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2013年5月号特集

Vol.182 | なぜ、私たちは英語を学ぶのか?

外国語教育のユニークな歴史に見るその理由

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/未分類/tokushu-1305/
船津洋『なぜ、私たちは英語を学ぶのか?』(株式会社 児童英語研究所、2013年)


特集イメージ1 教育再生実行会議が「全ての大学の受験資格の基準としてTOEFL活用」の方針を打ち出したことは、先月号でも少し触れましたが、加えて「京大と九大で教養課程の授業の半分以上を英語で行う。そのために外国人教師の数を増やす。」というニュースを目にされた方も多いのではないでしょうか。
 ご存じの通り、TOEFLとは「留学生が英語での授業に耐えられる能力を、どの程度身につけているか」を測るためのテストですETS (Educational Testing Service)という非営利団体によって運営されています。アメリカなどの英語圏の大学側にとっては、学生がどの程度の英語運用力を身につけているかが一目瞭然なので、とてもありがたいテストです。しかし、このテストはあくまでも英語で高等教育を受ける能力のレベルを測るテストです。
 一方、日本で広く行われている大学入試センター試験。この試験は、「日本で独自の発展を遂げた教科としての英語を、どれだけ身につけているか」を測る試験です。もちろん日本の学生たちは、中高と留学を前提とした勉強ではなく、センター試験をはじめとする「日本の受験システムで通用する」英語力を身につけるために勉強します。
 TOEFLとセンター。両者は全く性質や目的が異なります。センター試験では、リスニングのパートもありますが、基本的な重点は文法や読解に置かれています。TOEFLはリスニングと直感的な英語の把握力が要求されます。センターのようにじっくり考えていては追いつかないのです。
 事実、国際化が進む中では、世界に通用するような人材育成が急がれます。しかしその一方で、一向に実用レベルにならない日本の英語教育。その架け橋として、英語の分野では世界基準であるTOEFLに目をつける…。そのような理屈は分からないでもありませんが、現在の中高での英語教育で得られる英語の知識と、TOEFLで要求される英語力のギャップを埋めることは容易ではないでしょう。現場の混乱は想像に難くありません。
 また、京大や九大の「教養課程を英語で云々」も同様に、国際社会で通用する人材育成を目的に打ち出されたのでしょう。
 ところで英語で授業を行うことに関しては、これに先行して「高校の英語の授業は基本英語で行う」という方針も出されましたね。これも、実現には大変な困難が伴うでしょう。現在の英語の先生が果たして「英語で英語を教える」能力を有しているのか、また中学を出たばかりの学生が、英語で英語の授業を受けるだけの準備が出来ているのかと問われれば、首をかしげてしまうのは私だけではないでしょう。
 それでは大学生ならば、英語で教養課程などの授業を受けられるのでしょうか?
 出来るか出来ないか、結論に飛びつく前に、まず「英語で授業を受けるとはどういうことなのか」を明確にする必要があるでしょう。
 中高での英語の授業では、主に「英語を日本語に訳す技術」を学びます。一方、「英語で」大学の授業を受けるためには、「耳や目にした英語を日本語に訳すことなく、素早くしかも正確に、英語のまま理解できる能力」が必要です
 これは当たり前ですね。テキストを全て日本語に訳したり、先生の言う英語をいちいち日本語に訳すことにかまけているようでは、肝心の授業は遅々として進まないでしょう。
 さて、日本の大学生たちは英語で自然科学を学ぶだけの英語運用力を持ち合わせているのでしょうか?これは、はなはだ疑問としか言いようがありません。
 国際化に合わせた日本人の英語力の底上げを、現行の学校制度に無理矢理当てはめようとするから、このように理屈に合わないことが起きてしまうのかも知れません。
 そもそも、全ての学生に「国際化」に耐えうるだけの英語力を一律に求めることが必要なのか、その是非に立ち戻って、議論されるべき事柄ではないでしょうか。この点に関しては、「英語教育大論争」をはじめ多くの議論が交わされているので、これ以上踏み込むことはしませんが、長きにわたり様々な議論が交わされているにも関わらず、百年一日の如く「日本の英語教育」は続いているわけです。ここ四十年で達成できなかったことをすぐに達成できるとは期待せずに、気長に見守るのが精神衛生上も良いのかも知れません。


| 日本語はユニーク

特集イメージ2 少し気分を変えて、別の視点から日本人と英語の関わり方について考えてみましょう。日本人にとって「英語」とはどんな存在なのでしょう。
 英語という外国語について考えれば考えるほど、その対比としての日本語のユニークさがくっきりとしてきます。そして気の向くままに関連書籍を読みあさっていると、日本人と外国語の不思議な歴史に改めて気付かされるのです。
 日本は文明が出来た時には、既に大陸から地理的に切り離されていました。陸続きで征服したり征服されたりしながら、言語を進化させてきたヨーロッパやアジアとは異なり、被征服者となって外国語を強要されることもなく、日本人は弓なりの島国でのんびりと独自の言葉を築いてきました。言ってみれば、日本人は外国語を身につける必要に迫られたことがなかったのです
 その後、中国に朝貢したり遣隋使・遣唐使を送ったりしながら、中国の文明をせっせと学びます。その中で中国文明と日本語を繋ぐツールとして輸入されたのが「漢字」です。ただ、これも言語としての中国語、つまり音を伴った言葉としての、もしくはコミュニケーションツールとしての中国語ではなく、あくまでも外国の文明を取り入れるための記号、つまり書物に書かれているものを理解する手がかりとしての漢字です。なにやらこの辺、今の学校英語を彷彿とさせますね。
 その後がすごいんです。漢字はその後、日本独自の発展を遂げます。漢字から大和言葉の表音文字としての仮名文字が作られます。また、表意文字である漢字を大和言葉の表す意味に振り当てます。それらは訓読みと呼ばれます。漢字の読みも漢音(男女:だんじょ)だけでなく、呉音(なんにょ)も使われるようになります。1つの漢字に何通りもの読み方がある。そんな状態になっていきます。
 ただ、では、日本人は中国語が読めるか?となると、認識できる漢字は多々あるものの、文章を読める人は稀でしょう。「漢文」などはレ点を入れて日本語のルールに合わせて漢字の順番を入れ替えれば理解は捗りますが、それでは、そのように読んで中国人に通じるかといえば、否。漢字は日本に輸入された時に、日本語の音「いろは」の音に強制的に割り振られて、日本語化しているので、元々の中国語で発音される音ではなくなってしまっているのです。なんだかこのあたりの事情も、日本人が発音する英語にそっくりですね。


| 文化を取り入れるための手段

特集イメージ3 中国文明はもう大体理解した頃、遣唐使は廃止され国風文化が成熟します。その後、時を経て江戸期に鎖国します。ただ、その時代にも外国の文明は書物を通して細々と輸入され続けていました。当時の「外国語」といえば中国語とオランダ語です。特に、医学を志す者がこぞって外国語を通してそれを学びました。方や東洋医学、方や西洋医学です。あくまでも、「海外の知識を吸収するための道具」としての外国語です。外国語それ自体を学ぶのが目的ではありません。従って、発音とかリスニングとか会話などは二の次三の次。読んで理解するために日本語に訳す技術を磨くことに重きが置かれました。どうやらこのあたりに、日本に於ける外国語学習の「型」を見ることが出来そうです
 明治になると、もはやオランダ語ではなく英語がもてはやされるようになります。同時に軍事や法律など日本に合った、しかも世界水準の知識を取り入れるためにドイツ語やフランス語も学ばれます。
 こう言うと「じゃあ今の学校教育とあまり変わらないじゃないか」と感じられるかも知れませんが、これが大違い。これらの外国語を身につけるのはあくまでも手段。つまりそれら諸外国語で書かれた書物を通して、高等な知識を取り入れるために必要な道具として、言語を身につけざるを得なかったわけです。繰り返しますが「外国語それ自体を学ぶ」のではなく「学ぶための準備段階としての外国語学習」。必要に迫られていたのです。
 このあたりも、一部現代に通ずる点があります。言葉それ自体を学ぶために留学している「語学留学生」がまごまごしているのを傍目に、学位取得を目的とする留学生たちは、あっという間に語学を修得してしまうのです。
 この先代たちの努力により、日本語は随分と発展を遂げました。母語の日本語で「高等教育」を施すことが十分なほどに日本語は発展したのです。日本語でほとんど全ての高等教育が受けられるのであれば、追って外国語を学ぶ必要性も低下していきます。


| あこがれ

特集イメージ4 その後敗戦。一時占領下に置かれますが、英語で話すことを強要されることもなく、いつの間にかアメリカ人たちはいなくなってしまいます。でも先進文明の象徴としての「英語」の亡霊は、日本人の心の中に居座り続けます。「英語」に対して、洋楽・洋画に象徴されるようなハイカラで新鮮なイメージを伴った一種のあこがれの念を抱く人こそあれ、嫌悪感を抱く人はあまりいないのではないでしょうか。
 このように英語に対して、ほのかなあこがれの念を抱くのと同時に、日本人は英語を「外国人の英語」のままではなく「日本人の英語」として、進化させていきます。
 英単語から、その本来の意味とは全く関係のない「和製英語」と呼ばれる代物を次々に創り出していくのです。
 例えば、「ナイーブ」「リフォーム」「ドライ」など。英語で人に向かって’naive(世間知らず)’ だなどと言ったら、嫌な顔をされるでしょうし、我が家を’reform(改革)’ すると言ったら戸惑うでしょう。また、彼は人情の薄いやつだ、と言う意味で’dry’ と言えば、彼は(禁酒している)のか、とこれまた誤解を生むでしょう。
 また、いろいろと天才的な組み合わせもします。
 「バージンロード」「ライブハウス」「スキンシップ」などは、言葉のイメージとしてはぴったり来るのでしょう。ただ、これは日本人だけのことで、アメリカ人にこれを言っても「舗装されたばかりの誰も通っていない(virgin)道路(road)」、「皮膚(skin)の船(ship)」、「生き物の(live)棲む家(house)」をイメージさせてしまうでしょう。
 さらに、英単語を変形させて新しい定義付けをしていきます。「リピーター」のお客様を大切に、と言われても、なぜ「常習犯・連続銃・留年生」を大切なしなくてはいけないのか、アメリカ人には分からないでしょうし。あの人は「クレーマー」だ、と耳にしても何の「(権利を)主張」をしている人なのか疑問に感じるだけでしょう。「フリーター」に至っては、もはや英単語の体をなしていません。
 英語に対して、あこがれの念は抱きつつも、このように英語も中国語同様に勝手に都合の良く日本語化させてしまう…。全体、英語は大好きだけれど敬意は全く表していないのです。  もはや学ぶ道具としては必要ない、でも何か素晴らしいものの象徴としてのあこがれを抱いている。しかし、同時に敬意を持って学ぶのではなく、適当に作り替えて、日本語にしてしまう。考えるほど不思議です。
少し付け加えれば、この英語に対する敬意の無さは、学校教育のカリキュラムにも垣間見ることが出来ます。そもそも私たちは英語を構成する単語や、その並び方のルールである文法は学びますが、単語を構成するアルファベットを正式に学ぶ機会を与えられていないのです。口では「ABCから」と唱えながら、実際はアルファベットの正しい発音の仕方を学んでいません。たった26文字しかないにも関わらず、です。英語を構成する最小単位の音を真摯に学ぼうとせず、闇雲にリスニングしたり喋ってみたり、まるで宝のありかを示す「地図」を持たずに、宝探しの冒険に旅立つようなものです。


| 英会話?

特集イメージ3 さて、そんな私たちですが、「英語が苦手」という人でも「英語を身につけたい」ことには変わりがないはずです。でも学校英語では身につかない。「では!」と会話に飛びつく。これは学校では身につかない「リスニング」と実際に話してみる「会話」を実践すれば、英語が使えるようになる、という錯覚に基づいた発想です。
 そもそもこの考え方の根底には「大学に行くくらい勉強をしたんだから、英語の読み書きは出来る!」という誤認があります。この認識は現実とは大きくかけ離れています
 例えば「英文を読んで理解できる」という点ですが、どれだけ多くの大卒者が英字新聞を読めるのでしょうか。英字新聞で難しすぎるというのであれば、『ハリーポッター』など子ども向けの小説でも構いません。「読み書きが出来る」のであればアメリカの小学4年生がスラスラ読める程度の英文は、読んで理解できるはずですが、そんなレベルの英語すら理解できないのが現実です。
 これに関しては、英語は単語単位で日本語に訳し、日本語風に並び替えれば理解できる、という前提に問題があるのです。前置詞や副詞が連続する場合、例えば ‘Let me in on it.(仲間に入れて)’, ‘Are you up for it?(準備は出来ている?)’ などは、中1で習うような単語が並んでいるだけにも関わらず、いくら辞書を引いても日本語に置き換えることは出来ません。また、’She’s seeing him.(彼女は彼と付き合っている)’, ‘Get!(出ていけ!)’ なども、これほど簡単な単語や文章であるにも関わらず、正しく理解できる人は、少数派でしょう。
 つまり我々は、英語を聞いて理解できないばかりか、読んでも理解できないのです。英語を日本語に訳して日本語として理解するには限界があります。英語を本当に理解するためには、聞いたり読んだりする英語を、英語のままで理解できることが―欲を言えば―好ましいのです


| 出来る人はこうやっている

特集イメージ3 英語を英語のまま理解する、と言われても雲を掴むような話だと感じられるかも知れません。ところが、英語が出来るようになった人たちは、どこかの段階でいつのまにか英語を日本語に訳すことを止め、英語を英語のまま理解するようになっているのです。大胆に言い換えれば、英語が出来るようになるとは、つまり英語を日本語に訳さなくなることを意味するのです。
既述の留学生の話で、語学留学生はなかなか英語を身につけられない事に触れました。現に1年間にわたりアメリカに滞在して語学学校に通っているにも関わらず、ひとつも英語を身につけられない人がたくさんいます。これには「日本人同士でくっついてしまうから」というお話にもならない理由もあります。しかし、英語が出来る人たちの共通点を見るに付け、そういった語学留学生たちに決定的に足りないものがあるのです。それは「読書量」。幼児期以降からの学習で英語が出来るようになった人たちは、留学をしたか否かに関わらず、もれなく大量の読書をしているのです
 アメリカの授業は日本の授業のように「教室内」のみで行われるのではなく、「教室外」でも行われます。つまり予習・復習ということ。宿題がたくさん出るのです。とにかく読んで読んで、読みまくることが要求されます。留学生などは英語の理解力が低いので、なおのことたくさん読まなければいけないのです。
 これだけ読めば英語が出来るようにならないはずがない!というくらい、英語を読むわけです。つまり、留学生はたくさん「聞いたり、話したり」するから英語が出来るようになるのではありません。この現実は、英語学習者にとっては福音です。英語が出来るようになるために必要なのは、コストのかかる留学や英会話でなく、ほとんどお金のかからない「多読」で済ませることが出来るからです。
 もっとも「多読」が効くことは、ほとんどの方々がうすうす気付いてはいるのです。それにも関わらず実践されないのは、厳しい自己管理を出来るだけの強固な精神力が要求されるからでしょう。そこで「みんなで」できる英会話や留学へと流れていくのでしょう。堂々巡りですね。


| ちょっと変えてもダメ

特集イメージ3 学校英語ではダメだから、英会話へ行ったり、留学してみたり…それでもうまくいかない日本人の英語修得。手を変え品を変え、様々な英語学習メソドが開発されては姿を消していきます。
 すると今度は、学校教育の改革が始まる。文語中心ではいけないから、と口語がふんだんに取り入れられる。日本人の先生では発音が教えられないから、もしくは本場の英語に触れられないから、ということで外国人の教師を増やす。しかし、教科書に会話が増えても、ALTの人数が増えても、一向に学生たちの英語力が上がったという話は聞きません。それどころか、実際に中学生を教えてみると、学生たちの英語力は下がっているのではないか、と感じることの方が多いのです。
 すると今度は「では小学生から」と小学英語がスタートする。「英語のコマ数を増やそう」と中学の英語授業数を増やしてみる。さらには先生の能力を高めようとする。
 それでも、根本的な部分には手をつけていない、つまり「たくさん読ませる」という部分はなおざりにされているので、子どもたちの英語力が改善することは望み薄でしょう


| なげやりに

特集イメージ3 学校では英語は身につかない。市販の教材でもダメ。英会話でも留学でもうまく行かない。さらに学校教育の改善も遅々として捗らない。こんな閉塞感からでしょう、「英語よりもまず日本語でしょう」とか「中身がなければ英語が出来てもねぇ…」などという、投げやりとも、英語が出来る人たちへのやっかみとも取れる意見も出てきます。
 仕舞いには、翻訳機がどんどん進化するから英語なんていらない、といった、もうあきらめの境地といった意見まで聞こえてきます。まるでドラえもんの秘密道具よろしく、科学技術が発展するのを心待ちにする…。なるほど、諦めの心境は、このような悟りの境地に至らせるのかと唸ってしまいます。
 しかし、それでも諦められないのです。
 自分はダメならせめて我が子は!と、今度は幼児に対する英語教育へと突き進んでいきます。


| 失敗を繰り返す

特集イメージ3 しかし、その幼児向けの英語教育の現場も混乱しています。我々が既に失敗したはずの「英会話」を軸にした学習が人気ですし、我々の英語学習があまり楽しくなった反動からか、「子どもは楽しみながら学ぶものだ」と決めつけてかかる風潮があります。
 幼児期には、耳からの学習が有効です。ただ、英語を身につけるには、私たち大人の場合には「多読」が必要なように、子どもたちも「大量に耳にする」必要があるのです。週に数度の英会話だけでは圧倒的に「量」が足りません
 また、「楽しい」レッスンは大いに結構なことなのですが、これが高じると「楽しませなくてはいけない」と感じるようになり、仕舞いには英語を身につけさせることではなく、ただ単に子どもに「楽しませる」だけのレッスンに陥ってしまうのです。
 そもそも子どもが「楽しみながら学ぶ」というのはあくまでも表面的なことで、実は彼らは、彼ら自身自覚しないまま「無意識に学ぶ」のです。
 彼らが日本語を身につける時に、「楽しいから日本語を身につける」とか「日本語が好きだから日本語を身につける」などといったことはなく、全く無自覚のうちに、気付けば日本語を身につけてしまっているのです。しかも、日本語を身につけた後、自分が「日本語を身につけた」ことに気付くことすらありません。
 このように言葉を身につけるというのは、幼児期ではいとも簡単にしかも無自覚のまま行われるのです。子どもに英語を身につけさせようと思った時、親がすべきことは、楽しませることや、好きにならせることや、興味を持たせることではありません。淡々と、繰り返し、大量の英語情報を与えればよいのです


| それでも戸惑う日本人

特集イメージ3 日本人とは、感情を大切にする実に可憐な人たちです。いかに理屈では正しいことでも、嫌いだから、とか好きじゃないから、のひと言でばっさりと否定してしまいがちです。論理性のある国民性なら、どんなに自分の感性に合わないことでも、好きでないことでも、論理性を優先しようとする姿勢を常に持とうとします。しかし、日本人は感情を最優先するばかりか、しまいには論理的に考えることすらしないようです。いや、それどころか論理性を「理屈っぽい」と断じて蔑むことすらあります。もちろん、屁理屈は論外です。しかし、この感情の赴くまま浮遊し続けるやり方は、論理性の高い国際社会では通用しません。そろそろ改めるべき時が来ているのかも知れません
 この「感情の赴くままに」という感性が行動となって表れる時、後先のことを考えずに、まず手前のことから「とりあえず」手をつけていくパターンを創り出します。
 英検受験を例に取りましょう。
 まず教則本を入手して勉強を始めるのが「とりあえず」の部分です。続いて、その後に先のことを想像します。「もし、1次試験が受かったらどうしよう。まだ面接の心の準備が出来ていない」と感じてしまう。すると「まだいいや。準備が出来てからにしよう」と、受験そのものをやめてしまう。
 英検が必要だと感じるのは良いことですし、その後に闇雲に勉強するのは、最善ではないにしてもまだマシです。でも、その後に意味不明の理由でいとも簡単に英検受験を諦めてしまう。ここには筋の通った論理性など、全く存在しないのです。
 これは幼児・児童期の英語学習にも通じます。まず幼児英語教育の必要性を感じること。ここまでは誰でも出来ます。その後、教材へとたどり着く。(パルキッズへたどり着くこと自体は論理性のたまものです)ただ、いざスタートするとなると「親の私が続かなかったらどうしよう」「絵本の暗唱を始めたいけど、こどもが興味を持たなかったらどうしよう」などなど思い悩んで躊躇してしまう。なんとも不思議な現象が起こるのです。
 さて、今回は私たちと英語の関わりについて様々な局面から見てきました。この記事が、「なぜ我が子に英語教育をするのか」また「なぜ自身英語を身につけたいのか」、そして「ゴールをどこに設定するのか」さらに「どのようにゴールを目指すのか」を改めて見つめ直し、再確認しするきっかけになれば幸いです。あとは、目標を持ってしっかりと邁進して頂けますよう祈っております。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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