己肯定感、リーダーシップ、コミュニケーション能力、主体性、リジリエンスにGRIT…など、多岐にわたります。もっとも、この次に触れるメタ認知との交差が多いので、運動や反射などを除く、地頭力的に純粋な「非認知だけ」というのは、強いて言えば「適度な倫理観」に収まるかもしれません。これに関しては、『パルキッズ通信2025年5月号』を参照してください。
 倫理観などというと、勝手に育つもの、わざわざ教えるものではないと考える人もいるかも知れませんし、そもそも倫理観を子どもに育てようと思うこと自体、稀かもしれません。しかし、倫理観とは人とうまくやっていくのに必要な能力です。倫理観があるからこそ、人のことを思う。だからこそ、コミュニケーション能力やリーダーシップも発揮されるのです。
 ちなみに、認知の論理的思考を経た判断は、しばしば非認知の干渉によって歪みます。「正論ばかり言うな」という言葉に凝縮されていますが、どうも日本では論理的思考の果実、つまり正論は地位が低く、たとえ間違った判断であっても「人情」のスパイスが効かないと人々は納得しないようです。したがって、我々の地頭力では認知領域の「論理的判断」は、非認知力域のフィルターを経てようやく決定されると位置づけています。


メタ認知力「気づく力」

メタ認知力「気づく力」 最後に、メタ認知力「気づく力」です。メタ認知力とは、認知と非認知全体を監視・調整する能力です。例えば、計算問題を解いた後、その答えが「間違っていないか?」と思う能力です。自分の判断は正しいのか、ケアレスミスはないか、考慮から外している要素はないか、忘れていることはないか、と考え「気づく力」です。
 このメタ認知は、非認知領域でも効いてきます。転びそうになった瞬間に踏ん張るなどの身体の動きも、モニターして調整してくれます。また、自己制御はメタ認知のなせる技です。怒りが込み上げたときにそれを抑える、やる気が出ないときに気分転換をする、会話中の相手の様子をモニターして興味がなさそうであれば話題を変える、などなどメタ認知力はなくてはならないものです。また、自分の思考や感情を自覚するこの能力が低ければ、コミュニケーション能力や主体性どころではないことも言うまでもないでしょう。


 以上のような、トータルな認知力を育てるのが我々の考える「地頭力」です。繰り返しになりますが、ポイントはたったの3つ。3つの認知力を育てることです。また、特別なプログラムが必要なわけでもなく、家庭でできることばかりです。
 あれもこれもと子どもに与えすぎ、やることが多くて育児に人生に忙殺されているご家庭も少なくないでしょう。しかし、親が3つの認知力育成に留意しながら、丁寧に子どもと接することによって、片々たる知識・技能の積み上げではない、頭の良さ、つまり地頭力を持った子に育てることができます。そして、一度地頭力が育ってしまえば、あとは子どもが勝手に勉強してくれて、どんどん賢く成長してくれるのです。さらには自分の人生を積極的に切り開いていく力をも、彼ら自身で手に入れてくれることでしょう。


出版に寄せて

出版に寄せて さて、このたび『「地頭力」を鍛える子育て』(大和出版)という本が出版の運びとなりました。私は英語教育のプロですが、早期の幼児教育、つまり、認知力を伸ばす教育にも長い間携わって参りました。また、老骨に鞭打って、言語学も修めて参りました。
 「アウトプット式ではなくインプット式で英語は育つ」ということが40年にわたる筆者の英語教育者としての経験的な実感です。しかし、「なぜこの方式、パルキッズ方式が手軽に英語を身につけるのに適しているのか」という素朴な疑問は、長い間、解けないままでした。そこで、理論言語学の世界に足を踏み入れたのですが、この学問分野において「インプットから英語は身につく」ということは暗黙の了解でした。つまり、ほぼ解決してしまった。
 それと同時に、英語に限らず言語のあり方について、思考を深めていくと「日本人の国語力」の問題に突き当たります。その問題点の在処を探ろうと、認知言語学、言語心理学、あるいは教育学などに関心を広めるにおいて、行き着いたのが「理解力」という、人の認知において極めて重要な点が、日本の国の子育ての中で埋没しているという点でした。
 かつては余るほどあった「余白」が無くなり、あれもこれもとやることに追われているうちに、身の丈以上のことを与えられ、結果として「理解」できないので「記憶」させる、という現代の風潮が生まれたのでしょう。
 いま大切なのは、引き算の発想で思考の「余白」をつくり、子どもたちに様々な事柄に思いを馳せる時間を作り出すことです。子どもから思考の時間を奪うものは、習い事や課題ばかりではありません。ゲーム、テレビ、インターネットといった、「思考」の機会を遠ざけるものに、子どもたちは常に囲まれているのです。
 これをどう考えるかは親の役割です。本稿がきっかけとなって、「地頭力」を育てる子育てを、ひとつでも多くのご家庭で始めていただけることを祈っております。


【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
地頭の良い子の育て方
子どもの教育に悩むたった2つの理由
パルキッズで育つ子の英語力の本当のところ
「覚える」より「考える」ことを好む子どもに育てる方法
完・船津流「育児論」
英検と中学受験の関係を理解しよう

【注目書籍】『地頭力を鍛える子育て』(大和出版)

特集イメージ9 子どもが「読めるのに、わからない」状態を家庭から終わらせる——。
言語学者・船津洋が提唱する“地頭力”とは、認知×非認知×メタ認知の三位一体の力。本書では、日常の会話や体験を通じて「理解・思考・判断」を育む具体的な方法を提示。学力だけでなく、生きる力を伸ばす実践書です。


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次の記事「パルキッズユーザーアンケートレポート(後編)」


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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