パルキッズ通信 特集 | AI, おうち英語, 日本語と英語
2026年9月号特集
Vol.342 | AI時代に英語は必要ない
それでも子どもたちに英語を身につけさせる理由
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
本記事の要旨
「これからはAIがあるのだから、英語なんて勉強しなくてもよいのではないか」。実際、英語を使ってやっていた仕事の多くは、すでにAIで済むようになっています。英文メール、翻訳、海外の記事や論文の要約など、少し前まで「英語ができる人」の専売特許だったことが、英語のできない人にも手軽にできるようになりました。「英語ができます」というだけで職業上の価値が保証される時代ではなくなり、英語だけで食べていくという考え方は、かなり難しい時代に入っています。
それでも、AI時代に子どもへ英語を身につけさせる意味はあります。これから重要になるのは、「英語」そのものではなく「+英語」です。医師が英語もできる。研究者が英語もできる。エンジニアが英語もできる。主役は、その人が持っている専門性や能力、つまり「何ができるのか」です。そこへ英語を足すのです。AIは「外国で困らないための英語」をかなり代替してくれるでしょう。しかし、「外国社会の一員になるための英語」まで代わってくれるわけではありません。
AIが探したり翻訳してくれるのは、基本的にはこちらから「取りに行った情報」です。一方、英語が身についている人には、海外ニュース、YouTube、SNS、人との雑談などから、情報があちらから勝手に入ってきます。情報を取りに行けることと、情報が入ってくることは違うのです。また、バイリンガルは、一つの認知システムに日本語と英語という二つの入出力系を持ちます。英語を日本語へ変換するのではなく、英語から直接、語や意味へ到達し、自分の考えも直接英語で表現します。英語を身につけるということは、世界から情報が入ってくる入口を、もう一つ自分の中に作っておくことです。そこに、AI時代になっても子どもたちに英語を身につけさせておく、大きな意味があるのです。
キーワード:#AI時代 #英語教育 #+英語 #バイリンガル #英語力 #情報 #専門性 #言語習得
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2609/
船津洋『AIがあるなら、もう英語はいらない』(株式会社 児童英語研究所、2026年)
AIがあるなら、もう英語はいらない
「これからはAIがあるのだから、英語なんて勉強しなくてもよいのではないか」
「子どもの教育でも英語を重視するのは無駄だ」
最近、このような意見を目や耳にする機会が増えました。英語教育に携わっている人なら、「いやいや、AI時代だからこそ英語が必要なのです」と反論したくなるところでしょう。しかし私は、この英語不要論には、かなりの部分で賛成しています。
実際、英語を使ってやっていた仕事の多くは、すでにAIで済むようになっています。英文メールを書きたいなら、日本語で要件を伝えればAIが英文にしてくれます。外国企業から英文のメールが来ても、一瞬で日本語にできます。海外の記事を読みたければ、丸ごと訳してもらえばよいでしょう。論文も同じです。英語論文を最初から最後まで辞書を引きながら読むより、AIに読み込ませて、「この研究の新規性は何ですか」「実験方法を説明してください」「この論文の問題点は何ですか」と尋ねた方がよほど速いのです。
少し前まで、「英語ができる人」の専売特許だったことが、英語のできない人にも手軽にできるようになりました。これは仕事の世界にも大きな影響を及ぼします。私たちは機械化や自動化と聞くと、工場の作業員や単純労働者から仕事がなくなる姿を想像しがちですが、生成AIの場合は事情が少し違います。AIが得意なのは、文章を読み、整理し、比較し、要約し、文章を作るといった認知的な仕事です。つまり、これまで比較的「安全」だと思われてきたホワイトカラーの仕事にも、AIはかなり深く入り込んできます。
そうなると、「英語ができます」という能力そのものも、AIに置き換えられてしまう危険性があります。昔は英語ができれば、それだけで一定の価値がありました。外国企業とやりとりできる、海外の資料を読める、外国人の話を聞ける、英文を書ける、翻訳できる。英語ができる人が少なかったからこそ、それ自体に希少価値があったのです。
例えば、ボスキャリ(ボストンキャリアフォーラム:日英バイリンガルを対象とした、世界最大級の短期決戦型・海外就職フェア)という「(即時内定もあり)合同企業説明会」があります。バブルの頃は、留学生が申し込もうものなら、ボストンまでの飛行機代・ホテル代はもちろん、豪華なパーティー付きだった、などと言う話も珍しくありませんでした。
それほどに、当時は英語ができる人材が「金の卵」扱いされていました。しかし、その希少性はバブル崩壊後からIT革命に入り、少しずつ低下していき、ここ数年のAIの登場が一気に壊してしまいました。英語科を卒業した。留学経験がある。TOEICの点数が高い。英会話が得意である。もちろん、それぞれ立派なことです。しかし、「英語ができます」というだけで、職業上の価値が保証される時代ではなくなりました。英語だけで食べていくという考え方は、かなり難しい時代に入っているのです。
ところが、それでも日本人の英語熱はなかなか冷めません。英会話スクールに通い、オンライン英会話を始め、英語アプリを入れ、参考書を買う。子どもに楽しそうな教材を与えて、何かを口にするのを微笑ましく見守る。少子化も相まって、英語熱は冷めないどころか、さらに高まっているかもしれません。
では、AI時代には英語など本当に必要なくなるのでしょうか。今月号では、英語の価値を再評価してみることにしましょう。
大学大衆化の先にAIがやってきた
さて、英語といえば大学入試ですが、ここ三、四十年、その大学も少し様子が変わってきました。英語とAIの関係だけでなく、ここで一セクション割いて、大学卒業後のいわゆるホワイトカラーとAIについても触れておかなければ片手落ちでしょう。
1990年、日本の大学は507校、大学進学率は約25%、大学へ進んだ若者は約50万人でした。それが2025年には、大学は810校、進学率は約60%、進学者は約63万人です。この35年間で大学は303校増え、18歳人口が大きく減ったにもかかわらず、大学へ進む人数そのものは増えました。
この変化によって、「大学生」の意味も大きく変わりました。1990年頃、大学へ進むのは同世代の約4人に1人でした。もちろん、大学生がそのまま学力上位25%(偏差値57程度以上)だったということではありませんが、現在よりは選抜された集団だったことは確かです。そして大学卒業は、事務、企画、管理などのホワイトカラー職へ進む重要な入口でもありました。
その後、大学進学は広く一般化しました。男子では、以前なら高卒就職や専門学校へ進んだ層の一部が4年制大学へ進み、女子では短大や専門学校へ進んでいた層の一部が4年制大学へ移りました。その結果、中位学力層にも大学進学の道が大きく広がりました。言い換えれば、日本はこの35年間、より多くの若者が「大卒→ホワイトカラー」を目指せる社会を作ってきたとも言えます。
ところが、その仕組みが広がりきったところへAIが登場しました。文章作成、調査、翻訳、資料作成、事務処理など、これまで若手ホワイトカラーが担ってきた仕事は、それこそAIが得意とする領域です。Excelの資格などなくても、データを投げればAIが処理してくれます。それだけではありません。AIは膨大な情報へ瞬時にアクセスし、計算し、統計処理を行い、コードまで書きます。記憶量や処理速度で人間が競争しても、勝てるはずがありません。
ここに、少し皮肉な構図があります。日本は長い時間をかけて「より多くの若者を大学へ」「より多くの若者をホワイトカラーへ」という社会を作ってきました。しかし今、そのホワイトカラー業務そのものがAIによって大きく変わろうとしているのです。言い換えれば、小さくなる一方の市場により多くの若者が殺到している図式です。不安定な時代になったものです。
もちろん、専門家になるつもりもなく、研究者になるつもりもなく、海外で働いたり移住したりする予定もなく、仕事でも特別な役割を目指さない。今どき流行りの「出世もいらない」、海外旅行もスマホで済ませるというのであれば、英語は必要ないでしょう。必要になったときだけAIを使えば十分なのです。
ただし問題は、そうした人が「大卒の一般的なサラリーマン」を目指すのであれば、話は別です。サラリーマンというホワイトカラーの仕事自体が、AIの影響を強く受ける可能性がある、いや、すでにAIの影響を受け始めているのです。
これから社会に出る若者に問われるのは、「大学を出たか」「英語ができるか」だけではありません。自分は何ができるのか、なのです。
これから価値を持つのは「英語」ではなく「+(プラス)英語」
これから重要になるのは、「英語」そのものではなく「+英語」だと私は考えています。医師が英語もできる。看護師が英語もできる。エンジニアが英語もできる。経営のできる人が英語もできる。営業のできる人が英語もできる。スポーツのできる人が英語もできる。当然ながら、研究者にとって、英語で直接やり取りできることが依然として大きな武器であることは変わりません。ここでは、英語が主役なのではありません。主役は、その人が持っている専門性や能力、つまり「何ができるのか」です。そこへ英語を足すのです。
たとえば、非常に優秀な研究者が二人いたとします。二人とも同じくらい研究ができる。一人は英語をほとんど話せず、もう一人は英語でも普通に話ができる。英語の論文を読むだけなら、両者に差はありません。論文を英語で書くこともできるでしょう。
ところが国際学会へ行くと、差が出るのは発表原稿ではありません。発表が終わった後です。「あの研究、面白かったよ」「うちでも似たデータが出ている」「明日のセッションには出る?」「今晩みんなで食事に行くけど来ない?」。そんな何気ないやりとりから人間関係が始まり、ときには共同研究へ発展します。
パルキッズで育った子どもたちが大人になり、大学や大学院で研究をするようになると、「英語ができる」という理由で外国人研究者とのやりとりを任されることがあります。「先生を案内してくれない?」「夕食に一緒に行ってくれない?」「この人と連絡を取っておいて」。その子の専門は英語ではありません。医学だったり、文学だったり、工学だったりします。専門性を持っている。そのうえで外国人とも普通に話ができる。そこで初めて「+英語」が効いてくるのです。
これは会社でも同じでしょう。英語だけできる人がいることの価値は、AIによって以前より低下しています。しかし、「仕事のできる」人が「英語もできる」となると話は別です。海外から取引先が来る。外国人社員との会議がある。海外展示会に参加する。海外企業との共同プロジェクトが始まる。そんなとき、「あの人なら仕事の内容も分かっているし、英語でもそのまま話せる」という人がいれば、やはり重宝されます。
一言聞くたびにAIへ入力し、一言答えるたびにAIへ返答を作らせる人と、自分の専門についてその場で直接議論できる人とでは、仕事のスピードも違えば、人間関係のでき方も違うのです。
これから価値が下がるのは、英語それ自体ではありません。「英語しかないこと」の価値が下がるのです。何かができる。そして英語もできる。それが、AI時代の英語の価値なのです。
留学や移住では、「AIが英語を話せる」では済まない
旅行程度であれば、AIで十分かもしれません。最近、街中で外国人を見かけることが多くなりました。それも団体ではなく、家族やカップルが中心です。ガイドブックの代わりに、彼らが手にして離さないのがスマホです。写真や地図ばかりでなく、ガイドや通訳としてもスマホを使っているのです。
AIがあれば、外国へ旅行したり、現地で生活したりすること自体はずいぶん楽になります。レストランのメニューはカメラを向ければ翻訳されます。役所から届いた書類も読めますし、大家さんから来たメールにも返事ができます。病院でも翻訳アプリが役に立つでしょう。「外国で生活するためには英語が絶対必要だ」という常識は、今後かなり崩れていくかもしれません。
このように、大抵のことはAIの入ったスマホで事足りますが、英語そのものが本人の能力として必要になる場面もあります。分かりやすいのが、留学や移住です。「外国で暮らせること」と「外国へ行く資格を得られること」は別なのです。
正規留学では、学校やビザ制度で本人の英語力が求められることが一般的です。移住でも、技能系のビザや永住制度などで一定の言語能力を求める国が、特に英語圏には少なくありません。そこで測られるのはAI経由の英語力ではなく、本人の英語力です。「私は英語はできませんが、AIが話せます」では済みません。
留学については、入学できた後の方がさらに重要です。授業中、先生から突然 “What do you think?” と聞かれるでしょう。隣の学生から話しかけられ、グループワークが始まり、授業の後には “Do you want to grab some coffee?” と誘われることもあるでしょう。そのたびにスマートフォンを取り出してAIに訳してもらっていたのでは、授業内容そのものは理解できても、留学生活はかなり寂しいものになってしまいます。
留学の価値は、外国の学校で行われている授業を理解することだけではありません。外国の環境に入り、現地の人と話し、現地のことばで自分の意見を言い、ときには言い争い、冗談を言い、友達を作る。そこまで含めて留学です。
AIは「外国で困らないための英語」をかなり代替してくれるでしょう。しかし、「外国社会の一員になるための英語」まで代わってくれるわけではないのです。
AIは意味を訳せる。でも友達は自分で作らなければならない
これは友人関係を考えると、もっとよく分かります。日本人が英語を学ぶ理由として上位に挙げられるのは、「海外旅行を楽しみたい」「仕事に活かしたい」などですが、それらに並んで常に上位に入っているのが、「外国人と交流したい」です。「海外旅行を楽しみたい」にしても、スマホ・AI時代には単に海外旅行するだけなら「英語を学ぶ理由」にはなりにくく、その「楽しみたい」の中には「交流したい」という意味も含まれているはずです。
さて、外国人と初めて会って、“Hi. How are you?” に始まり、会話が続けば、“Where are you from?” となるかもしれません。そこから住んでいる場所の話になり、学校の話、仕事の話、家族の話になり、やがて「この辺に楽しいスポットはある?」に対して「紹介しようか?」となるかもしれません。
現に私も、長野のスキー大会中のレストランで偶然 “Wanaka” と書かれたジャンパーを着た親子連れを見かけて、“Oh, you guys are from Wanaka! It’s a beautiful town, isn’t it? We were there last summer, I mean winter in NZ.” という話になり、「チームに参加できる?」「できるよ。チームのメアドから僕宛てにメールしておいて」などと、思いがけず得難い情報を手にしたことがあります。
このような他愛もない偶然が、世の中には転がっているものです。それを拾えるのも、英語という共通の言語を身につけていたからにほかなりません。もちろん、AI通訳も進化しています。しかし、スマホ片手にAIに通訳をさせながらでは、このような自然な会話は成立しにくいのはご理解いただけるでしょう。
また、実際の会話では、文法的に完成した文ばかりを使っているわけではありません。“Oh!” “Wow.” “Really?” “Right.” “No way!” “Come on!” “Exactly.” といった短い表現が頻繁に飛び交います。これらは感動詞などと呼ばれ、感情、理解、同意、フィラー、関係性の構築など、さまざまな役割を果たします。
日本語で考えてみましょう。「昨日、大変な目に遭っちゃってさー」と言われたら、全文を聞き終えてから意味を咀嚼して「えー、どうしたの」と聞くのではなく、「昨日、大変な……」あたりで先を予測し、ややもすれば相手がしゃべり終わる前に「えー」と口にしているかもしれません。このように、会話における相槌などはタイミングが重要なのです。AI通訳経由では、到底成立しません。(参考:パルキッズ通信2019年7月号)
冗談も同じです。子どもでも分かるような簡単なものなら、たとえば “What do you call a fish with no eyes?” という問いがあります。答えは “Fsh.”。fish から “i”、つまり eye を取っただけの、実にくだらない冗談です。しかし、日本語に訳してしまえば、ほとんど成立しません。
あるいは、“Why was the math book sad?” に対して “Because it had too many problems.” と答えるジョークがあります。problem には「算数の問題」と「悩み」の両方の意味があります。英語が分かればすぐに笑えますが、日本語へ置き換えた瞬間にことば遊びは消えてしまいます。
もちろんAIに「今のジョークはどういう意味?」と聞けば説明してくれます。しかし、誰かがオチを言った瞬間に笑い、“Oh, come on!” と返すのとは別です。AIの説明を読んで三秒後に笑うことはできますが、友人関係という点では、その三秒は放送事故並に大きな違和感なのです。皆、白けてしまいます。
AIは英語を訳せます。しかし、リアルタイムで会話できる自分の代わりにはなれません。英語ができることの価値は、単に「外国人の言っている内容が分かる」だけでなく、「外国人と同じ談話の中に入れる」ことなのです。
情報を取りに行くのと、情報が入ってくるのは違う
今回の特集で、私が最も重要なポイントだと思っているのが以下です。
AIが登場したことで、「英語ができなくても世界中の情報にアクセスできる」と言われるようになりました。これはその通りです。海外の記事を見つけたらAIに訳させればよい。英語のYouTubeを見つけたら字幕を出せばよい。論文を見つけたらAIに要約させればよい。
ただし、ここには一つ大きな前提があります。まず、その情報を自分で見つけなければならないのです。あるいは、自分が何を探しているのかを知った上でAIに指示出しをする必要があるのです。
AIが探したり翻訳したりしてくれるのは、基本的にはこちらから「取りに行った情報」です。一方、英語が身についている人には、情報があちらから勝手に入ってきます。
海外ニュースをつけていたら、話していることが分かる。YouTubeを何気なく眺めていたら、英語で言った一言が耳に残る。飛行機で隣に座った人たちが話していれば、聞こうとしていなくても内容が分かる。海外の学会で廊下を歩いていたら、近くの研究者たちの話が自然に耳に入る。SNSを眺めていて英語の短い投稿が流れてくれば、そのまま意味が入ってくる。
これは日本語なら、あまりにも当たり前のことです。私たちは街を歩いていて看板を見るたびに、「この文字列を日本語として解析しよう」とは思いません。特に看板を読もうとしなくても、「鰻屋」「土産屋」などの情報が次々と目から入ってきてしまうのです。
空港やデパートなどで日本語のアナウンスが聞こえてきたとき、「よし、この日本語を理解しよう」と身構えることもありません。聞こえてしまう。そして意味が分かってしまう。ことばが身についているとは、そういう状態です。
英語も同じです。英語がことばとして身についている人は、世界に流れている英語情報を、いちいち「英語情報」として意識しません。そのまま情報として受け取ります。
つまり、「情報を取りに行けること」と、「情報が入ってくること」は違うのです。
AIは前者を劇的に便利にしました。しかし後者は、本人の中にその「言語」がなければ起こらないのです。
英語力を別の言葉で表現するなら、世界から情報を受け取る帯域を一本増やすことでしょう。日本語という一本のアンテナだけを持つ人と、日本語と英語という二本のアンテナを常時立てている人がいる。必要な情報を検索するときには、AIがその差をかなり埋めてくれるでしょう。しかし、こちらが取りに行くのではなく、向こうから目や耳に飛び込んでくる情報の量まで同じになるわけではありません。
しかも、人生を変える情報というものは、必ずしも検索して見つけるものばかりではありません。たまたま聞いた一言、何となく見ていた動画、人との雑談、打ち合わせや学会の休憩時間。そんなところから、新しい考えや新しい人間関係が始まることがあります。
AI時代には、意図して「情報を取りに行くこと」と、勝手にあちらから「情報が入ってくること」は別物だと考えておく必要があるのです。
二つの言語を持つと、「ことば」の見え方も変わる
英語が身についていることには、もう一つ興味深い側面があります。バイリンガル研究です。
二つの言語を日常的に処理している人が、一つの言語だけを使う人とは異なる言語経験をしていることは確かです。その違いが分かりやすいのが、Ellen Bialystok らが長年研究してきたメタ言語意識です。
たとえば子どもに “Apples grow on noses.” のような文を聞かせて、「これは文として正しいですか」と尋ねます。「リンゴは鼻になる」という意味ですから、内容としては明らかに変です。しかし英語の文法として見れば、構造自体は正しい。それに対して、モノリンガルの子は「そんなのおかしい」という意味上の反応ばかりしたのに対し、バイリンガルの子は、「内容は変だけど、文としては正しい」と評価できる傾向が明らかになったのです。
ここでは、バイリンガル児がモノリンガル児より、意味に惑わされず言語形式(文法)へ注意を向けやすいことが報告されましたが、この点は、単なる語彙・理解力の差ではなく、「言語情報に対する注意やメタ言語的統制(言語を使って言語表現を検討する)」の問題として整理されています。
考えてみれば、二つの言語を持つ子どもは日常的に不思議な経験をしています。日本語と英語では語順も違えば、音の体系も違います。自分には「着る・履く・かぶる・羽織る」に見える現象も英語では単に put on (wear)といった具合に、同じ現実を見ているのに、それを切り分け、表現する方法が違うことを知っているのです。
そうすると、ことばを一つの絶対的な体系としてではなく、複数ある表現体系の一つとして経験することになります。これが、ことばそのものを一歩引いて眺めるメタ言語意識と関係していると考えられてきました。
さらに、二言語の切り替えに対する感度はかなり早い時期から見られます。関連する別の研究では、生後20ヶ月のバイリンガル児でも、聞いている言語が途中で切り替わると、その切り替えをリアルタイムで処理していることが示されています。
つまり、まだ文章を自在に話せない幼児の段階から、二つの言語を単なる音の寄せ集めとして聞いているのではなく、「今どちらの言語を聞いているのか」というところまで含めて処理しているのです。
ちなみに、自らの留学体験では、留学同期たちとの帰国チャーター便で、片方が英語で話すと相手は日本語で返し、それに対して日本語で返すと、今度は英語が返ってくるという、バイリンガル同士でなければ起こり得ない不思議な体験をしました。また、長期間にわたり日本語不在で英語ばかりの生活を強いられたことから、帰国直後には、こちらは日本語で話しているつもりなのに、実は英語で話していた、などということを指摘されたりもしました。
もっとも、これは一時的な混乱で、数回のやりとりで日英のコードスイッチングは自然と行われるようになります。
つまり、一つの思考に二つの回路が用意されているのがバイリンガルなのです。以下に続けます。
バイリンガルは、一つの認知に二つの入出力系を持つ
世間では「英語脳」などと呼ばれ、私自身もその言葉を使って本を書いたことがあります。ただ、バイリンガルの脳に「日本語用」と「英語用」の二つの脳が別々にあるわけではありません。一つの認知システムに、日本語と英語という二つの入出力系がつながっていると考える方が自然です。
たとえば目の前に犬がいます。犬そのものを見て認識し、「犬」という概念を理解する認知の働きは一つです。しかし、その概念を日本語で出力すれば「イヌ」になり、英語で出力すれば ‘dog’ になります。反対に、耳から「イヌ」と聞いても ‘dog’ と聞いても、最終的には同じ犬という概念、つまり「四足で毛が生えていてワンと鳴く動物」のプロトタイプモデルへ到達します。つまり、 ‘dog’ と「犬」という二つの意味を頭に保持しているわけではありません。同じ「犬」の意味を認知するための言語的な経路を二つ持っているのです。
これは音声知覚について考えてみても分かります。私たちの耳に入ってくる音声そのものは連続的ですが、例えば米語の ‘cat, cot, cut’ (/kæt, kɑt, kʌt/) が日本語の「ア」にマッピングされるように、どこに音の境界を置き、どの音を同じカテゴリーとして扱うかは言語によって異なります。日本語話者は日本語の音韻体系に沿って音声を分類し、英語話者は英語の音韻体系に沿って分類します。英語を十分に経験した子どもは、英語音声をいったん日本語の音に置き換えて理解するのではなく、英語に適した音声カテゴリーを使って処理し、そこから直接、語や意味へ到達するようになります。つまり、日本語と英語という二つの言語を持つことは、同じ認知システムに対して、それぞれの言語に適した音声入力の処理方法を持つことでもあるのです。
出力についても同じです。何かを伝えたいという考えがまずあり、それを日本語で表現することもできれば、英語で表現することもできます。バイリンガルは、英語で話すたびに頭の中で日本語の文を作り、それを「瞬間的」に翻訳しているわけではありません。一つの概念や意図から、その場に適した言語を選び、直接その言語で表現します。
脳画像研究で二言語の競合や言語選択にかかわるネットワークが注目されるのも、このためです。バイリンガルの場合、二つの言語がまったく独立して眠っているのではなく、状況に応じて複数の言語情報が活性化し、その中から必要な言語を選択する処理が行われます。また、第二言語をいつから経験したのか、どの程度日常的に使用しているのかによって、言語に関係する脳のネットワークの働き方にも違いが見られます。
このことは、子どもの英語教育を考えるうえで重要です。学校で apple は「りんご」、dog は「犬」と対訳を覚えることと、日本語と英語という二つの言語体系を自分の中に持つことは同じではありません。前者では、日本語という一つの入出力系の上に英語の知識を載せているにすぎない場合があります。英語を聞き、日本語に直して意味を理解し、日本語で考え、それを再び英語へ直して話す。いわば日本語という一本の経路を経由して英語を使っています。
しかし、バイリンガルはそうではなく、日英どちらからの入力もダイレクトに内在化(理解なりイメージ化)されます。反対に、内在化(頭の中の思考)された表象を表出する場合にも、ダイレクトに日本語なり英語なりで行われるのです。
だから、英語の冗談を聞けば日本語に訳す前に笑えるのです。“Really?” と聞けば、その声色から驚きなのか疑いなのかが分かります。不自然な表現を聞けば、文法規則を思い出す前に「何となく変だ」と感じます。英語のニュースが流れてくれば、それを「外国語」として処理するのではなく、内容そのものが入ってきます。
この点こそ、AI翻訳との大きな違いです。AIを使う場合には、英語という入力をいったんAIへ渡し、日本語へ変換してから自分が理解します。出力するときにも、自分の日本語をAIへ渡し、英語に変えてもらいます。しかし、英語が身についている人には、その中継が必要ありません。
日本語からも英語からも直接情報が入り、日本語でも英語でも直接世界へ働きかけることができる。そう考えると、「英語も分かる」ということは、単に外国語の知識を持っているというより、世界と自分をつなぐ入出力の回路をもう一つ持っていることだと言えるでしょう。
「仕事もできて」「英語も分かる人」にしておく
ここまで考えると、AI時代に子どもへ英語を身につけさせる理由は、ひと昔前とはかなり違ったものに変わっていることが分かります。
子どもに英語を身につけさせる理由は、翻訳者にするためではありません。英文メールを書けるようにするためでもありません。外国のニュースを読めるようにするためでもありません。そのくらいのことなら、AIがどんどんやってくれるでしょう。もはや「英語ができれば将来食べていける」という時代は終わりつつあります。英語だけで食べていくのは、一部の職業を除き、一段と難しい時代になっていくでしょう。
しかし、そうではなく、自分の専門を持ちつつ、あるいは仕事ができる人間でありつつ、英語を身につけることには果てしないメリットがあります。そこに、英語を身につけておく意味があるのです。
将来、研究者になったときに英語もできる。医師になったときに英語もできる。技術者になったときに英語もできる。会社員になったときに海外案件へ自然と呼ばれる。留学したくなったときに英語力が障壁にならない。海外へ移住したくなったときに、言語要件によって選択肢を失わずに済む。外国人と出会ったときに友達になれる。海外の学会へ行ったときに、発表を聞くだけでなく、その後の食事にも参加できる。そして何より、英語で流れている情報が、自分から取りに行かなくても自然に入ってくる。
これらはすべて、「+英語」の価値なのです。
ここで、大人の英語学習と子どもの英語教育には少し違いが出てきます。大人なら、必要になったときにAIを使うという選択は非常に合理的です。外国企業からメールが来たらAIに訳してもらう。海外旅行へ行ったら翻訳アプリを使う。外国の記事を読む必要が出たら要約してもらう。それで十分な人はたくさんいるでしょう。
しかし、子どもには未来があります。別の選択肢があるのです。必要になるたびに英語をAIへ渡す人にするのではなく、最初から英語も分かる人にしておくという選択です。
英語を聞けば、そのまま分かる。読めば、そのまま意味が理解できる。話しかけられれば、考える前に自然と相槌を打っている。“Really?” の声色で相手の気持ちが分かる。くだらないジョークを聞けば、オチと同時に笑える。おかしな英語を耳にすれば、「何だか変だ」と感じる。そして、英語で流れている情報が、特別な努力をしなくても自分の中へ入ってくる。
AI時代に、多くの日本人にとって英語を身につける価値が下がっていることは確かでしょう。
しかし、英語ができる人生と、できない人生の差をAIが帳消しにするわけではありません。
自分が何者かになったとき、その能力に英語を足せる。世界のどこかへ行こうと思ったとき、英語が自分の足を引っ張らない。外国人と出会ったとき、翻訳機越しではなく、その人と直接友達になれる。そして、日本語だけで暮らしていたら素通りしていたはずの情報が、自分の目や耳へ勝手に入ってくる。
これから大切になるのは、「何が何でも英語」ではありません。「何か+英語」です。英語を身につけるということは、世界から情報が入ってくる入口を、もう一つ自分の中に作っておくことです。
そこに、AI時代になっても子どもたちに英語を身につけさせておく、大きな意味があるのです。
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船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。



