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2016年11月号特集

Vol.224 | 続・船津流「育児論」

あなたは子どもに対して過保護?それとも過干渉?

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1611/
船津洋『続・船津流「育児論」』(株式会社 児童英語研究所、2016年)


特集イメージ1 さて、先月号の特集では、我が育児を振り返って思い付くままに、親としての自分に課していた思考の制限や、育児における姿勢として貫いてきたことを書き記しました。あまりにも私事に過ぎるので読者の皆様も辟易なさるかと思いきや、意外にもアクセス数が多かったので、少々気をよくして今回も引き続き育児体験談もどきを書き進めたいと思います。
 育児において心がけてきたことはいろいろありますが、それらはざっと5つに分けることができました。ひとつ目は「分けて考えること」、そしてふたつ目は「親ばかに徹すること」でしたが、前回はこのふたつ目のトピックの途中で紙数が尽きてしまったので、今回はその続きから再開いたしましょう。

 親ばかに徹するということは、ひと口に言い換えれば、過大評価や過小評価をすること無く淡々と我が子を信じること、とでも言い換えられるでしょう。その範疇を逸脱すると「親」の字と「ばか」の字が入れ替わってしまいます。過大評価すれば、モンスター某になるのでしょうし、過小評価すれば、当事者の誰も気づいていない穏やかな心理的虐待になるのかもしれません。
 さて、そんな育児観をもって接しているわけですが、子どもが成長する過程には様々なことが起こります。先月号では、私自身が子どもの頃、教師に殴られたことを書きましたが、自分も親の子として親に様々な心配をかけてきたものです。些細な悪さを見咎められて、補導されたこともありました。親の因果が子に報うとはよく言ったものです。長男は聞き分けのある良い子でしたが、要領の良い次男坊はところどころでちょいちょい悪さをしていたようなのです。
 悪さと言っても大したものではありません。かわいいもので、友人と夜分ゲームセンターにいることろを、補導員に見つかってしまったのです。もちろん、我が家には子どもたちの日常的な夜間の徘徊を黙認するような、放任的な家風はありません。基本的には、部活が終わったらすぐに帰宅し、夕食です。しかし、たまの学校行事など、非日常には魔が潜んでいます。次男の場合には、学園祭の準備だったか打ち上げだったかで下校が遅くなった後、悪友たちと寄り道をしていたとのこと。何事も無ければ、そんなことでガミガミとうるさく言う親ではありませんが、運の悪いことに彼は補導されてしまったわけです。
 さてその後日、私が自宅で仕事をしているときに警察から電話がかかってきました。さらに彼にとってタイミングの悪いことに、たまたますれ違いが多く、彼から私に「補導された」旨を伝える機会がなかったため、私は警察署員との会話からその事実を知ることとなってしまったのです。
 さて、どうしましょう。電話を受けた直後は、少々情けない気分になりました。ただ、怒りも何もこみ上げては来ませんでした。考えてみれば自明のことです。学園祭があって、その関係で遅くなりがちだったことは知らされていましたし、その関係で勢い夜遊びをすることくらいは、自身の若かりし頃を振り返れば容易に予想がつくわけです。そう考えると逆に、電話を受けた後に一瞬でも「情けない」と感じてしまった自分が恥ずかしくなってしまったのです。取りあえず、次男にはねちねち叱ったりせず、さっぱりと「厳重注意」をして一件落着です。
 畢竟、親とは可憐な生き物で、我が子のこととなると感情が先走ってしまいます。これは育児に限りませんが、感情に流されてしまっては、ろくな結果を生みません。ただ残念ながら、沈着冷静な人でもいざ我が子のこととなると、とかく平静を欠きがちです。物事にはいろいろな面があるのですが、感情でヒートアップしてしまうとその一側面しか見えなくなってしまうわけです。そして、一事象(このケースでは「補導された」という事実)のみ取り上げて、感情に走ってしまうわけです。事態を俯瞰すれば、何事でも無い、単なる偶然のいたずらに過ぎないことが、我が子に対する否定的な評価となってしまうのです。
 世の中に「悪い子」などいるわけはありません。子どもたちにも善悪の区別、道徳的な判断はできるのです。私は、親が全面的に子どもたちを信じていれば、親を悲しませるような子には育たないと、勝手に信じています。ただ、ちょっとした出来事が、子を見る親の目を曇らせてしまうのです。
 また、子を見る親の目を曇らせるのは、ちょっとした出来事ばかりではありません。親の「親としての日々の自覚」も子を見る目を曇らせます。子に対して愛情を抱かない親などいないはずですし、皆子どものことを信じたいと思っているはずです。しかし、それが行き過ぎてしまい、我が子を思うあまりに、期待値ばかり高まってガミガミ叱ってしまったり、逆に甘やかしすぎてしまったりすることがあります。子に対する愛情や信頼が、過大評価や過小評価という色眼鏡を通すことによって歪められ、子どもの本来の姿を見失ってしまうのです。そんなちょっとしたすれ違いで、親の愛情や信頼が子どもに届かないことがあります。こんなところから、親子間での感情の行き違いやすれ違いが生じてしまうのかもしれません。
 子どもたちとの付かず離れずの玄妙な距離感を保つためには「うちの子は頭が良いわけでも無く、特に優れたところはない。しかし、我が子が良い子でないわけがない!」くらいの、平凡でしかも絶対的な「親ばか」を貫くような接し方が良い塩梅なのかもしれません。
 ちなみに、この考え方は育児を長い目で見る考え方に通じています。とかく親は、あれやこれやと子どものことが心配でたまりませんが、大抵のことは時が解決してくれます。夜尿症や指しゃぶりなど、子どもたちは成長の過程で様々な表情を見せますが、こうした目の前の現象に親が動揺すれば、子どもの心も親の動揺に同調して不安定になってしまいます。親が「小さいことは気にしない」「うちの子は大丈夫」とでーんと構えてあげることも、親ばか道に通じるのです。そんな安定した親、常に自分を信じてくれる親がいる家庭には、子どもたちは喜んで帰ってくるでしょう。日中、外の世界の人間関係に揉まれてくたびれた子どもたちの心と身体を癒やしてくれる、居心地の良い家になるのです。


| その三、過保護に徹する

特集イメージ2 『日本国語大辞典』によると、【過保護】子どもなどを必要以上に大切にすること。また、そのさま。続いて、『デジタル大辞林』で引いてみると、【過保護】[名・形動]子供などに必要以上の保護を与えること。また、そのようにされること。また、そのさま。「―に育てられる」「―な親」とあります。
 どうやら、子どもを「必要以上」に大切にしたりとか、「必要以上」の保護を与えたりする親は、過保護と定義されるようです。ところで、必要以上とはどの程度なのでしょう?
 世の中には数値化できない概念が多くありますが、それらを常識の範疇で行使したり、取り入れたりすることでいわゆる「フツーの人」と評価されるわけです。連想ゲームのようですが、それらの抑止力なり推進力となる「常識の範疇」もまた数値化できません。そして、常識の範疇を逸脱して子どもを保護すれば、過保護になったり、時には溺愛するようになったりするわけです。逆に、常識の範疇に保護の意識が届かなければ、暴力的になったり、放任主義になったりするのでしょう。
 確かに、極端に過保護に育てると、その環境(自発的に何もしなくても親が勝手にことを運んでくれるような状況)に慣れてしまうでしょう。まるで王子様やお姫様のような(まったく何もしないわけではないでしょうが比喩的に)何もしなくても良い生活に慣れ切ってしまえば、物事に対して受動的な性格に育つこともあるでしょう。
 しかし、過保護になってしまうのは、親としてのありふれた一般的な心理ですし、度が過ぎなければ善行であることに間違いはありません。過保護は良いことだけれども、度を超すのは良くない。一見すると難しそうですが、前回「心得その一」ですでに書いたように、「分けて」考えれば良いのです。保護する、守ってやるのは良いのですが、手をかけ過ぎてはいけません。過保護は良いけど、過干渉がいけない。こう考えるとスッキリします。


| 自分のことは自分でやらせる

特集イメージ2 保護することと干渉することはどう違うのでしょう。子どもは、もちろん守ってやらなくてはいけません。しかし、守る必要があるということは、なにか子どもの身に危険が迫ってのことでしょう。
 たとえば、外に出れば危険がたくさんあります。ガードレールが無いような道路を歩くときには、親が車道側を歩くとか、子どもが急に駆け出すと危ないような場所では手を繋ぐとか、電車やバスなどの乗り降りの際には手を貸す、などが考えられます。また、家庭内でも危険はたくさんあります。誤飲しないように口に入れてはいけないものは片付けておくとか、段差を踏み外さないように工夫するとか、窓際やベランダ周りには登れないように整理する、等々数えあげれば切りがありません。
 ただ、ここで気づくことがあります。これらは危険から子どもたちを守っているのではなく、危険な状態にならないように「予防」しているのです。これは過保護ではありませんので、どんどんやらなくてはいけません。
 しかし、この「予防」が、ことの外難しいのです。結果として予防が行き届かずに、子どもたちを危険な目に遭わせてしまうことはあります。かくいう私も、何度かヒヤリとしたことがあります。そして、そのようなヒヤリを経験すると親は臆病になるもので、なるべく危険な場所から子どもを遠ざけようとします。これが過干渉の入り口です。
 具体的な例を挙げましょう。2歳の我が子が、公園のジャングルジムで遊んでいることを想像してください。もちろんジャングルジムには他の子もいます。さて、そんな中で遊んでいる我が子が、手を滑らせてジャングルジムから落ちそうになったとします。このとき親が、どこで、何をしているのかが問題なのです。


| 過保護はくたびれる

特集イメージ3 大抵の親は、一緒に遊ぶか、そばで見ています。ただ、お友だち家族も一緒にいると想像してみてください。親同士で、おしゃべりが始まりませんか?もちろん、我が子を見てはいるのですが、話に夢中になってちょっと目を離した隙に…、なんてことはどなたもご経験があるのではないでしょうか。
 ここが分かれ目です。子どもに二度と危険な目に遭って貰いたくない、また自分もヒヤリとしたくない。すると干渉が始まります。「もう一人で上っちゃダメ」とか、ジャングルジムに上りそうになったら、慌ててだっこしてジャングルジムから引き離すとか…。こうなると、これはもう過干渉です。
 過干渉が過ぎて、子どもを危険な目に遭わせないどころか、危険のある場所から引き離してしまうのです。ジャングルジムが危険ならば、今度はブランコが危険になるかもしれません。それこそ、滑り台も危険といえばずいぶん危険な遊具に思えてくるのです。そして、それらの危険の元から子どもを遠ざけてしまうのです。  ただ、この考え方こそが危険です。子どもは、常に親の目の届くところにいるわけではありません。幼稚園などの集団に入れば、それこそ危険だらけです。そして、小学校から中学校、高校、大学と進んでいきます。もちろん、親の目は届きません。
 そんな時に、子どもたちを救うのは親の保護ではなく、彼等自身の身体能力と危険に対する察知能力です。その危機察知能力を身につけるために必要なのは、危険な目に遭わせることです。彼等自身が痛い目に遭ったり、ヒヤリとすることを繰り返し経験するうちに、「これは危険だ」と自分で危機を察知できるようになるのです。しかし、過干渉になってしまった親は、そのような危険を体験するという大切な経験の機会を奪ってしまう可能性があるのです。
 では、過干渉ではなく、過保護になるとどうでしょう。過保護な親は、一度ヒヤリとしたら大いに反省して、それ以降はジャングルジムの下で、我が子がいつ何時落下しても大丈夫なように予防します。これは物理的に大変な作業です。子どもには常識の範囲内で、ある程度の危険なことも自由にさせる(もちろん親の監視下においてです)。そして万が一の事態に備えて、じっと見守る。まるでボディーガードのような存在が「過保護な親」なのです。これは大変骨の折れる心構えであることは言うまでもありません。
 ちなみに、過保護な親でいることはしんどいのですが、これは度を過ぎるとかえって楽になります。また後で触れることになりますが、ひとつ例を挙げておくと、こんな具合です。
 そもそも子ども自体に、ジャングルジムから転落するような運動能力しか無いということが問題なのです。子どもに、自分の身体を自分で支える、それこそ指先の力だけでも自分の身体を落下から支えられる程度の身体能力があれば、親がジャングルジムの下に張り付く必要はありません。単純な話、そのような子に育ててしまえば、子どもを危険から遠ざけることができます。幼児期における身体能力の向上のために、親が簡単にできる取り組みはいくつもあります。専門家ではないので深入りはしませんが、過保護ついでにそのあたりにも関心を向けておくと、育児の安心が増えます。


| 自分のことは自分で

特集イメージ4 過干渉と過保護。取りあえず、この場においては既述のようにざっとご理解いただければ良いでしょう。
 ところで、過干渉は、上記のような危険な場合だけに起きることではありません。おそらく日常的に起きているはずです。それは本来は子どもが行うべき作業に、親が「手を出す」という形で現れます。思い当たる節がおありの方も、少なくないでしょう。
 自分の身は自分で守らなくてはいけないのと同様に、日常的に自分のことは自分でできるようにならなくてはいけません。とりあえず学生のうちは、学業並びにその準備、部活や学校生活を行う上での様々なニーズを、親にお願いして肩代わりして貰います。できれば、炊事、洗濯、掃除、ゴミ出しなどもして貰いたいところですが、そこは大目に見るとして、自分のことは自分でできないといけません。アタリマエのことです。
 親に言われなければ、宿題すらしない、学校からの連絡事項すら伝えない、そんなことでは困ります。これらは来たるべき社会生活に向けての「自律」の第一歩です。しかし、それはいつから始まるのでしょうか。実は、今日のこの(幼児期の)日常からすでに始まっています。そして、その子どもたちにおける自律の精神の涵養の妨げになってしまうのが、過干渉なのです。
 たとえば、お出かけの際に靴を履かせてあげることがありますね。まだ自分で靴を履けない、あるいは靴を履くという観念が理解できないような乳幼児は除きますが、少なくとも上手に歩けたり走ったりできるようになれば、靴くらいは自分で履けます。しかし、靴を履かせてあげる。これはなぜでしょうか。
 おそらく、親の方が急いでいるからです。ではなぜ慌てて子どもに靴を履かせてやらなくてはいけないほど、自分(親)は急いでいるのでしょう。このように考えれば良いのです。
 子どもは、靴を履くのに時間がかかります。そんな様子を見ていて、もどかしくなって手が出てしまうものですが、はじめから子どもが靴を履くのにかかる時間を考慮に入れて、「靴を履きなさい」という指示を出せば、この問題はあっさり解決します。
 服を着るのにも時間がかかります。ボタンを留めるのにも時間がかかります。自分でさせると、後ろ前になったり、ボタンが掛け違っていたり、靴がバナナに(左右逆に)なっていたりします。しかし、まずはそれでも良いので、自分でさせることが大切です。何事も練習。日々失敗しながら、繰り返し行うことで上手にできるようになるのは事の道理です。親が手を出してしまうということは、その練習の機会を奪っていることになります。ひいては、自律に向けての日常生活の中でのトレーニングをさせないことになってしまうのです。
 朝の時間は忙しいもの。自分のことばかりでなく、子どもの面倒まで見るのは大変な作業です。ただ、これは冷静に考えれば解決できることです。少し早めに声をかける。そして、その習慣を親も子も身につける。その結果、子どもが自分でできることが増えてくれば、親も助かるわけです。
 もっとも、緊急事態で他に仕様がないときには、親が手を出すのも致し方ないとして、日常では、早めの声かけで自分でさせるように心がけると良いでしょう。
 過干渉を諫めるばかりで、過保護と関係ないではないかという声が聞こえてきそうですが、関係はあります。先の危機察知能力は、生きるために必要な能力です。つまり、子どもたちの未来を保護してあげているわけです。また、自律の精神も、子どもたちの明るく豊かで充実した人生構築の基礎となる、最低限の能力です。これも、彼等が将来辛い目に遭わないために、先回りして手を打ってあげているようなもの、つまり「ジャングルジムの下にいる親」の姿勢と何ら変わりはありません。

 さて、とまぁ、ここまで書いてまだ五カ条のうちの三までしか届いていません。残りのふたつが、豊かな人生構築に向けて最も大切なことなのですが、今回はこのくらいにしておいて、また次の機会に譲ることにしたいと思います。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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