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2018年7月号特集

Vol.244 | コトバのチカラ

鍵は読書とクリティカルシンキング

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1807/
船津洋「コトバのチカラ」(株式会社 児童英語研究所、2018年)


特集イメージ1 人類を人類たらしめている要素の中に「言語」があります。人間の言語使用に関しては、太古から様々な考察が為されてきました。その中で分かってきたこともある一方、実際には現在に至るまで分からないことばかりです。ある人は、人類はコミュニケーションのために言語を進化させたと言い、またある人は、偶然身につけたと言います。ある人は言語は人間の本性だと言い、ある人は後天的に身につけるものだと主張します。
 しかし、少し考えれば分かることですが、例えば「何かのために、とある機能を進化させた」というのは眉唾物でしょう。ここに「陸に上がりたい」と願った魚がいたとして、その魚が陸に上がるためにえらを捨てて肺を獲得することなどはあり得ないでしょう。陸に上がった途端に、肺臓を得る前に死んでしまいます。もし生物が「何かを望んで」臓器や身体構造を変化させることが叶うなら、高地に住む人々はそろそろ翼を獲得して空を飛べそうなものですが、そんなことはありません。漁民はえら呼吸ができるようになっていても良いはずですが、そんな話も聞きません。
 他方、すべての進化は偶然と考える説があります。人類はたまたま二足歩行ができるようになり、たまたま声帯を得て、たまたま喉から口や鼻にかけて、いろいろな声を出せるような構造を、一個体に起きた突然変異によって獲得した、という考え方です。そして、その突然変異によって声を得たグループが、たまたま他の種を凌いで増殖した。さらに、そのグループの中から、突然変異によってコトバを使える個体(仮にイブとしましょう)が産まれて、その一個体の子孫が、生存に適していたのかどうかは知りませんが、たまたま他の種と交配したり駆逐したりしながら、現在の人類になったとの考え方です。つまり、言語を獲得した個体は過去に無数にあったかもしれず、その中の我々の先祖に当たるたった1人のイブ(個体)が期せずして我々人類の先祖となったとする立場です。その延長線で考えれば、様々な「人種」などというものは存在せず、我々人類は1人残らず、すべてその1人のイブの子孫である、と、そんな考え方が言語学の世界では広く行われています。


| 人間だけに許された能力

特集イメージ2 身近なものを道具に見立てて使用する動物や昆虫はいますし、それどころか枝をわざわざ折って、しかも整形するなどして道具を作る動物もいます。しかし、人類のように「道具を作るための道具(メタ道具)」を作る生き物は人類だけです。これは火の使用と同じで、かなり高度な思考が必要とされますが、それらの思考を可能にするのが他でもない、言語なのです。
 冒頭で述べたように言語に関しては、様々な考察が為されています。20世紀前半のスイスの言語学者ソシュールは、言語は特定の社会が共有する外界と概念を結びつける体系で、それは人間ではなく社会に存在していて、幼児たちはその社会に育つ中で、その体系を身につけていくと考えました。つまり、それが日本語であったり英語であったりするわけです。ただ、その後のチョムスキーによって、現在では言語は社会の中にではなく、人間の中に存在する体系で、人はコトバの種のようなものを持って生まれてきて、それをコトバにまで育てていく、という考え方が主流となったことは『パルキッズ通信6月号』ですでに述べました。
 もっとも、様々な立場の研究者がいて、言語は本能ではないという主張もあります。ただ、いずれの立場にせよ、幼児がわずかな言語刺激を得るだけで母語を使いこなせるようになることは否めません。研究者がどんなロジックを立てるかとはまったく別の次元で、子どもたちは放っておいてもことばを身につけてしまう、という事実は揺るぎません。  さて、ことばに関しては、必要最小限の栄養(この点『パルキッズ』は最小限どころか良質で大量の英語の栄養です)を与えることで、幼児たちは身につけてしまいます。つまり、概念を言語化して、その言語で、あれこれ思考したり、頭の中のイメージを他者と共有したりします。当然のことながら、それは主に音声を通して行われます。もちろん手話という言語もありますが、一般論として音声を通じて言語を使用します。頭の中であれこれ思いを巡らせるときにも、実際の音声信号として外の世界に放出されませんが、頭の中では音声が鳴っているのではないでしょうか。
 つまり、人類が偶然手に入れた自然な言語使用は、専ら音声に頼っています。ただ音声言語はかなり厳しい制約を受けます。制約もさることながら、言語で表現できることは随分と限定的です。味覚などを言語で表現しようとしても難しい。例えば、味覚表現だけでリンゴとナシの違いを表現することができるでしょうか。甘みの中に酸味がある。形状を加えても、区別は難しい。色彩や食感を加えれば、ようやく表現できるかもしれません。それでは、タイとヒラメの刺身の違いはどうでしょう。見れば分かりますし、目隠しをしても味わえば分かるでしょう。ただ、味の違いを言語で表現するとなると、循環定義(ヒラメの味を表現するのに「ヒラメ」という語を使ってしまう)に陥ってしまうのではないでしょうか。味覚だけでなく、絵画や音楽も言語で表現するのは困難です。
 しかし、制限はあるものの、言語で表現できる内容は無限であることは間違いありません。「メラビアンの法則」では、話者が聞き手に与える情報を「言語情報」「聴覚情報」「視覚情報」に分け、それぞれ「7 : 38 : 55」の割合と仮定しています。それによって「コトバよりも見た目が大切」などと誤った解釈をする向きもありますし、確かに見た目や話し方のトーンによって、同じ内容でも説得力が変わったりします。同じ経済論でも、二十歳の女の子に語らせるのと、スーツ姿の白髪の男性に語らせるのでは、相手に与える印象が違うのは間違いないでしょう。しかし、それでは言語情報は重要ではないのか?といえば、まったくそのようなことは当てはまらないことは説明するまでもないでしょう。思考を他者と交換し合うための伝達の手段としては、言語は極めて重大な力を持っていることは間違いありません。


| コトバを使いこなせる人とそうでない人

特集イメージ3 では、ことばにはどれだけの力があるのでしょうか。コトバを上手に使う人と使わない人では、なにか差が付くのでしょうか?周りを見回してみてください。話の上手な人、下手な人、話が長くて内容が少ない人、言葉数は少なくても鋭いことを言う人、おしゃべりな人、寡黙な人、などなど話し言葉の表出の仕方は人それぞれです。そして、話していれば、どんなに隠そうとしてもその人の知的レベルや思考バイアスは仄かに見えてきます。話せば話すほどに、です。そして、思考がしっかりしていて話が上手な人の意見を、周囲の人々は尊重するようになります。コミュニティーに1人や2人はいる「ものを分かっていそうな長老」となるわけです。
 さて、ここで疑問です。どうも、日本では物静かな、口数少ない賢人が尊重される傾向にあります。「言わぬは言うに勝る」とか、しまいには就活で返答に窮した学生が「男は黙って○○ビール(←古すぎて分かりませんか)」と言って、内定を取ったという都市伝説があるとかないとか。いずれにしても日本では「沈黙は金、雄弁は銀」に見えるように、雄弁よりも沈黙に重きを置く傾向が見られます。しかし、本当にそうなのでしょうか。例えば、相当な地位を得た人との対話の中で、その人が沈黙を貫いたなら、「自分の意見は間違えているのか」とか「コメントにも値しないようなことを言ってしまったのか」などと考えてしまうでしょう。その意味では重みがあることは確かです。しかし、それと同じ事を若者がしたならどうでしょう。つまり、若造が沈黙を貫いても、そこから発させるメッセージには大した重みは感じられず、おそらく「こいつには意見がないのか」「この男はダメだ」と思われてしまうのが関の山でしょう。
 また、一度日本を離れて、アメリカの大学へでも進学すると分かりますが、かの国ではことばを話さない人間は存在しないに等しいと判断されます。日本の学校教育の場では、受け答えが多少苦手でも、それで存在の有無を判断されることはありませんし、質問に対して無言で応答する学生も、少なからず目にします。それでも済まされてしまう風土が、日本にはあるのです。同じような顔かたちの人たちが、同じような生活をしている日本なので、ひょっとすると「他人も同じような考え方を持っているはずだ」という甘えがあるのでしょう。そして、そのような意識から「空気を読む」などという、実体の分からないものを知覚する能力が当然のように日常会話で使われたり、しかも人々に求められたりします。
 では、その空気とは一体何か?実はそんなものは存在しないのですが、無口な日本人の中に、よく喋る人間がいたりすると、「あいつは空気を読めない」と後ろ指を差されたりするのです。このような馬鹿げたことは、アメリカなど多様性の国ではあり得ません。お互い異なる価値観を持ち、異なる意見を持ち、それでもご近所同士、たまたま隣に居合わせた同士、偶然エレベータに乗り合わせたもの同士、たまたま目が合った同士だから仲良くやりましょうよ、というのが多様性文化の人たちの共通(もちろん例外もありますが)の姿勢かもしれません。そして、異なる価値観を持ったもの同士が仲良くやるには、お互いを尊重し、相手のことを知り、自分のことを相手に知ってもらう以外方法はないでしょう。そして、そのコミュニケーションに決定的な役割を果たすのが言語なのです。


| 就活から先は別社会

特集イメージ4 幼稚園から始まり、義務教育、高等教育と進む中で、自分の考えを積極的に発信する子がいる一方、大半の子たちは発信することをまるで恐れるかのような姿勢を保ち続けます。ひとつに「同化」意識が強いことが挙げられます。子どもたちは「人と同じ」が好きなんです。これは日本人に限ったことではありません。仲間意識を共有するために、社会のマイノリティーたちは自分たちの中でしか通じない言葉を編み出します。ひとつにアメリカでの黒人たちのスラングであり、同じ移民グループ内でのジャーゴンです。これはハワイ辺りでも日系人のピジンなどにも見られます。移民の三世にもなれば、もうアメリカ人ですので、標準的な英語も話せますが、グループ内では敢えて特殊な言語使用をするのです。アメリカに限らずイギリスでも同じです。このように、人間はグループに同化する、または帰属することを本能的に望むのかもしれません。
 しかし、それはそれです。小学生くらいまでは、黙って周りの子と同じように振舞っていれば許されるのかもしれませんし、インターネットが登場する以前の情報システム、もしくはまだ地域毎のコミュニティーが機能していた頃の地方では、それもありだったりかもしれません。しかし、都市ではコミュニティーは分断され、マンションの隣の住人の顔すら知らず、子どもが近所の人に挨拶することを親が制止するような社会構造になっています。今日の日本は、ある意味、アメリカ社会などよりもお互いの価値観が分からなくなりつつあるのかもしれません。この風潮は都市部に限らず地方にも広がっています。そんな社会では、黙っている人間は、それこそ存在しないに等しいのです。ひょっとすると、中学・高校と黙っていても済むかもしれません。大学もその伝で無事卒業できるかもしれません。しかし、社会に出ると、途端に黙りの方略は通用しなくなります。子どもたちは、ある日突然のように、人との話し方を変えることを迫られるのです。
 最近の就活では、グループ面接が当たり前のようになっていて、その場で作ったグループ内での発言内容、話のまとめ方、果たす役割などを観察されます。例えば、「納品されたコーヒー豆のグレードが注文内容と異なる、との指摘を台湾の取引先から受けましたが、あなたたちならどう対処しますか?」などの設問に対して、グループ内で話し合い、プレゼンを行います。まずは、グループメンバーが現状を正確に把握していないと、何も始まりませんし、当面の対応方針と善後策の決定を行うにも、たまたま押しの強い人が無茶な理解をする人だったりすれば、議論はとんでもない方向へと進んでしまいます。それらをうまく調整できるか、また、優れたアイデアを出せるかどうか、そんなところが評価されます。
 ところで、こんな事を学校で教わりましたか?もしくは、今時の大学では教えてくれると思いますか?そんなことは教えてくれないのです。もちろん、大学の授業でも最近インタラクティブな取り組みが流行っていて、議論形式のレッスンも行われてはいます。しかし、そんな中で大学生の議論を聞いていると、まるで命題を理解できていない学生、ちんぷんかんぷんなことを持ち出す学生も少なからず見受けられます。もちろんまともなことを発する学生もいますが、どうにも幼いレベルの発言が多いのです。それでも、発言するだけマシな方で、ずっと黙りこくっている者も少なくありません。発言を求められても、「う~ん」と唸ってばかりの学生もいます。この子たちは大丈夫かな?と心配になってしまうような学生が少なくないのです。


| コトバの研鑽方法

特集イメージ5 コトバの使用にはいろいろなレベルがあるでしょう。切り分け方としては『パルキッズ通信2018年4月号』でも触れた、「生活言語」と「学習言語」の二分です。言い換えれば「日本語」と「国語」の差のようなもので、耳に入る連続音声を分節して理解して、何らかの反応をする能力が「生活言語」で、アカデミックな思考を可能とするのが「学習言語」です。日本人の英語力に足りないのは、まず「生活言語」としての英語力であることも、述べています。さて、そのような分類の仕方がある一方で、CEFRのように「学習言語」レベルの高次の言語使用も、いくつかの段階に分けることができるでしょう。
 最も優れていると考えられるのは、談話のトピックを正しく理解・分析でき、正しいリアクションをロジックに照らし合わせながら頭の中で描き、それを正しく相手に伝えられる、もしくは文字に起こすことができるような言語使用者でしょう。相手にズバリ正しく伝えられるような瞬発力がなくても、文字を通して表現することができれば、それはそれで素晴らしい能力です。話せれば尚良いですね。この辺りまでが、優れたことばの使い方でしょう。意味のないことを長々と話すのは、優れた言語使用ではありませんし、黙りを決め込まれたら、単にその人間がシャイで発話しないだけなのか、そもそも頭の中に何か浮かんでいるのか、いないのかすら相手に分かりません。
 つまり、聞い(たり読んだりし)て理解する、正しく分析する、話し(たり書い)たりするためのロジックをくみ上げる、そして、その上でそれを相手に伝え(たり文字に書いたりす)る、この一連の作業を滞りなく行う必要があるのです。特に、この最後の「伝える」部分に関しては、かなりのトレーニングが必要です。学校での発表であれば、一から順に話せば良いでしょうが、飛び込み営業であれば、一瞬にして相手の関心を引きつけなければなりません。また、同じ内容でも、友人との雑談の場合、外注先あるいはお得意様に話す場合、学生に話すのか、子どもに話すのかなどによって、話し方と話の切り口を次々と変化させなくてはいけないのです。それをトータルして、言語能力と世の中は受け止め、その能力が社会に出ようと思った途端に、つまり、就活が始まると同時に、可哀想な学生たちに突如として求められることになるのです。
 日本人は権威に弱いというか、マスコミに毒されているというか、素直というべきか、どうも得た情報を鵜呑みにする傾向がみられます。もちろんアメリカでもフェイクニュースなどに現れるように、えせ情報を信じてしまう人も少なくありませんが、アメリカ人の場合にはクリティカルシンキング批判的思考のトレーニングを学生時代から経験しているので、日本人よりは随分と情報に関しては大人な対応ができます。
 さて、このクリティカルシンキングですが、これは「批判的な思考」と直訳されて、何でもかんでも批判すれば良いと勘違いしている向きもたまに見かけます。しかし、実際はそうではありません。批判的に考えるということは、「これは本当か?」と突っ込むことなのです。例えば「就活戦線は売り手市場」と聞いて素直に喜んでいるようではダメで、どの業界が売り手市場なのか?結局、売り手が有利なのはサービス業だけなのではないのか?商社やメーカーなどは本当に売り手市場なのか?と考えることなのです。また例えば、大学入試改革で英語入試が様変わりするので、筆記や口述の練習が必要であると耳にして、それは大変だ!と慌てるのではなく、少し冷静に考えてみることです。すると、英語入試改革でその影響を被るのは、極めてわずかな範囲であることが分かります。大学生全体の8割を占める私立大学の一般入試やAO・推薦組にはまったく関係のない話ですし、さらに1割弱の旧帝大レベルを目指すような優秀な学生にもあまり関係ありません。つまり、影響を受けるのは、地元の国公立大学へ進学する全体の15%くらいの学生だけです。「英語入試改革」=「話す練習+書く練習」が必要、といった単純な問題ではない、それどころか多くの受験生にとっては「問題」ですらないのです。


| 知覚と産出

特集イメージ6 どうやら世間では「英語を話せるようになりたい」という表現が流行っているようで、そちらこちらでこの表現にお目にかかります。しかし、これは何を意味しているのでしょうか。そもそも日本人がなぜ英語を使いこなせないのか、その第一の理由は「話せない」からではありません。「聞き取れない」からなのです。しかし、「英語を聞き取れるようになりたい」という表現や宣伝文句にはあまりお目にかからりません。「英語を聞き取ること」などはどうでも良いから、とにかく「英語で話せるようになりたい」というのではれば、もはやロジックが破綻しています。英語を「話せるようになる」ことに「聞き取れる」をことすら含めて代弁させているのであれば、それは納得できないこともありませんが、それでも、表現が正確でないことは自明です。
 さらに、問題は「話せるようになる」ために、何が必要かという点でしょう。文科省が大好きな「四技能」という表現をベースに考えれば、話せるようになるためには話す練習が必要というロジックも成り立たないこともありませんが、それでも、話す練習をして話せるようになるというのは、かなり乱暴な因果関係でしょう。この思考の延長には、聞く練習をすれば英語を聞き取れるようになる、とか、書く練習をすればいつしか名文を書けるようになるといったロジックすら成立してしまいます。しかし、聞く練習をして英語を聞き取れるようになるなら、洋楽好きのすべてミュージシャンたちは英語の達人のはずですし、毎日日記を付けていれば芥川賞も夢では無いことになってしまいます。
 これも繰り返し『パルキッズ通信』で触れていることですが、「産出」の前には「知覚」が必要です。話す前に、聞いて理解できなくてはならない。文章を書く前には、たくさんの表現方法を知らなくてはならない。つまり、たくさんの文章に触れて、様々なジャンルにおける知識を持っていて、その上で、ようやくユニークな思考が頭に浮かぶのです。さらに、そのユニークな思考が正しいかどうか判断するためには、ロジックを持たなくてはなりません。そして、そのロジックをもたらすのは、多くの知識であり、それに基づく思考訓練です。そして、話を整理整頓した上で、適した表現をレキシコン(語彙)の中から選択し、それをさらに魅力的な文にするために、構造や韻律を整えます。むやみに話したり書いたりするのではなく、その前に膨大な量の知覚がないことには、少なくともまともな文章の産出にはほど遠いのです。
 さて、それでは、それら大量の良質の情報に触れる手段とは何でしょう?たくさんの情報に触れて、その中から優れた文体や表現や語を頭の中に蓄えるためには、何が必要なのでしょう?言うまでもありません。「読書」です。ちなみに、会話ではありません。会話は時間も場所も限定的ですし、さらに相手の言語力が優れているとは限りません。したがって、良質の言語に大量に触れる最も優れた教材は、書籍でしかあり得ないのです。そして、大量の読書を通して得た情報と判断力、ロジックを、これまた大量の読書を通して得たレキシコン(語彙・心内辞書)とシンタクス(文章生成の知識)と音韻知識(韻律を整えるなど)をフルに活用して、表出できるようになって初めて、魅力的な言語使用が可能となります。そして、そのような力を持つ学生が、50も100もエントリーシートを書き「お祈りメール」ばかりを受けとる可哀想な学生を傍目に、次から次へと内定を取っていくのです。

 パルキッズの学習は、まず最初の2年間で「生活言語」を獲得させます。そして、読力から読解力を身につけさせつつ「学習言語」を磨いていきます。日々のかけ流しとオンラインレッスン、それに続く絵本の暗唱は、当面は英検準2級につながり、そして、行く行くは志望大学入学、就活での成功へと続く長い道のりの第一歩なのです。目の前の我が子の様子に惑わさせることなく、長いスパンで我が子の成長を眺め、同時に怠ることなく日々取り組んでいただけることを祈っております。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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