2026年3月号特集
Vol.337 | 読めば分かる子、聞けば分かる子に育てる
「本を読む子」ではなく「読んでいる子」に育てる
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2603/
船津洋『読めば分かる子、聞けば分かる子に育てる』(株式会社 児童英語研究所、2026年)
中学生全体でMARCH以上の大学に進学できる確率
学力を考えるときに「偏差値」という指標が一般的に使われます。「偏差値偏重だ」とか「偏差値で測れない学力もある」などと批判的に言われることも少なくありませんが、偏差値とは「とある数値がある集団の中の平均からどれだけ離れているか」を示す単なる指標なので、偏差値自体には何の罪もなく、点数で表示される学力を判定するには極めて便利な指標であることは間違いありません。
さて、その偏差値を用いて、我が子の学力がどのくらいであるのかを少し考えてみることにしましょう。
単純化するために、中学生全員が高校へ進学し、そのうちの上位半分が大学へ進学すると仮定します。同時にMARCHの偏差値を少し厳し目に見て、平均62.5とします。大学へ進学する高校生の上位半分を対象とした偏差値62.5は高校生全体、つまり高校受験の偏差値に置き換えると65.5となります。これは中学生全体のうちの上位5%、同様に大学進学する高校生のうち上位10%に相当します。
要するに、中学時代に少し厳し目に見て上位5%に入っている子が、MARCH以上に進学するのがざっくりとした現実となります。ちなみに、少し残酷ですが、偏差値60の高校は大学受験の偏差値では53程度なので、MARCHは厳しいということになります。また、偏差値50の高校はちょうど真ん中の学力の子たちが集まっていると考えられます。その子たちは大学受験組の中では最下層に相当するので、大学受験の偏差値では37相当です。最近では「Fラン」等と言われるように、このクラスの子たちが大学へ進学するのが当然になっています。彼らは学力が低いのではなく、学年全体から見れば「真ん中だ」というだけのことです。
反対に中学受験に目を向けると、別の側面が見えます。中学受験率は都市部では20%を超えるところもありますし、地方では5%に満たないところもありますが、これも単純化して全国平均10%と想定します。すると中学受験の模試での偏差値50は全体100のうちの上位5%となります。既述の大学受験偏差値の62.5、高校受験時の65.5がそれに相当します。言い換えれば、中学受験の模試で50を取っておけば、まぁまぁ上位の大学へ進学することとなるでしょう。
ちなみに、学力に関しては遺伝的な要素、家庭環境、本人の意志などが関係してきます。家庭環境は、やり方次第で相当整えることができるし、それにより、本人が強い意志、あるいは学習習慣を持てるようになれば、上記の学力を手に入れることは難しくありません。ちゃんとやればMARCH以上、早慶レベルには行けるのです。ただ、それ以上となると、遺伝的な要素も絡んでくるので、「ちゃんとやるだけで良い」とは言い切れない側面もあることを加えておきましょう。しかし、まぁ、遺伝を別にしても、家庭環境次第で早慶やMARCHに行ってくれれば、大抵の親は安心なのではないでしょうか。
塾あり組 vs 塾なし組
さて、多くの日本人は人生で2回受験をします。すでに述べたように、都市部では中高一貫が20%を超えます。この子たちは、高校受験は経ずに大学受験へと向かうことになります。他方、中学受験をしない子たちは、代わりに高校受験の洗礼を受けることになります。そして、その3年後には大学受験が待ち構えています。大学受験に関しては、中高一貫組と高校からの受験組が一緒に競争することになります。
さて、件の塾です。様々な調査を見渡すと、中学1年生の段階での通塾率は6割、2年生では7割、3年生では8割、ざっと平均すれば中学生の7割が塾へ通っているというのが現状でしょう。この通塾率は公立校の割合で、私立中ではぐっと下がり約5割となります。大学受験に手厚いはずの中高一貫に行っているにも関わらず、その5割の子が通塾するというのは、チグハグな印象を受けますが、それほど中学生の通塾は一般的なのでしょう。
逆に考えれば、中学生の3割、中高一貫校では半分の学生たちは塾に行っていないことになります。我が社では上智大学英語科の学生を中心に、毎年十名ほどのインターンに働いてもらっています。これは肌感覚ですが、彼らに話を聞くと「塾に通っていた」という子は少数派です。また、同大学院の言語科学研究科の学生では、聞いた限りにおいて通塾していた子はいませんでした。では皆さんどうしていたのか、というと「勉強をしていなかった」わけではなく、「自分で勉強していた」そうです。つまり、塾に行く必要はなく、普通に勉強して上智大学に合格しているのです。
高校生向けの予備校について、ついでに触れておくと、こちらの利用率は公立高校で4割、私立高校で3割程度のようです。中学では私立の学生割合が10%なのに対して、高校では私立が35%まで比率が高まります。大学進学率が6割程度なので、ざっくり大学受験組の半分が予備校に通っていると考えておけばよいでしょう。
さて、大学受験の話です。近年では指定校推薦、あるいは公募推薦等で早々に入学を決める学生が増えていて、一般入試組は少数派に転落しているようです。では、推薦であれば塾なしで大学へ行けるのか、というとそうではありません。逆に、コンスタントに教科をまたいで満遍なく勉強できるような子でなければ、推薦入学は難しいとも言えます。
それというのも、まずは”ずば抜けた英語力”(といっても、英検準1級で十分)が必要で、そのような英語力は受験塾では身につけようがありません。また、塾に行かないと勉強できないような子たち、つまり学校の勉強だけでは十分な学力が担保できないような子たちは、推薦に必要な GPA(Grade Point Average、成績評価平均)を得られないでしょう。淡々と黙々と教科に偏ることなく満遍なく勉強し、さらに飛び抜けた英語力を持っている真面目な子たちが推薦で入ってきます。このような勉強スタイルが可能な子たちには、そもそも塾は不要なのかもしれません。
それに加えて、一般入試の子がいます。こちらは推薦組からも一目置かれる存在です。上位の国公立の滑り止めとして私立を受験する子も多く、そもそもそんな子たちは学校で教われば高校レベルの学習内容は十分に理解できるので、ことさら塾に行く必要などなく、塾に行く時間があるなら、自分で勉強する方がコスパが良いのでしょう。
「読んだら分かる子」
こんな話をどこかで耳にしたことはありませんか。超難関大卒の頭の良い人曰く「中高の勉強なんて教科書読めばだいたい分かる」「教科書を読んで分かるので、自分では大学の勉強していた」「分からないところは参考書に当たるか先生に聞く」などなどです。
教科書は小説ではなく説明文です。状況モデル的に例示をすることもありますが、基本的には命題的表象に終止します。状況モデルとは、自分が経験してきた背景知識に照らし合わせて具体的な情景を思い浮かべるような理解の仕方で、命題的表象とは、具体的なイメージを伴わない抽象的な説明文も含める理解のやり方です。教科書は基本的に後者的に淡々と事実を述べていくやり方で作られており、読むうちに心に豊かなイメージが思い浮かぶような書き方はされていません。
そのような無味乾燥な教科書の文は、想像を掻き立ててくれる小説とは異なり、大して面白くないと感じる人も少なくないでしょう。しかし、そうではなく、そのような説明文から豊かな情報を引き出せる人もいます。教科書を読んでも面白くないと思う理由のひとつに「分からない」点が挙げられます。はてさて、その人は教科書の内容がなぜ分からないのでしょう。もちろん、教科書を「読む」ことはできます。つまり、音声化することはできる。ただ、いくら読んでも、その人の頭の中には、内容がまったく入ってこないのです。
「権門体制論が中世国家を王権・寺社・武家など複数の権力が併存する体制として捉えるのに対し、幕府主権論は、幕府を実質的な主権主体とする武家政権の成立とする立場を取る。後者の立場に配慮することで、鎌倉幕府の成立を象徴的な征夷大将軍就任の1192年ではなく、守護・地頭の設置によって実質的統治権が確立した1185年とみなす教科書記述への変更が生じた。」
さて、とある教科書に上記のような記述があったとします。みなさんはこれを読んでどう感じますか。あるいはどのようなイメージが浮かびましたか。そもそもこの記述は何に関する説明文なのでしょう。権門体制論をご存じない方もいらっしゃるでしょう。
「幕府主権論は、黒田俊雄の権門体制論のように特定の一研究者によって提唱された理論ではなく、戦後日本史学における東大系を中心とした制度史・政治史研究の蓄積の中で形成された支配的理解である。」
と、付け加えればより理解が深まりますでしょうか。そもそも、多くの学生にとっては鎌倉幕府の成立は1192年であろうが1185年であろうが、どちらでも良いことでしょう。なぜなら、彼らはその成立に興味があるのではなく、テストで1点でも多く取ることに関心があるのです。つまり理解ではなく、記憶だけの問題。しかし、幕府の成立というひとつの出来事に対して、どのようにそれを理解するのか、その背景に何があったのかを想像できることが、歴史の本質の理解です。
これ以上書くと読者を飽きさせてしまうかと思いますので、あくまでも「私見」と断ったうえで、最後に、簡単に説明すると、こうなります。1192年を幕府の成立とする見方は、武家政権を軽んじている。なぜなら、幕府の成立は、朝廷からの征夷大将軍への任命が根拠だからです。従って朝廷を重んじる立場の人にとっては、幕府の成立は1192年で良いでしょう。しかし、逆に朝廷を軽く見たい立場の人たちからすれば、武家政権が自律的に大いに権力を振るったことにしたい。すると征夷大将軍拝命ではなく、実質、軍事・警察権や徴税権を握った1185年を幕府の成立とするのが気分としては合っているのでしょう。閑話休題。
教科書の一記述の背景には、様々な知識があります。教科書を一読で理解するにはそれらの背景知識が必要となります。そして、背景知識が豊かな人たちは、ひとつの記述を見るなり膝を打って理解するか、あるいは不明な点があれば、それを参考書や教師に当たって理解しようとします。しかし、背景知識も乏しい多くの学生たちは、これを「理解」することなど到底叶わず「記憶」するしかないのです。
これは、すべての学問に共通していることです。教科の導入部分で躓いてしまい、最初から記憶に頼るようになってしまったら、その後に理解が生じることは期待できません。教科の第一歩から正確に理解する、より鮮明にイメージするような理解力を身につけている子だけが、「一読で教科書を理解する」ことができるのです。そして、その第一歩は、本格的な教科の勉強が始まる小学校の中・高学年以前の低学年、あるいは幼児期に培われる「理解力」がベースとなるのです。
「聞いたら分かる子」
さて、「読んだら分かる子」の様子を書きましたが、お次は「聞いたら分かる子」です。本来なら、大前提として「分かる(理解)」とは何かについて、読解力を読力と理解力に因数分解して説明する必要がありますが、この点に関しては、読力を音韻符号化、理解力を心内表象化として説明している以下のリンクをご参照ください。(『パルキッズ通信2023年7月号』)
さて、「読んだら分かる子」に育ててしまえば、塾もいらずに教科書や参考書、あるいはインターネットの情報などを使って、自ら学習が進んでしまうことはご理解いただけたことでしょう。それでは、どのようにして「読んだら分かる子」に育てていくのでしょうか。
その説明の前提として、順番としてまず理解しなくてはいけないのが、「聞いたら分かる子」のあり方です。「聞いたら分かる子」とはどんな子なのでしょうか。読解力を、読力と理解力に分けたのと同様に、聴解力も「聴力」と「理解力」に分けることができます。ここで言う「聴力」とは、連続音声の分節能力、つまり日本語を聞き取れる力のことなので、日本で育つ子どもたちに、ことさらその能力を育てる必要はありません。彼らはすでに日本語の聴力は持っていると考えていただいて結構です。
さて、そう考えると、日本語の聞き取りができる子の聴解力とは、理解力だけ考えれば良いことになりそうです。これは、半分は合っています。しかし、半分足りない。足りない残りの半分とは「ワーキングメモリ」の存在なのですが、順を追って説明して参りましょう。
「理解する」とは、何らかの心内表象を持つことです。外から入ってきた言語刺激を、心の中でイメージとして再構築する作業が理解です。その理解には、抽象的な理解全体を含む命題的表象と、経験からエピソード記憶などとして固着している背景知識を活性化して具体的なイメージを描く状況モデルがあります。念のため付け加えておくと、前者は意味が一意に定まります。つまり理解できない人を数に入れなければ、十人いたら十人が共通の理解を示します。ところが、後者は理解する人の背景知識によって、十人十色のイメージとなって結像するのです。
雪の成立を説明すれば、どのように雪が形作られるかの理解は共通した知識となります(命題的表象)が、雪を見たことがない人に雪の話をしても、雪自体については想像するしかない(状況モデル)、と言えば両者の違いはお分かりいただけるでしょう。
このように、理解力は個々の能力やその限界、あるいは経験による背景知識に影響されます。理解力には、理解力そのものと、ワーキングメモリの質の2つの要素があって、前者は理解するための予備知識、背景知識などが豊富であること必要です。先ほどの鎌倉幕府の成立の話の例では、「権門体制論」という概念を知っているか否かで、まずは理解の可否が大きく分かれます。
その上で、もうひとつ理解の作業に大きく関わってくるワーキングメモリですが、ワーキングメモリとは「情報を一時的に保持しながら、同時に操作・処理するための記憶システム」のことです。
次の文は「とある日用品」の説明です。まずご一読ください。
「この装置は、支点から離れた位置にある力点に加えられた力が、支点に近い作用点へ伝えられる一方で、その作用点が、別の支点をもつ構造における力点として機能し、別の作用点へ力が及ぶため、最初に加えられた力が、2つのテコの関係を経て、著しく増幅された形で力が伝達されることで成立している。」
これは「爪切り」の説明なのですが、ひとつ想像してください。ここに提示したものは、もちろん文字の形式を取っています。つまり、遡ったり、繰り返し読むことができます。
しかし、これが音声だったらどうでしょう。目を瞑って、この文を一度聞いて、たちまちにこれがなんの説明であるかを理解するには、第一のテコの原理の作用点が、次のテコの原理の力点になっていることを、瞬時に看破しなくてはいけません。
そのためには、テコの原理の知識だけではなく、それが二重に働いている全体像を頭の中に構築していくために、生まれては消えてゆく儚い音声を次々と理解し、それを保持しつつ次の音声の理解と総合するようなワーキングメモリが必要なのです。
読解力より聴解力
読む作業と聞く作業は、一見すると同じことの異なるやり方と映りますが、その本質はずいぶんと違うことがお分かりいただけたのではないでしょうか。文字はそこにあり続けるのに対し、音声は次々と消えて行くのです。教科書は「何のことだっけ?」と遡って主語を特定することができますが、音声のみだと、集中して聞いてワーキングメモリをフル活動させないことには、少し文が長くなると何が何だか分からなくなってしまうのです。
これは、係り受けにも同じことが言えます。次の文を読んで問いに答えてください。
「ユーラシア大陸から分離し、更新世後期の寒冷期において海水準が低下する中で、分離により引き延ばされて生じた低地に海水が入り込み中海を抱える形となり、複数の地塊が弧状に連結した状態を保っていた陸橋は、その後、約1万年前以降の温暖期に海進によって低地部分が次第に水没した結果、現在見られるような日本列島へと変化していった。」
問「何が日本列島へと変化しましたか?」
これは文字として書いてあるので、答えを探しに行くことができますが、これを一度聞いただけで、「陸橋」という答えを導き出せる人は、日本列島の成り立ちをすでに知っていて、この文を聞いた瞬間に「日本列島の成り立ちについてである」と判別できる人か、あるいは高い理解力(イメージ力)に加えて、音声を記憶し続けるとてつもなく頑強なワーキングメモリを持っている人でしょう。
「そんなことは関係ない。それほど高い能力がなくても受験は技術でクリアできる」という向きもあるでしょう。それはそれで結構なことです。しかし、例えば難関中学の国語の適性検査を眺めてみると、読んで一旦音声化から理解したものの、問われていることがどこに書いてあったのか分からなくするような設問が少なくありません。「確かこの辺に…」と探しているうちにタイムアウト、なんてことにもなりかねないのです。
つまり、入れ子構造になった文や、係り受けが分かりにくい文の主語を見つけたり、どこにどんな語句があったかを具体的に音声情報の記憶として保持したりするワーキングメモリは、講義の聴解力だけではなく、短時間で大量の問題を処理する読解力にも必要となるのです。
理解力を育てよう、というと、まず「では読書を」という声が聞こえてきます。しかし、では読書をすれば頑強なワーキングメモリを育てつつ、高い理解力が身につくのかといえば、甚だ疑問、としか答えようがありません。
現に、小説などの読書好きの人が、幅広い知識を持っていて、上記のような即時的聴解力を持っていて、様々なアカデミックな講座を理解できるのかといえば、必ずしもそうではないでしょう。おそらく、物語を数多く読むことで文学的な表現やメタフォーなどの知識は豊富にはなるでしょうし、エピソード記憶などの背景知識を活性化した心内表象力は豊かになることでしょう。つまり、具象的な状況モデルを作るのは上手になります。
しかし、教科書的、抽象的な命題表象的な文章の理解と、小説の心内表象化はまったく異なる質の理解であることは、すでに上で述べた通りです。さらに、読者の心内表象に配慮した文体で表現される小説には、大したワーキングメモリは必要ではありません。逆に、長期記憶であるエピソード記憶に次々に格納されていってしまうのであれば、ワーキングメモリのトレーニング要素とは無縁の読書になります。
それでは、小説ではなく教科書(説明文)を多読すればよいのでしょうか。いえいえ、それができるのであれば、最初から問題は存在しないわけです。教科書からスラスラと命題表象を引き出せないことが問題なのですから、ただ教科書を読むだけでは解決されません。つまり、小説も教科書も「読むだけ」では命題表象を描く能力とワーキングメモリを育てることはできないのです。
しかし、高い命題表象化能力と頑強なワーキングメモリを備えた読解力を身につけさせることが、「読んで分かる子」の前提なのです。これが、一足飛びに、読解力を育てる前に、聴解力の鍛錬が必要であると筆者が考える所以です。
メタ言語としての国語力
メタ言語(メタ=高次の)とは「とある言語表現について検討するために用いられる言語」です。とある言語とは、英語でもフランス語でも構いません。もちろん、日本語の表現もメタ言語による分析の対象となります。この点については、いくつか例示した教科書的表現の文について考えていた状態を思い起こしていただければ、いかにしてご自身が、メタ言語である日本語を駆使して、日本語の表現について検討していたかがご理解いただけるでしょう。
さて、「読めば分かる子」「聞けば分かる子」の「分かる」を司る部分がメタ言語であり、高い理解力と頑強なワーキングメモリを育てることが、優れたメタ言語を育てることになります。
このメタ言語の育成が、最終的なゴールである「読めば分かる子」に直結します。メタ言語は、あらゆる言語表現について考察を加える言語です。従って、算数の文章題を正確に理解するためにも使われるし、社会科はもちろんのこと、理科の理解力にも通じます。小学校低学年までの筆算は問題なくこなせても、文章題になると途端に失速してしまう子が少なくありませんが、彼らの問題は、漢字を読んだり、計算をこなしたりする能力にあるのではなく、とある言語表現について検討するために用いられる「メタ言語」の貧弱さにあるのです。
しかし、このメタ言語の貧弱さについては、学校教育の場でも、家庭ですらも、認知・問題視されることはほとんどありません。逆に「メタ言語」などという言葉を知っている小学校の教師がいたら、驚きと同時に畏怖の念を覚えます。もっとも、現実にそんなことはほぼないでしょうから、世間一般には与えられた漢字が読めれば、「字は読める」と評価されるわけですし、我が子の音読の課題を耳にする親も、教科書を読んでいる我が子を見て「読めているな」とか「つっかえているな」としか評価しないし、それ以上に評価しようがありません。
しかし、この高次言語であるメタ言語のあり方が、その保持者の理解力の現実を決定付けています。優れたメタ言語があれば、耳や目に入る情報が次々と理解できる一方、メタ言語が貧弱であれば、「馬耳東風、どこ吹く風ぞ」あるいは「我関せず」というか、何が何だか分からないのです。
それでは、読むだけでは分からない脆弱なメタ言語の主は、塾に行けば分かるようになるのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。反対に、塾に行けば新たな「とある言語情報」が増えるばかりです。では、塾の先生に説明してもらえば分かるのでしょうか。もちろんそんなケースもあるでしょう。しかし、先生としても、中学レベルの教科書に書いてあることを噛み砕くにも限界があります。つまり、それまでに習得しているべき内容を習得していない子には、眼前の課題を理解させる段階まで、遡って説明して知識を嵩上げしていくしかないのです。
言い換えれば、とある段階の「理解」に躓いてしまって「記憶」にシフトすると、そこから上位の概念については、遡って躓いた段階を再履修するか、さらに新たな記憶を上積みする以外方法がありません。「分からないなら覚えなさい」を地で行く「はじき」の式に代表される定理でも法則でもない、計算のための補助への妥協、あるいは年表を記憶しているか否かの歴史の試験、理解を傍流に退けた暗記学習こそが、砂上の楼閣の入口なのです。
聞くことから理解力とワーキングメモリを鍛える
海外の映画やドラマを見ていると、子どもがベッドに入ったあと、親が本を読んであげている場面をよく見かけます。しかも、その子が幼児とは限らず、小学生、時にはかなり大きく見える年齢であることも珍しくありません。さて、読み聞かせって、何歳までやれば良いのでしょうか?
結論から言えば、海外では「何歳まで」という上限はなく、少なくとも小学校高学年、10歳~12歳くらいまでの読み聞かせは、ごく普通に行われているようです。なぜ、文字もスラスラ読める子に対して「読み聞かせ」なのでしょうか。
読み聞かせは「文字の練習」ではないのです。日本では、読み聞かせというと、「文字が読めるようになるため」とか「本に親しませるため」とか、「幼児期の情操教育」といったイメージがあります。そのため、自分で読めるようになったら、もう必要ないと考えられるわけです。
しかし、読み聞かせはそもそも文字習得のための活動ではありません。理解力向上のための取り組みなのです。言い換えれば、「聞いて分かる力」を育てる行為です。
上記で紹介した『パルキッズ通信2023年7月号』でも触れているように、「読める」と「分かる」は別物です。読むことだけなら、子どもたちは早いうちに身につけます。しかし「読める」からといって「理解している」わけではないのです。
特に、使用語彙が豊かな長文で、因果関係が複雑であったり抽象的であったりする文は、目で追うこと、つまり音韻符号化はできても、心内表象(イメージ)できていないことが珍しくありません。人間の言語発達は、聴解から読解へと進みます。日常では、聞いて理解できる世界の方が、自力で読める世界よりもずっと広く、言語知覚活動の多くを占めているのです。
読み聞かせというと、幼児向けのやさしい絵本を想像しがちですが、高学年への読み聞かせは、そうではありません。年齢が上がるほど、読み聞かせの内容は自然と高度になります。挿絵中心から、僅かな挿絵のみのものになり、終いには文字だけ、あるいはそれに理解を助けるための図表があるだけなど、つまり教科書のようなものへと移行していきます。
ジャンルでいえば、ファンタジーから歴史、科学、あるいは社会制度や伝記などへと、子どもの関心の対象も移り変わっていきます。
こうした内容を、親が音声で提示するのは、単なる「読書」ではなく、高度な聴解トレーニングとなります。音声情報は、その場で消えていきます。前には戻れません。途中で止めて考えることも難しい。つまり、ワーキングメモリと理解力を総動員しないと追いつけません。ここに、大きな価値があります。読み聞かせは、理解力を高めるとともに、ワーキングメモリのトレーニングにもなるのです。
授業を聞いて分かる子と、聞いても分からない子。説明を一度で理解する子と、何度聞いてもピンと来ない子。この差は、幼児期や低学年期に「どれだけ聞いて理解する経験を積んできたか」で、ほぼ決まってしまいます。読み聞かせは、そのための最も自然で、最も効果的な方法のひとつなのです。
読み聞かせを幼い子のためものと馬鹿にせず、高学年になっても淡々と続けることが重要です。
ゴールは「本を読む子」ではなく「読んでいる子」
さて「本を読む子に育てる」には、どうすればよいのでしょうか。方法論に移る前に、少しだけ立ち止まって考えてみましょう。「本を読む子」とは、どんな子でしょうか。時間になったら本を開く子でしょうか。親に言われたから読む子でしょうか。読書時間を守っている子でしょうか。これらは、読書を塾やレッスンや勉強などの特別なものとして管理している感じですね。
そうではなくて、ゴールは「気づけば本を読んでいる子」に育てることです。「本を読む子」と「気づけば読んでいる子」。このふたつは、似ているようでまったく違います。「本を読む子」は、行動です。「読んでいる子」は、状態です。そして、子育てで本当に大切なのは、行動を作ることではなく、状態を作ることです。
モチベーションには、外発的動機付けと内発的動機付けがあります。TVのコマーシャルや塾などで日常的に使われる(パブロフの犬でお馴染みの)古典的条件付けや、飴と鞭のようなオペラント条件付けは外発的動機付けです。「毎日30分読書しましょう」「この本を読み終えたら褒めてあげよう」「読書記録を付けましょう」これらはすべて、外発的動機です。そして、外発的動機はいつか必ず止まります。
なぜなら、理由を与えている側がいなくなった瞬間に、行動も消えるからです。テストが終わった途端に勉強しなくなる子。親の目が離れたらやめてしまう子。これは意志が弱いからではありません。外発的動機付けがそのようなシステムなのです。
それに対して、内発的動機はまったく別の結果を生みます。それは内発的状態です。「読みたいから読む」この段階に行く前に、もっと手前の段階があります。それは「気づいたら読んでいる」状態です。この状態では、本人は「やる/やらない」を選択していません。ただ、単に暇だからとか、気になるからとか、続きを知りたいからといった、理由にもならない理由で、結果としてページをめくっているのです。これが、最も強い読書状態です。
では、何をしたら子どもがそのような状態になるのでしょうか。親である私たちがやるべきことは、環境を設計し整備することです。読書習慣を身につけさせるのではありません。暇だから読んでいる状態、あるいは気になるから調べている、あるいは続きがどうなっているか知りたいから読んでいる状態になるように、家庭環境を整えるのです。
それはどんな家庭環境でしょう。簡単な話です。子どもが勝手に本を読んでいる家庭環境とは、時間だけあって何もない状態、言ってみれば「手持ち無沙汰」の状態です。この状態になると、人は勝手に考え始めます。そして、考え始めた人間は、答えを探し始めます。
そして、調べものをしたり、物語を読んだりします。「読書習慣を身につけよう」的な、読書がゴールなのではありません。読書の先にある「分かった」とか、新しい世界を「知った」という快感を体験させるのです。人間の脳は、答えを思いついた瞬間に、報酬を出します。なるほど、そういうことか、分かった!その瞬間、脳は快感を覚えるのです。
本を読んでいる子は、本が好きなのではありません。「分かる」経験が好きなのです。
考えている子の行動は、皆よく似ています。彼らは共通して、すぐに調べる、辞書を引く、図鑑を開く、「あれはどこだっけ」と関連ページをめくります。これは、「勉強している」行動ではありません。疑問が湧いたから、単に知りたいから、あるいは暇だから、そのような行動を取っているだけなのです。
読書はそれ自体が目的ではなく、手段です。つまり、本は、読ませるものではありません。ぼんやりと考え続けてしまった結果、何かが思い浮かんでしまった結果、手に取ってしまうだけのものです。これが「気づけば読んでいる子」の状態なのです。
【注目書籍】『地頭力を鍛える子育て』(大和出版)
子どもが「読めるのに、わからない」状態を家庭から終わらせる——。
言語学者・船津洋が提唱する“地頭力”とは、認知×非認知×メタ認知の三位一体の力。本書では、日常の会話や体験を通じて「理解・思考・判断」を育む具体的な方法を提示。学力だけでなく、生きる力を伸ばす実践書です。

船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。



