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2020年4月号特集

Vol.265 | 地頭の良い子の育て方

早期の英語習得は「地頭」の良さと直結していた

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2004/
船津洋『地頭の良い子の育て方』(株式会社 児童英語研究所、2020年)


「地頭と英語」の関係

特集イメージ1 「地頭」とは何でしょう。開発領主の「ジ-トウ」ではなく「ジ-アタマ」、「あの人はジアタマがいいなぁ」とか「トーダイに行くような連中はジアタマが違うな」などの「地頭」です。

 唐突すぎましたね。そもそも、なぜこんなことを書くのかというところから簡単にご説明しましょう。
 『パルキッズ』では「パルキッズコミュニティー」という『パルキッズ』ユーザー限定のコミュニティーをFacebook上に開設しております。
 すでにお子さんが社会に出ていたり、大学や大学院に通っている超先輩ママをはじめ、お子さんを英検などに合格させているような先輩ママ、さらには開始1~2年の暗黒の闇の中取り組まれているご家庭、そしてもちろんスタートしたてのご家庭まで、「パルキッズユーザー」であることを共通点とする保護者の皆様にご参加いただいております。
 まだまだ300名にも満たない小さなコミュニティーですが、非常に中身が濃く、英語育児の悩みや、英検の合格報告、あるいは中学や大学受験、はたまた育児全般に関して、幅広く「おしゃべり」が繰り広げられています。

 その中で、拙著『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)を題材として、さまざまな思考実験も行われています。
 そのような話題の1つとして、「地頭」に関する議論が、思いの外楽しく盛り上がっていました。「いかにして地頭の良い子に育てるのか」から始まり、「そもそも地頭ってなに?」と「地頭」の定義に立ち戻ったりしながら、思い思いのご意見が交わされていました。
 発端は『子どもの英語「超効率」勉強法』(p.88)にある「早期の英語教育」により「地頭の良い子に育つ」という記述だったのですが、この両者(「地頭と英語」)の間を埋める「ロジックが分からない」ということから、議論が発展していきました。

 僕の中では「地頭」の定義は “それなりに” はできていて、「英語」と「地頭」との関わり方もクッキリしているのですが、本の中の限られた文字数では存分に説明できず舌足らずになってしまった反省、またFBコミュニティーの形式ではカバーしきれない広範に至る内容となるので、今回は「コミュニティー」から『パルキッズ通信』へと河岸を変えて、「地頭と英語」についての考察を深めて参りたいと思います。


「地頭の良い人」と「頭の良い人」の違い

特集イメージ2 そもそも「地頭」とはなんであるのか、この点が分からなければ、地頭と英語の関係には迫ることができません。それでは、始めにまずやっつけておかなくてはいけないことから手をつけて参りましょう。
 いつものように『広辞苑』を手始めに、我が家の書架にある辞書に片端からに当たってみました。しかし、「地頭」とは「かつらを用いない頭」としかみつかりません。そこで、『ジャパンナレッジ』にあたってみました。すると、一項目だけ出てきました。

・じ‐あたま 〔ヂ‐〕 【地頭】
 大学などでの教育で与えられたのでない、その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。「―がいい」「―を鍛える」(デジタル大辞泉)」

 と、出てきました。ちなみに、とりあえず見つけられた定義はこれだけです。「地頭」という言葉は日本人の語彙としては未だに一般的ではないようです。

 そこで、この語が実際にどのように使われているのか、コーパスにあたってみることに。『筑波ウェブコーパス』と『中納言』で検索したところ、結果は、「泣く子と~には敵わぬ」の「地頭(ジトウ)」ばかりで、結局「地頭(ジアタマ)」は出てこない。つまり、コーパスにも載らないほどの新語のようです。
 「新語であればひょっとして」と思い『新語・流行語辞典』で調べてみましたが、見出し語にはありませんでした。
 心細くはありますが、『デジタル大辞林』に「地頭」とは「その人本来の頭の良さ」とあるので、「地頭」とはどうやら「頭が良い」ことで間違いはなさそうです。しかし、同時に単に「頭が良い」だけでもないようです。

 実際「地頭」という語からは「頭の良さ」とは別の印象を受けます。難関四年制大学を出ていて「頭は良いなぁ」と感じさせる人もいますが、彼らすべてが「地頭が良い」とは言い切れません。知識はあって、頭も良いのですが、話してみると「地頭が良い」とまでは言い切れないインテリも少なくない。
 一方、高卒・中卒でも「地頭が良いなぁ」と唸ってしまうような人は大勢居ます。『デジタル大辞泉』の定義にあるように、地頭の良い人は単に頭が良いだけではなく、そのほかにも要素があるようです。


「地」に着目

特集イメージ3 そこで、「地頭」の定義を明確にするために「地」と「頭」を分けてみることにします。順に見ていくことにします。

・じ【地】: あとに加えられたものに対して基本的・本質的なもの。生まれつきの性質。(広辞苑)

・あたま 【頭】: 脳の働き。思考力。考え。「―の回転が速い」(デジタル大辞泉)

 「地頭」を二つの部品に分けた結果は、どうやら「本質的」に「頭の良」あるいは「高い思考力」を持っている人である、と言えそうです。これを先の「地頭」の定義と比べてみると「論理的」であること、さらに「コミュニケーション力」にも優れている点が単に「頭の良い」だけでなく、「地頭が良い」ことの条件となりそうです。
 しかし、この定義にはいきなり問題があります。「本質的」「生まれつき」という言葉です。

・ほん‐しつ 【本質】: 物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。

 このようにアタマの良さが「本来(=元来)の」つまり、生まれつきや遺伝など生得的となると、我々凡人には夢も希望もなくなってしまいます。この議論すら、我々の大半とは無関係のむなしいものとなります。
 しかし、現実的には、脳は様々な後天的な刺激によって成長していくことはよく知られています。また自らの経験に照らしてみても、どれほど優れた先天的な才能を持って生まれても、”ほったらかし育児” では「地頭」の良い子には育つ可能性は限りなくゼロに近いと思われます。

 従って「本来(元来)」というのは「生得的」の意味ではなく、社会に出る前、「思春期以前に獲得された」ものと勝手に「地頭」の定義を書き換えます。
 このこと関してですが、幼児や小学生、あるいは中学生に関して「あの子は地頭が良いねぇ」とは言いわないこと、また「地頭」が良いという表現は少なくとも高校生や大学生以上、あるいは主に社会人に対しての評価であると想定されることから、「地」の対象者を「思春期以降」としすることは妥当性を満たしている考えます。
 次に「地頭」の定義には「論理的思考力」という記載があります。もちろん思考力だけが高くて、同時に論理性に欠ける頭脳というのは考えにくいので、「思考力」には本質的に「論理性」も備わっていると考えることにします。
 では「論理的思考力」とはどのようなものなのでしょうか。まずは、「論理」からです。

・ろん‐り 【論理】: 考えの筋道。思考の妥当性が保証される法則や形式。「―に飛躍がある」

 思考の「妥当性」というのはステキな表現です。考えの筋道が議論や物事の道理にうまく適合しているさまを表しています。次に「思考」です。

・し‐こう 【思考】: 経験や知識をもとに頭を働かせること。「―力が鈍る」

 ここで、「知識」という言葉が出てきました。つまり「知っている内容」をベースに考えることが「思考」となります。
 「地頭の良い人」を「地頭」の定義から、かみ砕いて整理してみると以下のようになります。

①単なる知識の記憶ができるだけではなく(知識だけでなく)
②思春期までに(本来)
③妥当性の保障される思考法で(論理的)
④経験や知識を元にあれこれと頭を働かせることができ(思考力)
⑤高いコミュニケーション能力を有している。

 以上のような要素を併せ持っている人ということになりそうです。この中の①③④は「頭の良さ」と共通していると考えられるので、「地頭の良い人」というのは「思春期以前から」「頭が良く」でかつ「コミュニケーション能力が高い」人ということになりました。


他の「頭の良さ」の指標との比較

特集イメージ4 「地頭」の定義ができましたが、あくまでも「新語」です。学歴や偏差値、あるいは医師や弁護士のような伝統的な「頭の良さ」の指標とは異次元のものです。あるいは「お化け」や「超能力者」のような浮き世離れした存在ともいえます。そんな「頭の良さ」の新たな指標がいきなり登場しても、他の伝統的な「頭の良さ」の指標とはどのような位置・関係にあるのかが分からなければ評価されません。
 新参者の指標ですから、諸先輩の指標との関連性で語られなければ、せっかく鳴り物入りで登場しても、「なぁんだ、結局地頭だけの人だよ」とか「地頭が良いだけじゃねぇ」などと言われてしまったらおしまい。「新語」から「共通語彙」になり、そして「死語」になるという一般的な言葉の一生を経ずに、いきなり無価値な語になってしまうかも知れません。

 もう少し具体的にいえばこのようなことです。「地頭」の定義に「知識」という言葉は出てきましたが、しばしば「知識」とペアで語られる「知恵」との関係はどうなっているのでしょうか。また、「記憶力」との関係は?
 文科省が「(知識の)記憶偏重教育」の反省から打ち出している、教育目標の別の指標である「思考力・判断力・表現力」とはどのような関係にあるのでしょうか。「地頭」が良ければ、学校教育にも役立つのでしょうか?
 さらに、「地頭」の定義には「産出」に関わるものがあっても「知覚」に関わる記述がありません。しかし、世界の「知覚」に関わる「理解力」との関係はどうなっているのでしょうか。
 「地頭」の地位向上のために、他の先輩指標との関係をもう少し卑近に、具体的に見ていく、あるいは想像していくことにしましょう。その後に、「地頭と英語」の関係へと進めることにします。


知識との関係

特集イメージ5 頭の良さを示す指標としてしばしば用いられる「知識」と「知恵」。まずここでは「地頭」と「知識」の関係からみていくことにしましょう。「知恵」はもう少し後で登場させます。

 「地頭」の定義に「知識の多寡でなく云々」という記述がありました。
 学校教育でも「知識」の「記憶」に偏重しすぎた反省から「ゆとり」が生まれました。もっとも今となっては「ゆとり」どころか、教科書はどんどん厚くなる一方ではあります。つまり、「知識だけではダメだよ」と言う一方で「知識もちゃんとやろうね」ということなのかも知れません。
 「地頭」の定義では「知識の多寡でなく」とありますが、同時に「知識を元に」ともあります。「地頭」は「知識ばかり」ではないが「知識を必要」とするようです。

・ち‐しき 【知識】: 知ること。認識・理解すること。ある事柄などについて、知っている内容。

 「知識」には「存在の知覚」から「事柄について記憶していること」さらに「理解すること」とかなり幅広い定義があります。
 「地頭」の定義の最初にある「知識の多寡」、あるいは文科省が反省した「知識偏重」における「知識」とは、「―をひけらかす」などに使われるように、「たくさん知っているだけ」の印象があります。どこか悪役。「知識」の幅広い定義の中でも、特に「記憶」を指しているものと考えられます。
 方や「地頭」の定義の中程にあるもう一方の「知識を元に思考する」の「知識」は単に「記憶している」だけではなく「理解する」ことを意味していると考えられます。

 この「知識」に関わる「記憶」と「理解」に関して、せっかく「地頭」の話をしているので、日本史に例えることにします。
 たとえば「鎌倉幕府の成立期」に関して、「記憶」だけの前者は1183年の「寿永二年十月宣旨」、1185年の「文治の勅許」、あるいは1192年の「征夷大将軍の宣下」と単に事実の「記憶」だけに留まります。つまり丸暗記型。
 それに対し、後者である「理解」の方はというと、鎌倉幕府の成立に関して、頼朝が東国支配を認められた時点、守護・地頭職の設置の許可を得た段階、あるいは正式な征夷大将軍の宣下であるのかを検討するにつけ、鎌倉幕府とは後の江戸幕府とは異質であり、その実体は公有地における警察権と徴税代行を担っていただけであると見抜くこともできるでしょう。
 すると、1192年ではなく1185年をその成立と考えるのが妥当と結論するかも知れません。後者は単なる「記憶」だけでなく「理解」を元に「思考」のできる人です。

 このように考えると、「地頭」の定義にある「知識の多寡」ではないが「知識を元に思考する」の「知識」はそれぞれ、「記憶」と「理解」と言い換えてやる必要がありそうです。
 「知識」という幅広い意義を、このように言い換えることで、「知識」のあることそれ自体が悪いことなのではなく、逆に多くの「知識」があることが好ましいことも分かります。重要なのは、それが単なる「丸暗記(記憶)」ではなく「理解」された「知識」であると考えられます。


知識の多寡についてもう少し

特集イメージ6 「記憶」ではなく「理解」の方の「知識」は、多いに越したことはないという点には反論の余地はないと思います。
 では、もう少し具体的に、なぜ「知識」が多い方が良いのか、2つポイントを挙げておきます。

 1つは「理解力」に関わることで、もう1つは「想像力」に関わります。
 1つ目の「理解力」に関しては「卵と鶏の話」のようです。
 知識量が多ければ、世の中の理解力も高くなります。たとえば、日本語しか知らないよりは、英語も使える方が理解できる世界が広がります。さらにロマンス語を知っていれば、英語とロマンス語の知識でヨーロッパ圏の言語全体への理解も広がります。そして、知識量により世界に対する理解力が高まれば、そこから、さらに新しい知識が流入するという循環が成立します。
 これは、言語に限ったことではありません。数学や物理の定理、生態系などの知識が多ければ多いほど、自然界で起こっていることへの理解も深まります。テクノロジーしかり、経済しかり、理解している知識が多ければ、目の前で繰り広げられている事どもの本質が理解できるのです。あくまでも「記憶」からではなく「理解」からの演繹である点に注意です。

 2つ目の「想像力」も等しく重要です。
 勉強しない、何事にもやる気のない子を持つ親の悩みのひとつに「興味を持ってくれない」といのが挙げられます。他方、様々なことに興味を持って、積極的に知ろうとする子が居ます。この両者を隔てるものは一体何なのでしょう。
 そもそも、なぜ「物事に興味を持てない」のでしょう。その答えは単純です。「知らないから興味を持てない」のです。もう少し詳しく書くと、以下のようになります。

 人間は刻々と変化する世界を、概念に切り出して知覚します。「概念」とは、分かりやすく言えば、名詞や動詞、形容詞などの「知識」と考えても間違いではありません。そして、なんと、知らない概念は知覚できないのです。知らないものは目の前に存在しても知覚できない、困ったものです。
 普段、私たちは生活の中で、たとえば街中で、様々なものを知覚しています。街を行き交う人々、彼らの行動や表情や服装、建物や看板などの構造物、自動車や自転車などであふれている道路の情報、天気もそうですし、景色や地形も、それぞれの概念に切り出されて私たちは知覚しています。
 この量たるや膨大で、しかも一時として留まることがありません。脳は大変な量の情報処理を担っているのです。
 そして、知っている概念が多ければ多いほど、つまり「知識」が多いほど、知覚できる情報が多くなります。たとえば、「行間」という「知識」があれば、本を読みつつ言外のメッセージも「知覚」できるでしょう。また、英語の概念処理ができる人ならば、日本人の目にはほとんど留まることがない「英語の案内」からも次々と情報を取れることになります。
 そもそも「知識」がなければ、「知覚」できない(しにくい)ので、脳に素通りされてしまうのです。「知識」がなければ「理解」する取っかかりすら掴めません。

 「興味」に話を戻すと、そもそも知らないものは知覚できないので興味が湧かないのです。もちろん、玩具などの構造物や手に取れるものには「これは何だろう?」と興味を示すことはできます。しかし、街ゆく人の服装、道路標識や信号、自動車や電車の種類、店舗やビルの看板に書かれている文字など、少なからずの知識が最初にないことには、そこに道路標識があっても、それを意味のあるものとして知覚できないわけです。
 つまり、興味を持つためにはまず、知識が必要なのです。そして、ここからが面白いところですが、知識が増えて、知覚できる対象が増えれば、そこにある未知のものに対しても「あれは何だろう」と逆に目に入ってきて、興味を持てるようになります。


理解力との関係

特集イメージ7 「地頭」の良い人は「知識を元にあれこれ思考」するわけですが、その「知識」とは単なる「記憶」ではなく「理解」を伴う「知識」であろうことは、繰り返し述べました。
 それでは、「記憶」ではなく「理解」するというのはどういうことでしょう。

・り‐かい 【理解】: 物事の道理や筋道が正しくわかること。他人の気持ちや立場を察すること。

 再び、勉強の苦手な子を例に取りましょう。こんな光景を良く目にします。
 算数の苦手な子は「記憶」された公式を当てはめて、何とか答えを導きだそうと試みたりします。問いの内容を正しく理解せず、とりあえず目の前にある数字を公式に当てはめてみて、何らかの数字が出れば、それで「ワンチャン」いけるかも、と答えにしてしまうことが珍しくありません。
 これは歴史でも同じことです。先の鎌倉時代の話であれば、人名、年、出来事などの「記憶」を元に「ワンチャン」思いついた答えを書いたり選んだりする。中間テストのように出題範囲が狭ければ、山勘で行けるかも知れませんが、大学入試などでは、到底その手の「記憶」では太刀打ちできないことは、経験済みの方も少なくないでしょう。

 人はすべてのことを「記憶(memorize)」できません。同時に「記憶し続ける(remember)」することなど到底不可能です。 しかし、一度「理解」してしまえば状況は一変します。
 物事の道理、仕組みなどが分かれば、たとえば初歩の算数の公式など覚えなくても、それぞれの変数の関係性(たとえば距離と時間と速度など)がイメージできるので適当な数式を導き出すことが可能です。
 物事の本質、道理、仕組みを一度「理解」してしまえば、「記憶」といういつ失われるか分からない、儚く、しかも経済性の悪い心理作業をしなくても、いつでも再現出来るのです。
 さらにステキなことに、それら自然科学的な道理や原理、仕組みには共通点が少なくありません。いくつもの道理、原理を「理解」できれば、未知の現象が目の前に起きたときに、いろいろな「知識」を元にいろいろな角度から「あれこれ思考する」ことができます。

 やれ「3つの法則」だ「7つのルール」だ「五カ条」だなどと、表面的に言語化された事どもは「記憶」しようとしても大変な作業です。しかし、それらに通底する道理や原理を「理解」してしまえば、それらは血肉となって、消えずに脳内に残ります。
 「地頭」の良い人が日常的に行う「論理的思考」における「理解」とは「記憶」とは次元の異なる、とても強力な思考ツールなのです。


経験と理解の関係

特集イメージ8 「思考」の定義に「経験や知識をもとに頭を云々」とありました。また、知識を「記憶」と「理解」に分けて考えてきましたが、実は「経験」も知識の一部です。それでは、経験とはどのような知識なのでしょうか。

 子どもたち、特に男子はひとつの事に夢中になる傾向があります。
 育児をしていると、まとわりついてきたり、話しかけてきたり、歌を唄っていたりとなかなか賑やかなシーンが多いのですが、そんな中「静かにしているなぁ」というその瞬間、子どもたちは何かに熱中していることが少なくありません。
 何をしているのかこっそり覗いてみると、パズルやブロックに夢中になっていたり、黙々と絵を描いていたり、絵本を眺めていたり、電車や車の玩具で自分の世界に浸っていたりします。

 ちなみに我が家の2歳児は、ミニカーや電車が大好きで、ミニカーで町で見かけた事故処理を模していたり、いろいろな電車を連結させることに夢中になっていたりします。また、パズルも大好きで20ピースくらいのものを与えておくと、床が次々と完成したパズルだらけになっていたりします。また、絵本も大好物で、主に日本語の絵本を書架から引っ張り出しては眺めたり、呟いたりしています。
 そして、このような繰り返しの「経験」から様々な「知識」、たとえば電車や車の名前や、その細かい部分がどのように全体を構成しているのかが克明に記憶されたり、あるいは絵本の膨大な日本語情報から切り出された語を、別のフレーズに置き換えながら語彙化が進んでいたりします。
 言い換えれば、単なる「記憶」が「(疑似)経験」を通して無意識のレベルまで「理解」が進んでいくのです。
 ぽっかりスケジュールが空いた平日の昼間、ちびと二人で近所の水族館や動物園にドライブすれば、いきなり(標識を見て)「止まれ」といわれたり、「あれは何だろう」「変な車がいるね」「新宿御苑って書いてあるね」などなど、驚かされる発言が次々と飛び出してきます。
 彼を見ていると、「記憶」が日常の生活の「経験」の中で、活き活きとした風景として「理解」されるようになっているな、と感じることばかりです。
 ものの道理を「理解」するには、「論理的思考」が欠かせませんが、このように繰り返しの「経験」を通しても、しっかりと血肉レベルで「理解」されていくのです。

 少し脱線しましたが、「記憶」「理解」「経験」の関係をいくつか例示すると、こうなります。
 学校の講義はテキストを「記憶」したり「理解」する形式を取ります。座学ですね。これを繰り返し「経験」させるために、練習問題を解かせたりします。このようにしてバランスの取れた「知識」となります。
 ひと昔前の寿司職人などは、ひたすら「経験」させて考えさせて「理解」させます。そして、それが記憶されるのですが、今時は寿司職人も大学卒が少なくないようで、いきなり「経験」ではなく講義形式で「記憶」「理解」を促しつつ実際に「経験」させる手法をとることもあるようです。
 いずれにしても、「知識」のなかでも「記憶」だけではダメなのは分かります。また何度か経験するだけでも足りず、繰り返しの「経験」を通して「理解」に至った「知識」が血肉となり、そのような「知識」を通して思考できることが最善なのでしょう。(上の図参照)


経験はコストがかかる

特集イメージ9 経験に関して、ここでひとつ、大切なことをお伝えしておきます。
 ヒトは世の中のすべてのことは経験できません。ヒトに与えられている時間は有限です。
 世の中には有限の「やらなくてはいけないこと」と「やってはいけないこと」があります。これらには従うのが賢明です。
 他方「やった方が良いことは」無限にあります。しかし、それらをすべて「やる」ことは物理的に不可能です。

 そこで、まずは「やった方が良いこと」ではなく「やるべきこと」を「やる」。おそらく、これだけで育児中のほとんどの時間は埋まってしまいます。その後に「やった方が良いこと」の中から取捨選択すれば良いでしょう。
 この点に関しての詳細は、煩雑になるので別の機会に譲ることにします。
 このルールに則って「やらなくてはいけないこと」と、厳選された「やった方が良いこと」に集中的に資本(時間や様々なコスト)を投下し「経験」させることで、子どもたちは「○○博士」に育ちます。「昆虫博士」でも「石ころ博士」でも「ピアノ演奏」でも「バレエ」でも、もちろん「英語」でも、人並み以上のレベルにその「知識」を身につける、つまり血肉のレベルまで「理解」することができます。

 そして、このようにして得られた(理解された)知識、あるいは知識を身につける過程で得た学習方法は、他の分野にも流用が可能なのです。
 夢中になって幾何の問題を解いた経験があれば、補助線が直感的に見えるだけではなく、出題者の意図まで理解できるようになるかも知れません。
 楽器演奏もそうです。ギターを弾ければベースギターやウクレレもすぐに(ある程度のレベルまでは)その知識を応用することができます。音楽全般における知識もしかり。ギターやドラムができれば、それらの知識はキーボードの演奏にも役立ったりします。
 そして、終いには霊的な「勘」のようなものまで研ぎ澄まされていくのです。あれこれと手を出すのではなく、ひとつ事を繰り返すことの重要さは繰り返すまでもないでしょう。


地頭の良い人の思考の一端

特集イメージ10 「記憶」だけではなく「(繰り返しの)経験」や「論理的思考」を通して「理解」された「知識」は、物事の「道理・本質」に迫っており、そのような「知識」は他の分野にも応用できる。
 地頭の良い人は小さいうちに上記のような思考方法の素地を身につけていて、それを表現できるコミュニケーション能力をもっている。そんなところまでやって参りました。(もう這々の体です。自分の地頭の悪さを恨みます。)
 その中でも、他の分野へ応用する力がとても重要だと考えます。

 ヒトはずぼらで、面倒くさがり屋です。効率の良さを好みます。そんなヒトであれば、知識や技術を一から学ぶよりは、すでにあるいくつかの「理解」を伴う「知識」を、未知の知識の獲得に応用するのは自然なことでしょう。
 このような心理作業は ‘extrapolate’ と呼ばれます。
 extrapolate : … to extend, or expand (known data or experience) into an area not known or experienced so as to arrive at a usually conjectural knowledge… (Merriam-Webster)
 ざっと言えば、「既有の知識を未知の対象の推測に応用する」ことです。

 すでに前項の「経験から得られた知識」で書いたように、理解により身につけた1つの知識は、他の知識の習得にも応用できます。自然の原理というものには、相通ずることが少なくないのです。
 たとえば、自転車に乗ることと歩くことは、重心の移動において共通しています。さらにスキーも歩くことに似ています。スノーボードは歩くようには滑りませんが、板の使い方に関してはスキーと類似する点が少なくありません。
 また、理解を伴う「知識」量が多ければ、ひとつの未知の対象に関して、様々な角度から検証することができます。もちろん、その「思考法」は「論理的」であることで、思考の妥当性が担保されることは言うまでもありません。
 これだけでも「地頭」力はスゴそうです。


知恵

特集イメージ11 さて、少し前の「知識と知恵」の話にもどります。「知恵」は置き去りにしてしまいましたが、ここで(字数の関係上)軽めに確認しておくことにします。
 「知識と知恵」では「知恵の方が大切だ」などということもしばしばいわれますが、ここまでの議論を見てくるとどうやら「地頭の良さ」に「知識」の存在は欠かすことができない要素であることは分かりました。
 では、その「知識」と対比され、大抵は大切に扱われる「知恵」とは一体どんなものなのでしょうか。

・ち‐え【知恵/×智×慧】: 物事の道理を判断し処理していく心の働き。

 「物事の道理を判断」という点ですが、「論理的思考」は途中で止めない限り、あるいは循環思考に陥らない限り、何らかの結論に達するのが自然ですので、一般に「論理的思考」は何らかの「判断」を伴うと想定できます。
 この点から「地頭」がよければ、文科省の求める「思考力・判断力・表現力」のうち、「思考力・判断力」を満足させていると言えます。
 さらに「処理」という言葉がありますので、この点を考慮に入れると、「知恵」とは「論理的思考力」に「処理」が加わった概念であると考えられます。心中の処理に関しては、これまた議論が広がりすぎそうなので、ここではもう「思考」を「途中で止める」こととさせていただきます。

 つまり、「知恵」の根底にあるものはざっと「論理的思考力」と考えておけば良いでしょう。「(理解を伴う)知識」をもとに「知恵(論理的思考をすること)」です。少なくとも「地頭の良さ」に関わる限り、両者は「どちらが大切?」のように二者択一条件として提示されるべき対象ではなく、車の両輪の如き存在のようです。


コミュニケーション能力

特集イメージ12 さて、最後に残ったのがコミュニケーション能力です。これだけは、「頭の良さ」とは次元が異なる概念であることが直感的に分かります。

・コミュニケーション【communication】: 社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語を含む記号その他を媒介云々。(『広辞苑』)

 昔は、黙っていることが立派だった時代もあるわけです。しかし、新語である「地頭」は、時代の要求に応えるべくしてか(どうかは知りませんが)「コミュニケーション」と、まるで文科省や産業界が言い出しそうな用語が使われているのです。
 しかし、「地頭」の要素としての「コミュニケーション能力」とは。どうやら、ようやくにして「地頭と英語」との関係に迫りつつある予感がするのは僕だけではないでしょう。
 それでは、最後に「地頭と英語」の関係について、見ていくことにしましょう。


「早期の英語習得」で「地頭が育つ」の関係

 「地頭の良さ」のキーワードは「思春期以前」から「論理的思考力」を有し、あるいは「高いコミュニケーション能力」を持っている点でした。
 これらの「地頭」キーワードと「英語」との間には、いくつかの関係が浮かび上がってきます。順不同で関連性を見ていくことにします。


論理性の英語と2つの視点

「論理的思考力」に関しては、まず英語が、その特徴として日本語のような曖昧性を許さない点が挙げられます。
 日本語は主語も主題も曖昧にすることができます。一方の英語は、規則が厳しく、日本語のような曖昧さを許さないことがあります。  これは、日頃感じていることですし、あるいは僕にだけ限定の事象かも知れませんが、英文を書くのであれば最初から英文で書いた方がスッキリと筋の通った文が書けるのです。最初は日本語で考え作文し、それを英文に訳そうとすると大変な苦労が伴うものです。恥ずかしながら、日本語で書かれた文章はところどころロジックが飛んでいたりします。

 日本語は情緒的とか、英語は論理的とか対比されることがあるようですが、実際に作文してみると、その傾向に習うことが実感されます。パルキッズたちは英検を受験するので、その英作文の練習の中で、しかも最初から英語で作文することで、思考を深め「論理的思考力」を身につけていくことができます。
 また、日本語と英語という2つの視点を持てること自体も、「知識」の多さと直接関係するので、これまた「地頭の良さ」に直結していると言えるでしょう。


思春期以前にやっつけるメリット

 「思春期以前」という点に関しては、言うまでもありません。『パルキッズ』は思春期以前の子どもたちを対象としているので、そこで英語を身につけることで、「本来」的な「論理的思考力」も育っていく、と考えることができます。
 さらに「思春期以前」に英語を身につけているということは、小学生から中学生・高校生までの間、英語に煩わされることなく、自然科学や人文科学の造詣を深める、あるいはスポーツや芸術に没頭するという「経験」を積む時間的余裕があることを意味します。これは「理解」を通した「知識」の獲得に資すること大です。

 また、『パルキッズ』を選ぶ親御さんに傾向として共通しているのが「日本語を大切にする」点と思われます。日本語教育に関心がなく「英語」だけに夢中になる保護者も多い中、『パルキッズ』を選ぶということ自体が「論理的思考」の末の「結論」でしょうから、そのような思考の持ち主であるご両親のもとに育つ子どもたちは「日本語」という思考ツールに関しても高い能力を持っていることは想像に易いでしょう。
 「優れた日本語力」を持っている。この点だけでも語彙・知識力と思考力においてパルキッズたちが有利であることは言うまでもありません。


コミュニケーション力と表現力

特集イメージ16 語彙が豊富であると言うことは「思考力」もさることながら「表現力」にも有利に働きます。そして、表現力は「コミュニケーション能力」とも関連した指標です。  豊かな「知識」を元に、思春期以前から「日・英」という2つの視点を持つことは、それ即ち「論理的思考」と極めて親和性が高く、さらに「語彙知識」から得られる「表現力」は「コミュニケーション能力」の下地になるのです。

 早期の英語教育で「表現」のストックが豊富になる、ひいては「コミュニケーション能力」にも優れる。文科省の要求する「思考力・判断力・表現力」も満足させつつ、さらに「地頭」の良いヒトに育つ。
 早期の英語教育と地頭。関係は大ありなのでした。

 さて、いささかまとまり悪く散らかった文となってしまいました。今更ながら、自身の地頭の悪さに辟易としているところですが、いかがでしょうか。「地頭」とは何か。「頭の良さ」あるいは「地頭の良さ」と、早期の「英語」獲得との関係がボンヤリとでも掴んでいただくことができたなら、自らの「地頭の悪さ」を披瀝した甲斐もあるというものです。

 ということで、是非ともお子さまには早い段階で「英語」をやっつけてしまっていただき、「地頭の良い子」に育てていただきたいと、願うばかりです。
 地頭の良さに直結している「論理的思考」「表現力」の具体的な育て方に関しては拙著『子どもの英語「超効率」勉強法』の幻の「第七章」の「英作文実践法」にありますので、是非実践していただければと思います。

【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
勉強する子に育てる方法
子どもの主体性を育てる
「一流」を育てる新条件


【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

1965年生まれ。東京都出身。株式会社児童英語研究所・代表取締役。上智大学外国語学部英語学科卒業。実用英語技能検定1級取得。30年以上に渡る幼児教室・英語教室での教務を通じて幼児の発達研究に携わるかたわら、「パルキッズ」などの英語教材を始めとした幼児向け教材を多数開発。また、全国の幼児・児童を持つ親に対して9万件以上のバイリンガル教育指導を行う。講演にも定評があり、全国各地で英語教育メソッドを広めている。著書に20万部のベストセラーを記録した『たった80単語「読むだけで」英語脳になる本』(三笠書房)をはじめ『どんな子でもバイリンガルに育つ魔法のメソッド』(総合法令出版)『ローマ字で読むな!』(フォレスト出版)『英語の絶対音感トレーニング』(フォレスト出版)など多数ある。

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