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2015年12月号特集

Vol.213 | 「対話」はもう時代遅れ?

変化する若者のコミュニケーション

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1512/ ‎
船津洋『「対話」はもう時代遅れ?』(株式会社 児童英語研究所、2015年)


| 誰でも身につけられる

  普段はあまり気にしていない「コミュニケーション能力」。気の置けない友人と世間話をしているときや、家族と食卓を囲んでいるときに、友人や家族の「コミュニケーション能力の高低」を真剣に考える機会はあまりないでしょう。せいぜい「あの人は話が面白い」とか「話が巧い」などの感慨を抱く程度ではないでしょうか。しかし、一方でとても気になるこの能力。特に就職活動における「エントリーシート」を書く際や、それをクリアして面接へ進むときに、この「コミュニケーション能力」が、にわかに脚光を浴びるようになります。なぜなら、「企業が新卒に求める能力」で、常にトップに上がってくるのがこの能力だからです。裏を返せば、今時の若者に最も足りないのが、この能力だということなのかもしれません。
 ところで、このコミュニケーション能力とは、一体どんな能力のことなのでしょう。ぺらぺらと流暢に「話す」能力なのでしょうか。もちろん、その一面はあります。では、よく喋れば良いのか、といえば決してそうではありません。皆さんの身の回りにも一人や二人、いませんか?無意味なことや無関係なこと、さらには当たり前のことなどをよく喋る人が…。そんな人たちは残念ながら「コミュニケーション能力が高い」とはいえません。単なる「話し好き」の好人物です。
 少し雑学的になりますが、ここでまずは「コミュニケーション」というものについて考えてみましょう。コミュニケーションとはお互いの意志を通じ合わせることです。こちらの考えを相手に理解できるように、整理整頓して発信し、そして、相手の発信する内容を見たり聞いたりしながら、相手の言わんとすることを察していく、この一連の作業の繰り返しをコミュニケーションと言って差し支えないでしょう。
 さて、そのコミュニケーションですが、そこで交わされる情報の中で「言語」の占める割合はほんのわずかです。特に、純粋な「言語情報」は、メラビアンの法則に従えば、コミュニケーションの7%を占めるに過ぎません。
 そのほか、イントネーションや感情の情報を含む「パラ言語情報」と、発信者の性別・年齢などの「非言語情報」の占める割合が38%と言われます。「パラ言語情報」とは、発話者の喜怒哀楽などの感情や強調などの意図的な情報を含みます。例えば、「おいしい?」と尋ねられて「うん」と答えたとします。皆さんは、この「うん」を何通りに言うことができますか?同じ「うん」でも、言い方によって、そこに含まれるメッセージはまったく異なるものになります。それが「パラ言語情報」です。また「非言語情報」とは、発話者の意図に関係なく発信されてしまう情報です。例えば、声を聞いて老若男女の判断はほぼできるはずです。また、体調が悪いのかどうか、寝起きなのかなど、声の調子からわかるような情報を「非言語情報」と呼びます。
 そして、言語やそれに付随する聴覚による以外の情報、表情やジェスチャー、服装などの「視覚情報」が残りの55%と言われています。つまり、純粋な「言語情報」のコミュニケーションに占める割合は1割未満なのです。人物の第一印象は最初の3~5秒で決まるとも言われています。この点だけ見れば、「見た目が半分以上」と言えます。人間の人物判断は、視覚情報にかなり左右されるようです。事の善し悪しは別として、視覚情報もコミュニケーションの重要な一部なのです。  ということは、コミュニケーションにおける言語情報はあまり重要では無いのか?と疑問がわきます。しかし、そんなことはありません。言語情報がコミュニケーションを決定的にすると言ってもよいでしょう。「情報量」としては7%ですが、「情報の質」としては、非言語情報や視覚情報とは比べものにならない重さを持っています。
 コミュニケーションは人間以外の動物や昆虫でも行いますが、言語情報を使用したコミュニケーションは人間のみに許されている特徴です。人が人であることを決定付けるのは「言語」を使用するか否かなのです。
 しかし、コミュニケーションのツールであることは、言語の使用法の一面に過ぎません。言語とはコミュニケーションのツールである以前に、「思考のツール」なのです。言語が無ければ、思考はできません。言葉が無ければ、頭の中にある様々なイメージは混沌としていてまとまりがありません。従って、言語を身につける前の幼児期の思考を思い出すことは、普通できません。語弊があるかも知れませんが、仮説を言えば、記憶をさかのぼって行き着いた先が、言語を身につけた時期であると言えるのかもしれません。


| 言語能力を高めるには

 さて、コミュニケーションと言語について脇道に逸れつつ書いて参りましたが、コミュニケーションのツールである「言語」が、同時に、思考のツールでもあることをご理解いただけたかと思います。
 それでは、人間のコミュニケーションにおいて重要な「言語能力」を向上させるためには、どうしたら良いのでしょうか。
 例えば「話し方の練習」をすれば良いのでしょうか。滑舌よく話す練習をしたり、声のトーンを上げるよう心がけたりする。これはとても結構なことです。滑舌の良い話し方の練習は「パラ言語情報」の操作の練習とも言えるでしょう。また、若々しい声を出すように訓練することは、「非言語情報」を操作しているとも言えます。しかし、「話し方の練習」は、「言語情報」自体の質を磨いているとは言えません。
 また、ものの言い方、言い回しなど、相手に好印象を与えるフレーズの使い方を身につけることは重要です。しかし、これも「相手に与える印象」に主眼を置いていて、こちらが発信する「言語情報」の質には、あまり関係がなさそうです。
 つまり、コミュニケーションにおいて決定的である「言語情報」の質を高めるには、表面的な技術の「練習」では、どうやら太刀打ちできないようです。では、何が必要か?そこで、「思考のツール」としての言語に注目してみましょう。
 自分の頭の中にある思考を整理整頓するツールとしての言語運用能力を高めれば、当然のことながら、自分の発信すべき内容を上手に整理整頓できることに繋がります。また、整理整頓する練習を繰り返すことで思考がより深まり、さらに、様々な視点から整理整頓することもできるようになります。すると、情報を受け取る相手の性質や立場に合わせて、より良く理解してもらえるような論理を展開できるようにもなります。つまり、思考の手段としての言語の運用能力を高めていけば、コミュニケーションにおける「言語情報」の質を高めることができるのです。これこそ、コミュニケーション能力の重要な一部としての言語能力のありかたでしょう。


| 今時のコミュニケーション

 さて、ところで、このあたりで冒頭の「今時の若者」に話を戻しましょう。実際、彼らのコミュニケーション能力は低下しているのでしょうか?
 私事ですが、今春から大学に戻り、倅たちより年下の若者と交流する日々が続いています。そんな中で、確かに「彼らのコミュニケーション能力は高くない」と感じる場面が少なくありません。しかし、それは意地悪な見方です。大人の視点で見れば、若者たちのコミュニケーション能力が大人のそれより劣るのは当然でしょう。年を取って偉そうなことを言うようになった我々も、若かりし頃は単なる青二才。今の若者と、大して変わるところはありませんでした。年齢とともに経験を積み、情報も豊富になり、社会的にもスレてきて、大人ぶったことを言えるようになっただけかもしれません。つまり、今時の若者も、年とともに我々と同じようにコミュニケートが図れるようになるのです。もっとも、我々大人も果たして優れたコミュニケーション能力を身につけているのかどうか、このあたりもはなはだ怪しい点ですが…。この点に関しては後述します。
 今時の若者たちのコミュニケーションの様子を見ていて感じるのは、その能力の低さではなく、その「方法」の変化です。
 コミュニケーションの形態として真っ先に挙げられるのは、面と向かって相手と話をする「対話」でしょう。ビジネスシーンでも、対外的な商談や対内的な会議など、対話で行われるケースが圧倒的です。家族間のコミュニケートや友人間のコミュニケートでも、この対話が重要な部分を占めます。
 その対話が、最近の若者たちの間ではどうも長続きしない様子がうかがえるのです。
 対話をしながらお互いの理解を深めていき、何らかのコンセンサスに到達する。そんな作業が対話を通して行われるはずです。相手とのギャップは広いこともあれば狭いこともあります。しかし、常に自分と相手の思考が完全に一致していることはあり得ません。それを、できる限り対話で埋めるわけです。
 当然この会話は、コンセンサスに達する必要が高ければ、また相手とのギャップが広ければ、必然的に長いものになります。テニスに例えれば、延々と続くラリーのような感じです。
 しかし、最近の人たちの会話は、サービスエースで一発で決まってしまう、もしくは、リターンエースで決めてしまう、といったところでしょうか。合意するなら『それな』のひと言で決まってしまう。完全合意で無くても『わかる』と言って何となく理解を示す。また『マジで』と、驚きや強い合意を表す。そこで対話は一端途切れます。そして、また新しい話題が始まって、上記を繰り返す…。話に広がりはあるのですが、掘り下がっていかないのです。


| 和を以て尊と為す?

 この点に関しては、ある意味、日本人全般に通じる精神が関係しています。聖徳太子の十七条の憲法の第一条『和を以て尊と為す』的な「皆仲良くしようね」といった考え方です。しかし、これはあくまでも表面的な捉え方で、よく読めば「協調と親睦をもって話し合えば、どんなことでも道理にかなう」と言っているのです。つまり「誠心誠意、対話をしてお互いを理解し合おうよ」ということです。しかし、その前文の「仲良くしようよ」だけが一人歩きしているのか、どうなのか、議論を避けて大同に就くような傾向が見られるのです。
 それでも、我々、昭和世代の若かりし頃は、もう少し議論する傾向があったように感じます。それが、最近の若い人たちは議論をせずに「この人とは合わない」と、一方的に決めつけてしまうようです。
 ただ、「この人とは合わない」けれども、「輪」の中にはいなくてはいけない。これが問題です。一匹狼になることを嫌うのです。それはそうです。人は誰でも、一人よりは仲間と居た方が良いに決まっています。しかし、分かり合うための議論はしたくない…。そこで、とりあえず『それな』と合意しておくのでしょう。
 私塾の先生との雑談の中で聞いた話ですが、今時の中学生は『学校で一生懸命勉強をしていると、からかわれる。だから、学校では勉強していない風を装い、皆と合わせる。とりあえず輪からはみ出さないように、皆に歩調を合わせておく。そのために、行動や言動も、とりあえず協調的なものにしておく。』のだそうです。その点では、いわゆる今時の若者の使う単語群はとても便利です。(ただ『ワンチャンある』とか『とりま行っとく』などと耳にしても、僕には「犬(ワンちゃん)」とか「動物の散髪(トリマー)」くらいしか思い浮かびませんが…)


| 今時のコミュニケーションツール

 さらに今、そんな若者たちの傾向を後押しするようなツールが、巷に溢れています。ひと昔前には、対話が叶わないなら、電話の会話で置き換えました。また、一方的に用件や心情を伝えるなら、手紙を書くことも普通に行われていました。手紙はFAX、そしてEメールに取って代わられましたが、我々昭和の世代ならば、電話やEメールを日常的に利用していたはずです。
 ところが、最近の人たちは電話もメールもしないのです。これはある意味驚きでしたが、今時の大学生たちは、友人の電話番号を知りません。どうやら ‘LINE’ で万事足りるようです。そのほか ‘Twitter’ で気になる人の情報を見たり、たまには ‘Facebook’ で自らの近況を発信したりすることもあるようですが、基本的に友人たちとの連絡は ‘LINE’ だそうです。かくいう僕も学生になってからは、重い腰を上げて利用しています。いや、利用しなければ、クラスメートたちと連絡が取れないのです。このように、’LINE’ は必須のコミュニケーションツールとなっています。
今や、若者たちの日常的な連絡ツールとして不可欠になった ‘LINE’ には、様々な機能があり大変便利に作られています。しかし、あまりに便利すぎるため、 ‘LINE’ 上のコミュニケーションでは、使う言葉がどんどん少なくなっていくようです。ある学生が「『おはよ』と打つことすら面倒で、スタンプで代用する」と言ったのを聞いて、「なるほど~」と感心したものです。それは「言語のやりとり」と言うより、もはや「反射」と言っても良いほど、スピーディーで形式化しているのです。


| 同調だけで良いの?

 ただ、決して「今時の若者は…」と、彼らの能力を低く見積もっているのではありません。逆に、彼らは高い思考力を持っていると感じます。言語を使って思考することにかけては、僕に言わせれば、下手な社会人より今時の学生の方が余程優れていると思います。では、なぜ「学生にコミュニケーション能力が足りない」などという意見が聞かれるのでしょうか。
 おそらく、ですが、僕の体験から言えば以下のようになります。
 対話をする場に置かれると、彼らは「相手に反対しない、とりあえず迎合しておく、もしくは黙っている」という態度を選択します。これはもはや「本能的に」と言っても良いのかもしれません。「反論する」という経験を、あまり積んでいないのでしょう。仕方が無いことです。
 ただし、メールなどのやりとりでこちらの意見を伝えると、それに対する反対意見を堂々と提示してきます。彼らには、しっかり言語で思考する能力があり、論理的な結論にたどり着くこともできます。対話の場で、面と向かって反対しないのは、彼らが単に迎合しているからではなく、ただ「対話のラリー」の経験が少ないからなのでしょう。また、反対することで、相手から何らかの悪印象を抱かれるのを避けているのでしょうか。そのため、対面では『それな』的な対応に落ち着いてしまうのかもしれません。


| 逆もまた真なり

 もともと日本には、クリティカルシンキング(批判的思考)やディベートの文化がありません。それを教育するプログラムもカリキュラムもありません。僕の場合は、たまたま高校・大学とアメリカで過ごす機会に恵まれ、物事を斜に見る、または疑ってかかる思考法を、自己流ながら身につけることができました。しかし、留学することもなく、外国人と議論を交わせるほどの英語力もなく、’LINE’ 的日常会話を繰り返している今の若者に、クリティカルシンキングどころか、掘り下げ型のコミュニケーション能力を求めること自体、酷というものでしょう。


| 学校では教えてくれないこと!!

 とはいえ、彼らもいつかは社会に出て行くのです。そして、その社会は彼らに「コミュニケーション能力」を求めます。しかし、学校ではそれを教えてくれません。さて、どうすれば良いのでしょうか?
 実は、それほど難しい話ではありません。子どもたちに、小さいうちから「物事を掘り下げて考る習慣」を身につけさせれば良いのです。「今日は楽しかった?」「うん」で終わるのではなく、「何が楽しかったの?」と掘り下げて尋ねましょう。「お絵描きが楽しかった!」のであれば、「何を描いたの?」「絵を描くことの何が楽しかったの?」「いつも描いている落書きとはどう違うの?」など、質問はいくらでも出てくるはずです。そして、その質問のひとつひとつが、彼らの言語能力を伸ばし、思考を深めていくことに繋がるのです。
 「思考を深める」ことは、言語がなくてはできない作業です。思考が深まれば、物事の表面ではなく、核心が見えてきます。核心が見えてくれば、それを中心に、全体の構成を俯瞰できるようになります。これこそが、思考の整理整頓なのです。思考の整理ができれば、秩序立てて物事を語ることができます。つまりは、コミュニケーション能力も高まっていくのです。


| ヒトとして生まれたからには

 自分の意見と、相手の意見は違うかもしれません。しかし、自分が相手と異なる意見を持っているということを説明することは、その相手を否定することと同義ではありません。その上で、対話をすることによって、相手の意見が正しいと分かるかもしれないし、逆に自分の意見の方が正しいと相手が納得するかもしれない、または、両者の意見ともに正しいという結論に達するかもしれません。これらはすべて、対話を避けていては得られない結果なのです。
 先に、人間が他の動物と決定的に異なるのは言語を使える点であると述べました。他の動物には与えられなかったメリットを最大限に活かすこと、つまり言語能力を高めていくことは、そのまま豊かな人生をおくることにも繋がります。お子さまが、その権利を大いに行使できるように、思考を深める対話を日常的に実践していきましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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